あの連中も、あんな走りにくそうなバイクで、よくこのスピードに追いつけるものだが、ひょっとするとそこそこの技術は持っているのかもしれない。
(逃げ切れるのか…?!)
 散々下ろせと言った手前なんだが、追われれば逃げたくなるのもまた心情だ。そのタイミングを見計らったように、目の前の男までが追い打ちをかけてくる。
「いーのかなー、ここで下りちゃって〜!」
(っ、くっそー…!)
 どことなくからかうような楽しげな声に、唇をへの字に曲げながら無言でヘルメットの後頭部を睨む。ったくなんてヤツだ。
 この瞬間、この無謀極まりない男が更なる加速をすることはあっても、バイクを止めることはおろか、スピードを緩めることもなくなったというわけだ。――唯一、転倒するまでは。
「っ、バッカヤロー! 転んだらただじゃおかねぇからな!!」
「だーから! アンタは黙って荷物になってりゃいーの!」
(へっ、お荷物ときた)
 そりゃ、そっちから見りゃそうなんだろうけどな!
 ひたすら乗せて貰うばかりで、何の役にも立てていないという思いが裏返って、思考を拗ねたものにする。
 が、そんなものに気を取られているうちは、まだ良かったのだ。

「なっ?! ちょっと! 思いっきり追いつかれてるじゃないですか! もっと速く走れないんですかっ?!」
 さっきから矛盾発言のオンパレードなのは百も承知だが、とても黙ってなどいられない。
「大丈夫! わーざーと!」
(うっそくせぇー!)
 瞬時に思った。だが男はどういうわけか、走りながらヘルメットを脱いでいる。
「これ、被ってろ!」
(ウソだろォ?!)
 後ろに回ってきたヘルメットを反射的に掴んだものの、言外に「そろそろ転ぶぞ宣言」をされたみたいで気が気ではない。
「いーから! 早く被れッ!」
 ノーヘルになった男の声が、風とエンジン音に掻き消されることなく急によく聞こえるようになったが、そんなことまでがかえって落ち着かなくさせている。被ってとりあえずの安全を確保したところで、更に怖さ百倍だろう。本当に今日の俺は矛盾大王だ。
(うわわ、来たーーっ!!)
 だがそこうこしているうちにも、背中を煌々と照らすライトの光量が増えてきて、耳障りな爆音がすぐ耳音で聞こえだしている。その中に混じる、男達の雄叫びや奇声。
 それらが後ろ髪を今にもむんずと掴まれそうなほどの近さにまで迫ってきていると感じて、殆ど本能からヘルメットを被った。
(うっ、きっつー…)
 バイクのヘルメットというものを生まれて初めて被ったが、その窮屈さに思わず顔を顰めていた。まぁブカブカでは、万が一の時に意味が無いのだろうが。
(でも、ホントにいいのかよ?)
 一つしか無いヘルメット、あっさり渡しちまって。
 本人の危険が一気に増したのはもちろんのこと、こんな時でも対向車がぽつぽつ来ている。ライトに照らされた顔は丸見えもいいところだ。もし警察にでも見つかったら、ただでは済まない。
「―――…」
 シルバーメタリックのヘルメットの下から現れた、強化プラスチックのそれを遙かに上回る見事な色の頭髪を見つめる。
 そいつが現れたとき、なぜか目を細めてしまっていた。
 バイクが街路灯の下にさしかかると、向かい風に一直線に靡く髪が、ぎらり、ぎらりと独特の輝きを放っている。
 バックミラーを見ると、さっきまでヘルメットの一部しか映っていなかった所に、色の白い男の顎の辺りが見えている。その形のいい薄い唇の端がきゅっと上がっているように見えるのは…多分気のせいじゃない。
(…しっ、知らねぇからな、俺はっ!)
 ヘルメットは、とりあえず被っておいてやる。けれど。
(お前は、絶対に転ばない。……そうだろ?)
 覚悟を決めたヤツを、他でもない俺が信じてやらなくてどうする。
 ヘルメットがやたらとキツイのも気になるけど、自分とほぼ同じくらいに見える背格好の男のほうが、俺より遙かに頭が小さいとかいうのだけはナシな? などと思いながら、目の前に迫ってきたカーブに慌てて男の腹に手をやった。

(えっ?! あれって…)
 谷川に沿ってうねうねと続くカーブの先…山一つ分向こうで黒い山肌に反射している幾つかの赤い光が見えて、ヘルメットのシールドを上げた。
(あれって…アレじゃないのか?)
 他の一般車両には取り付けが禁じられている赤い回転灯。つまり警察。どうやら何台かすれ違った対向車の誰かが、見かねて通報をしてくれたらしい。なんて有難い。これで後ろの連中も掴まるか逃げるかしてくれるだろう。
 だが(やれやれ助かった〜、これでひとまず安心だ)と思ったのも束の間。
「え?! ちょっと、なにっ、どこ行ってんですか?!」
 突然オートバイが蛇のようにのたくっていた谷川沿いの道を外れ、ウインカーすら付けることなく左へと曲がって、男の耳に向かって大声を張り上げた。
「ナイショ!」
「ハァー?!」
 なんだそりゃ。
 しかもいきなり左に折れた道というのが、今までとは比べ物にならないくらい細い。山の上にあるらしい人家か何かに通じている私道らしいが、向かいから軽自動車がやってきても対向出来ない狭さだ。しかもあれよあれよという間にアスファルト舗装が荒れたコンクリート敷きに変わったかと思うと、急角度で傾斜がつきはじめ、殆ど真上に向いた状態で駆け上がりはじめた。真っ暗な山林一帯に、エンジン音の唸りがこだまする。
「うわわ、滑るっ! 落ちるから!」
 ただでさえ、振動とスピードで尻が浮いているような状態だったのに、急斜面を登りだした途端、後ろに向かって面白いように尻が滑った。辛うじて男の腹に掴まることで転落をまぬがれているが、彼が俺の体重に耐えられなくなってハンドルから手を離したら終わりだ。その瞬間、弁当箱から落としてしまったおにぎりみたいに斜面を転がれる自信がある。200キロはありそうなバイクが頭上から振ってくるハリウッド映画な絵づらが否応なく脳裏を過ぎって、背筋が寒くなる。
(頼む、早く登り切ってくれ!)
 後ろの連中? 知るか! んなものどうだっていい、どうだって。とにかくここは、オートバイが後ろに人を乗せて来るような所じゃないのだ。殆ど真上を向いているように見えるヘッドライトが、周囲の景色をぼんやりと照らしているが、明かりの灯ってない古びた人家が次々浮かび上がっては、一つ、また一つと後ろへと落ちるように流れていく。騒々しいバイクのエンジン音と、ひっそりしすぎている人家の取り合わせが、より一層不安感を増大させている。
 一刻も早く平らなところに辿り着いて欲しい。ひたすらに念じるのは、もはやその一点ばかりだ。
(でも…)
 もう警察がすぐそこまで来ていて、後ろの連中を無理やり振り切る必要も無くなったのだから、なにもわざわざこんな所に逃げ込まなくてもいいはずなのに、なぜ…? と思ったところではたと思い当たっていた。
「あのっ! ちょっと!」
「あん?! なに!」
 今忙しいんだけど、と言われてそりゃそうだろうと思う。でもこの問いに限っては、後回しにしたくない気分だ。
「ヘルメット! もしかしてヘルメット被ってないから逃げてんですか?! ですよね?! でもノーヘルなのは、事情を話せば何とかなるって!」
「なるかっ!」
 即答。しかも短い返事の前には、あからさまにプッと噴いていて、(こんにゃろ〜)と思う。だが、ひょっとするとこの男、免許証の点数が残り少ないのかもしれない。まぁこんなスピード狂なら、それも大いにあり得る話だ。もし免停になって「通勤にバイクを使えなくなったら…」とでも考えているのなら、罰金は俺が払おう。ただそれでも、点数に関してはどうすることも出来ないのだが…。
「でもっ、だからってこんな所に入り込んだって、逃げ切れるもんじゃないって!」
 潔く自首(?)したほうがいい。どう考えても無理だ。その間にも道はどんどん斜度を増しながら細く険しくなっていて、行き止まりをひしひしと予感させている。自ら袋の鼠になりにいっているとしか思えない。
「逃げてないって〜」
「嘘ばっか! 逃げてるだろ!」
 男ののんびりとした返事に被せる勢いで返した途端、ようやく男の腹に回していた重たい腕がふっと軽くなっていた。徒歩でもどうかというような急坂を登り切り、なんとか平らな所に出たのだ。
(うーわー…なーんも、ねぇ〜…)
 まだ街と呼べる所まではだいぶあるとみえ、一つしかないヘッドランプが鬱蒼とした杉林を丸く照らしている。その手前には、畑だったと思しき荒れ果てたスペース。他に人工物らしきものは何も無い。
「逃げてないって、言ってるでしょ。連中ならもうとっくに電線に引っかかって諦めてるし。残りのヤツも赤灯見てUターンしちゃったしね」
(えっ?)
 慌てて後ろを振り返ったものの、まずは何よりそのスキーのジャンプ競技場のような斜面に目眩がしていた。「あと30センチでいいから前に行ってくれ!」と言いたい気持ちを、片意地だけで呑み込む。
 それにしてもこのすっとぼけたような男、バックミラーで全部見ていた…? あの息継ぐ間もなく次々急カーブが迫り来る状況で? だとしたら、よく後ろなど見る余裕があったものだ。俺など前を向いているだけでイッパイイッパイだった。ちょっぴりだが感心する。
 でもそれはいいとして、こうして登ってしまったからには降りなくてはいけない。さっきまであれほど煌びやかで騒々しい音と色とで騒ぎ立てていた連中の姿も見えないことから、もちろん俺は歩いて降りることにする。例え真っ暗で足下が全く見えなくたって、このバイクの後ろに乗ることを思えばよほど安心だ。
「だからさ、ここからは正しく『林道ツーリング』と言って貰いたいね」
「?? ハ? りんっ…?」
 なんだろう、いま言葉の意味がよく分からなかったのに、言いようのない不安を覚えた、ような。
「ふふ、一度、やってみたかったんだよね」
「ゃちょっと待って? なにを…」
 目の前の男が、今しがた登ってきた道とは明らかに違う、一点の明かりもない山の方を見ていて、彼の顔がいつも一部だけ映っていたバックミラーを見る。と、明らかに笑っている口元が、ライトの明かりにくっきりと切り取られている。
(なっ…なんなんだ、この男…)
 なんだか普通じゃない、ような…。思わず腹に回していた手を、そろりと離す。
 遥か下を走る道路と周辺の闇が、薄赤く染まっている。さっき山向こうから近付いてきていたパトカーだ。でももちろんこんな高い所にバイクが居るとは夢にも思っていないらしく、一瞬で通り過ぎていってしまう。
(これはさっさとバイクなんか降りて、パトカーにでもヒッチハイク頼んだ方がまだ…?)
 徐々に脳内を冷静な思考が占めだしている。
「さーて、どこまで行けるかな♪」
 なのに目の前の男の声は、鬱蒼とした山中を向いたまま、明らかにうきうきしている。
「はァ? どこまでって…いやだから! もう下りていいだろっ?!」
 俺の問いなどこれっぽっちも耳に入っていないような男の独り言に、思わず突っ込む。
(ぁ、もしかしてコイツ…)
 実はパトカーが遠ざかるのを、ここで息をひそめて待っていた…?
 辺りに静けさと暗闇が急速に戻りはじめると、銀髪の男は左の足元にあったバーをガチャリと一つ踏み下ろし、気持ち低く構えた。




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