(あぁぁチクショウ! やっぱりかよッ!!)
 頭の中でヤケクソに叫ぶ。本当はこちらに背中を向けている目の前の男に、正面切って怒鳴り散らしてやりたいところだが、あいにく取り込み中で片時も手が放せない。とにかく今は個人的な私怨はひとまず脇に置いて、目の前のことに対処しなくては、命が幾つあっても足りない。
 再び走り出す際も、男は「掴まれ」の一言も言わなくなっていた。一つしかないヘッドライトが照らしだした目の前の状況を見たら、嫌でも掴まると思ったのだろう。
(実際、その通りっ、だけど、なっ…!) 
 悔しいがまた全力でしがみついている。まだ名前も知らないこの男ことを「得体の知れない、油断ならないヤツ」と認定して警戒したばかりだが、しがみつかずにはおれないのだ。今度の道路は、さっきとはまた全く様子が違っている。
「あぶっ、うわわっ?! ちょっと、ぃたっ! ゃ危ないって!!」
 バイクが首を振った方向には、一本のハイキングコースらしきものが浮かび上がっていた。だが夏の終わりに相応しく、鬱蒼と茂った杉木立の間から様々な植物が伸び出ていたり、だらりと長くぶら下がったりしている。その黒いジャングルの中を、男はさっきから全くスピードを落とすことなく突っ走っている。
「メット被ってるんだから、だいじょーぶ!」
 言いながら、急速に目の前に迫ってきていた折れた枯れ枝を、一瞬で体勢を低くして、まるでボクサーみたいに鮮やかに避けている。
「…ダあっ!」
 だがこっちはいきなり目の前に現れたその横枝に、正面からラリアットだ。手を離さないでいるのが奇跡に近いくらいだが、さっきからこんなことをもう何度繰り返しているだろう。ライトの照らしている範囲は酷く狭く、視界が極端に狭められているせいで、見ようによっては戦闘系のアーケードゲームみたいだが、蔦や枝がバンバン体にぶち当たってくる衝撃は、間違いなくリアルだ。
 その間にも、男は凹凸の激しい未舗装路を運転しながら、同時に真正面に勢いよく迫ってきた何かの蔓を片手でバシッと振り払っている。道はどこまでも曲がりくねって、ライトに障害物が映ったと思ったときには、もうすぐ目と鼻の先まできているというのに、運転しながらよく払えるなと感心はするのだが、すぐ右側は延々と続く急な斜面だ。後ろで見ている者としては、気が気ではない。
「あぁもうっ! どこっ、向かってんですかっ!」
「どこって、東南東!」
(そうじゃねぇだろ?!)
 男はわざと答えをはぐらかしている。いやそうとしか。だってこんな真っ暗なハイキングコースを爆走していて、方角なんてわかるわけない。
(ひょっとして…)
 そうやって俺が後ろで戸惑うのを、楽しんでいたりするんだろうか。だとしたらかなり嫌なヤツだ。
(おっ…お前がちょっとくらいバイクの運転が上手かったってなぁー!)
 俺は、絶対、褒めてなんかやらねぇんだからな!

「あ〜っと、ねぇ、ちょっと動かないで〜」
「なんでっ!」
 一声怒鳴ってカッカしながら前方をキッと睨み付けた。…ものの、そのまま息を呑んで固まってしまっていた。川だ。幅二メートルくらいの小さな谷になっているが、橋がかかっている。
(――丸太、一本だけの…!)
「ムリっ、絶対無理ッ! 降りるっ、降りるから!!」
 腹に回していた手でベルトを掴んで、今すぐにも止めるよう促す。こうなったら実力行使だ。
「だぁーいじょーぶ! いーから、動かないで」
 へらっとした口調で、「オレ、一本橋けっこー得意なのよ〜?」と言ったかと思うと、ステップに両脚を乗せたまま、ひょいと腰を持ち上げている。自転車で言うところの立ち乗りというやつだが、どうやらこのまま丸太を渡る気でいるらしいことに目眩がする。しかもこっちは掴まる場所を無くして、もう「落ちたらどうしよう」としか考えられない。
(いっ、いまバイクから飛び降りた方が、まだ…)
 でも左側はいかにも固そうな杉がびっしりと立ち並び、右側はどこまでも落ち込んでいる急斜面だ。ジーパンに包まれた野郎の小さな尻がすぐ目の前にきていて、普通なら目障りなことこのうえないはずなのに、脳裏では「落ちたら」しか回ってない。落ちたら…落ちたら…
「まっ、タイヤをね、乗せちゃえば、いいわけだから」
 車体を30センチはあろうかという太い丸太の直前で減速させた男が、わけの分からないことを呟いている。だが丸太は半分近くが土に埋まってはいるものの、例え自転車だって下りて持ち上げなければ、とても乗せられない高さを残している。それを、渡るだぁ? 徒歩のハイカーだって、どうかしたら年に何人かは落ちていそうだというのに。
「あばば、待って! 降りるっ、降りるから止まって! 止まれ!」
 さらに橋に近付くと、思った以上に谷が深いことがわかって力が抜けた。五メートルの高さから落ちて男とバイクに振ってこられたら、とてもじゃないが無事でいられる気がしない。
「ダーメ。――ま、いーから。そこで見てて」
 この根拠不明の余裕は、いったいどこから来るのだろう。聞いても何の不安解消にもならない。むしろ恐怖心ばかりが悪戯に募っていく。悔しいが、今だけは一個の荷物になりたい気分だ。
(こっ、こんなのっ、信じろって方がどうかして…っ、――あああもう〜っ! …いいかッ! お前は転ばないぞっ、絶対ミスらない! 多分…いやいやきっとやれる! 必ず渡りきれるぞ! いけー! いってくれーっ!)
 野郎の尻を前にして、ひたすら念じる。
「…ッ!」
 ドンッという、タイヤが丸太に突き当たるぐにゃりとしたショックが車体を通して響いてきて、よりぎゅっと固く目を閉じた。丸太に乗り上げたのだろうか、わからない。いま目を開けたら最後、不用意に騒ぎだしてしまいそうで、じっとしていられない自分を必死に抑え込む。ヘルメットの中が、男に回した手が、バイクに跨がった両の足が、もはや心臓になって鼓動している。
 ドッドッドッというバイクのエンジン音が、静まりかえった谷あいに跳ね返り、真っ暗な一帯にことのほか大きく響いている。と、再びすぐ真下からズンという衝撃がきて、幾らも幅のない丸太の上に、それより更に細いバイクの後輪が乗り上げたことがわかる。この男、本当にやる気だ。
(こっ…こいつ…!)
 単に興奮してイカレきっているだけなのか、それとも万に一つもとんでもない度胸と技量の持ち主だったりするのか。
 いずれにしたって到底理解など出来ない。けれど、この不安定な機械が、一蓮托生の乗り物だってことくらいはわかる。 
(やれるもんなら、やってみやがれ!)
 覚悟だけは決めてやったぞ!

「――…っっ」
 必死で息を詰めていると、「渡ったよ〜」という、緊張感の欠片も感じられないようなのんびりした声がして、強張っていた全身から、どっと力が抜けていく。
「へ…? やっ、やった? ホントに?!」
「うん」
 恐る恐る目を開け、おっかなびっくりヘルメットのシールドを上げて後ろを振り返ってみる。と、確かに川を越えている。信じられない。
「――はあぁぁーーーーっ…!」
 我が人生史上、最長最深の溜息発射。
「っ…飛んだんじゃ、なくて?」
「ははっ、いーね。じゃ次、それでいってみよっか〜」
(こっ、コイツ…!)
 無邪気にケラケラッと笑われて、カチンときていた。人とはどこまでが本気でどこまでが冗談なのかがまるでわからないと、やり場のない不安が怒りに転じるものらしい。
「うわー怖い顔。そんな怒んなくたっていいでしょー」
 こちらに向かってチラと目線をくれた男が、小さく肩を竦めている。そして「こんなに楽しいのに〜」と、またヘラヘラ。どうやら俺はこの男と、とことん反りが合わないらしい。
 そう、要するに、キ・ラ・イ・だ!


(――あれ、もしかして…?)
「…抜けた…?」
 バイク以外の人工物が全くない、ただひたすら有機的だった濃い緑色の世界がいきなりぽっかりと開けたかと思うと、出し抜けに白いガードレールにヘッドライトが反射して、思わず目を細める。
「ね」
 いつ終わるとも知れない未舗装の林道を抜け、唐突に一般道に出ていた。周囲はまだ街というには程遠いものの、ぽつぽつとではあるが人家も見えている。出る時は入った時よりよほどスムーズで、余りの呆気なさに拍子抜けしていた。
「メット、返して」
 路肩にバイクを止めた男が、こちらを向かないまま手だけ回して出してくる。さっきより声がつっけんどんでつまらなそうに聞こえるのは、気のせいだろうか。
「ぁ…はい」
 言われるまま慌てて脱いだ。
(ぷはあ、開放感っ!)
 まるで一仕事終わったみたいな。しかも脱いでみて初めて気付いたが、自分は髪を高く括ったままヘルメットを被ってしまっていた。そりゃあキツイに決まっている。俺の頭がでかすぎじゃなくて良かった。
(――でも無けりゃ無いで、心許ないもんなんだな)
 男の運転技術が、危惧していたほど未熟でないことは、その後何となくではあるものの感じていた。突然目の前に現れる狭い急カーブ、直進を阻んでくる深いわだち、段差、急斜面…、どれも例のヘラヘラでもって、いともあっさりクリアしていた。もちろんだからといって、後ろに人を乗せたままそんな危険行為をしていいということにはならないわけだが。
 手渡したヘルメットに、真新しい小傷が無数に付いているのが遠くの外灯の明かりに透けて見えて、(あぁそうだったのか)とも思う。途中で彼が俺にこいつを被らせたのは、転ぶことを予感したからじゃなかった。
(全ては、障害物の多い薮を走るため…)
 薮は特殊な例かもしれないが、やはりバイクにはヘルメットが必要なんだなと改めて思う。図らずも生まれて初めてのバイクがノーヘル乗車だったわけだけれども、だからこそよくわかった。
(あの暴走族の連中も、転んで怪我なんかしてないといいけどな?)
 何が起こるか一寸先もわからない暗闇の林道に比べたら、この先の明るい一般道は楽勝もいいところで、余裕からかあれほどカッカしていた連中のことも、すっかり水に流れている。

「アンタ、家どこ?」
 髪を結び直していると、男がヘルメットを被りながら聞いてきた。
「や、いいです。タクシー探しますんで、適当な所で下ろしてくれれば」
 家まではまだ相当にありそうだが、平日の夜だ。少し粘ればつかまえられるだろう。
 ちなみに上京してきて数年が経つが、いまだに土地勘は残念なくらい全くない。財布の中に入れている電車の乗り換えマップは、いまでも手放すことの出来ない必須アイテムだ。そして『終電を逃してしまったなら始発待ちかタクシー』と、都会の相場は決まっている。
「あの、大体でいいんですけど、ここって…関東のどの辺にあるんですか?」と聞くと、ヘルメットの奥で男が俯き加減に苦笑いをしている。悪かったなぁ方向音痴で。デパートのトイレから出てきたって、毎回必ず逆方向に歩いていっちまってるさフンッ!
「あのさ」
「はぁ?」
「タクシーの代わりしたら――奢ってくれるんじゃなかったっけ」
(ぇ…)
「ぃゃでもっ、ヘルメットが」
 言って男の顔を見たが、黒いシールドをすっかり降ろしてしまっていて、表情は全く読み取れない。
「――メットがあれば、奢ってくれんの?」
 

     * * *

 
「こんなんでーっ、ホントーにっ、大丈夫なんですかーっ?!」
 ひょうひょうと風が耳元を掠め飛んでいく中、右手で男の腹に掴まり、左手で頭に被った白いものを押さえる。でないと、一瞬で「飛んでいって」しまうから。
「ま、何とかなるデショ!」
(知らねぇぞ〜俺は〜!)
 男は、よほど腹を空かせていたのかもしれないが、とんでもないことを提案してきていた。コンビニにあるおでんやラーメンを入れる大きめの容れ物、あれを一つ貰って来るや、「これ、被ってて」と、何食わぬ顔で手渡してきたのだ。
「やっ?! ハあァ〜?! でもっこれじゃあ…」
「だいじょーぶ。らしく見えるから」
(らしくって…)
 それじゃダメだろ。
 ラーメンなら、わざわざ電車を乗り継いで食べに行くくらい大好きだが、まさか容器を頭に被ることになるなんて思ってもみなかった。
 とにかく断り切れず、こうして被って乗ってしまっている俺も俺だ。もし警察に掴まってこっぴどく絞られたなら、一緒に謝るし反則金も素直に払おうと思う。




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