再び一般国道を走りだした男は、その後も目立つ大通りを避けながら、一本裏の交通量の少ない道路を走りだした。大通りよりは明るくないから、確かに遠目には「それらしく」見えなくも…ない?
「ま、派出所の場所くらいは覚えてるから。あとは運だーね」と言ってけろっとしているところをみると、こんなことはしょっちゅうやっているのかもしれない。ワルイな〜。(俺もな!)
 それにしても、バイクというのは赤裸々な乗り物だ。今まで殆ど、全くというほど気にもかけていなかったが、後ろの車はもちろん、すれ違う車のドライバー全員が自分を見ているような気がしてならない。
「ええぇ! やっぱこれ、マズイいんじゃ〜!」
 信号待ちで何気なく目をやると、明かりの消えたショーウインドにバイクの後ろに乗った自分の姿がくっきりと映っていて、その姿に思わず笑い混じりの大きな声が出ていた。車ならそこまで大したことにはならない格好でも、バイクでは時に大ごとだ。大きなバイクの後ろでラーメンのスチロール容器を被って公道を走っている姿なんて、間違っても塾の生徒や親御さんや同僚に見せられたものではない。
「気のせい気のせい〜」
 自意識過剰なだけでしょ、と言う声に「ぶはっ、そんなんじゃねぇってー!」と笑ったところで信号が青になった。再びエンジンの回転数が上がりだし、バイクが風を伴って走り出す。と、今話していた全てが、まるで交差点に置いてきたかのようにきれいに流れ去っている。もしこれが車だったら、果たしてここまで笑い飛ばせたかどうか。
(不思議なもんだなぁー)
 見ず知らずの人とこんなにも距離が近いのに、ぜんぜん嫌じゃないなんて。車なら話題に詰まったら最後、居心地のひとつも悪くなりそうなものだが、そんなものは気配も感じられない。それどころか、かつてなく清々しくて風通しのいいこの気分は、いったいどこからくるんだろう。まるで余計な不安や取るに足らない思いの全てを、オートバイが加速をしながら振り払ってくれているみたいだ。
(ははっ! いいぞ、もっと飛ばせ〜!)
 途切れることなく顔にぶち当たってくる晩夏の大気を、深呼吸して胸一杯に取り込む。
 今なら自分に降りかかってくるもの全てを、心の底から笑い飛ばせそうだった。

「あのっ、ファミレスでいいんなら」
 道路の両脇が店舗の明かりで明々と照らされるようになってきた頃、信号待ちになるのを見計らって声を掛けた。乗ってみて思ったが、バイクは車より随分と早く進む。信号に引っかかるたび、バイクは車の間を縫って最前列へと出ていき、青になると同時に真っ先にスタートを切る。ここが東京のどの辺かはわからないけど、あまりぐずぐずしていると、家に着いてしまいかねない。
「―――…」
 男は返事をしなかったものの、すぐに左のウインカーが点滅しだして、二人と一台は煌々と灯りの点った広い駐車場へと入っていった。


     * * *


「――いやあの、もっと注文しないんですか?」
「あぁ」
 男はひと通りメニューを眺めていたはずなのに、注文したのがホットコーヒー一杯だけで面食らう。まさかそんなことをするとも思ってなかったから、こっちはガッツリラーメンセットを頼んでしまったというのに。
「あの、俺の奢りなんで。遠慮無く食って下さい」
「うん」
 言いながら、出されたおしぼりでナチュラルに顔を拭いていて、自分と幾らも年は変わらないように見えるのに、オヤジみたいだなと思う。まぁでも確かに土が剥き出しの薮を延々走ったから、汚れてはいるだろう。やっぱ俺も一緒に拭くか? うーん、でもなぁ〜?
「俺、持ち合わせならそこそこあるんで、ホントに遠慮しないで下さい。…ってもしかして、あんま腹減ってないんですか?」
 しかもようやく明るくて暖かい店に入って、ずっと背中越しだった男と初めて向き合ったというのに、バイクを降りた途端、どうも会話がパッとしないでいる。男が上の空というか、愛想が無いというか…、ひょっとして機嫌でも悪いのだろうか。
「ん、あんまり」
(腹はぜんぜん減ってない。――のに奢れってか?)
 わからん。ますますもってわからん。
 さっきから返ってくる返事も、素っ気ないを通り越してぶっきらぼうに感じるし、何となくこちらと視線を合わせないようにしているようにも思える。よって、これが指名手配犯とかでないのなら…
(もしかしないでも、かーなーり変な人…?)
 まぁあんなムチャクチャなことを、次から次へと嬉々としてやってのける男だ。
(あり得るあり得る〜)
 自分が遠慮の欠片もなく、こうして男の顔をまじまじ見てしまっていることは、すっかり棚に上げているわけだが。
(もしかして、モデルか何かやってる? いや、芸能人か?)
 そっちの方面は全く詳しくない…というか、疎いといって何ら差し支えないレベルだが、失礼ながらそれ以外の職業が思いつかなかったりする。というのも、バイクから降りるや、夜なのに随分と濃い色のサングラスをこちらに背中を向けた格好で掛けていて、その仕草に何となくピンときていた。百歩譲ってそれはライダーの定番ファッションだったとしても、さっきからバックミラーの一角に映っていた鼻から下の造作も、こうして改めて見てみると、一般人のそれとは明らかに異なっていると思うのだ。加えて透けるような色の白い肌、高身長、見事な銀髪。要するに、やたらと目立つ男前ってやつだ。くっはぁ〜。
(それにしては、服装が地味な気もするけどな?)
 でもこれだって、真にお洒落な人というのはさり気ないのが基本だったりするんだろうし? 悲しいかな、そっちも全くの門外漢だから、あくまで想像だが。
 よってスモークシールドやサングラスで念入りに目を隠しているのは、ちんちくりんアイズだからだと勝手に思うことにする。
(いずれにしても、だ)
 危ないところを助けて貰ったうえ、送ってくれようとまでしているのだ、大したことは出来ないが、お礼はさせて欲しい。
「あのっ、本当に、ありがとうございました!」
 俺、海野っていいます。と名前も名乗ったが、向こうは「ああ、そういうの、もういいから」と言ったかと思うと、さっさと席を立ってどこかへ歩き出している。
「ぇ…?」
 その気持ち猫背の後ろ姿を、半ば呆気にとられながら目で追う。
(――って、なぁんだ、トイレか)
 急にどこに行くのかと焦ったが、考えてみればそこしかないだろう。
(うーーでもなんだろうこの空気)
 耳を塞ぐヘルメットも、けたたましいエンジン音も、風鳴りもなくなってようやく向き合ったというのに、かえって話しにくいなんて。


「――ぇっと…すいません。じゃあの…頂き、ます」
「どーぞ」
 その後、二人の間に料理が運ばれてきても、会話は空回りを続けている。
 そんな中でも、彼が名前を名乗る気がないらしいことはわかった。
 俺を家まで送ったら、そのまま何も言わず、何も受け取らず、あっさり立ち去る気でいるのかもしれないことも。
(ここのラーメン、結構旨いのになぁ)
 でもこっちは食べながらも、釈然としない。器を傾けながら、ちろりと向かいの男の姿を盗み見ると、手持ち無沙汰なのか、コーヒーに付いてきたシュガースティックを指先でいじくり回しながら、窓の外に置いてある自分のバイクをぼんやり眺めている。時折目の前の道路を派手な音を立てながら大きなオートバイが通り過ぎていくと、その姿を目だけが追っていく。ブラックのコーヒーを静かに一口。サングラスの脇から僅かに見える、眼孔の落ち窪んだ彫りの深い横顔は、見まごう事なき大人の男のそれだ。ひょっとすると、俺より年上かもしれない。
(この人…)
 さっきバイクに乗っていた時は、こりゃあまだ十代のやんちゃ坊主だなと信じて疑ってなかったけれど、どうやら興奮の最中の思い過ごしだったらしい。今では余りの落差に、さっきまで風を切っていた男と、目の前にいるこの男は同一人物なんだろうかまで思い始めている。
(それとも…)
 バイクに熱く火照らされた体を、黙ることで冷まそうとしていたりするんだろうか。
(…ははっ、なーんてな?)
 幾ら好きだからって、温泉とオートバイを一緒にしちゃいかんだろう。
 そもそもこの男をこれ以上格好良くするのは、如何なものだろう? 彼を勝手にちんちくりんアイズに仕立て上げている俺の嫉妬心が、ささやかながら抵抗している。珍しいことに。

「バイク」
 器の中のものをきれいに平らげ、水を一口飲んだあとたずねる。
「?」
「オートバイ、もう長いこと乗ってるんですか?」
 余り話をしたくないらしい男には悪いが、俺は根っからの質問魔だ。生徒にも閉口されているが、改められそうにない。
「ああ」
「どのくらい? 確かバイクって、十六から免許取れるんですよね?」
「そーね」
(って、う〜〜ん??)
 この「そーね」は、一体どの問いにかかっているのだろう。判別しづらいが、勝手に十六から乗っているということにして話を進める。仮に十年の運転歴としたら、もうベテランだ。
「俺、バイクのことはからっきしですけど、その…レースとか、出たりするんですか?」
「は?」
 男の細い眉が、片方だけ上がってサングラスから見えたことで、自分がいかにも素人丸出しの、的外れな質問をしてしまったらしいことに気付く。考えてみれば、世のバイク乗り達がそんなにこぞってレースをしているわけがない。バイク=レース思考は余りに短絡過ぎだ。でも本当に、オートバイなんて縁がないんだから仕方ない。多分俺に一番近しいバイク乗りは、週に数回郵便物を配達してくれてる局の人だ、間違いない。
「ま、たまに」
「やってんだ?!」
 だが意外な返答が、ごく何気ない調子でかえってきて、思わず口元が笑ってしまう。何だか今、違う世界のドアが少しだけ開いて、向こう側がチラと見えた、ような?
「じゃコーナーで転んだりとか?! がっしゃーんて?」
 はい、これも素人丸出しの質問です。とにかく今まで、身近にライダーと呼ばれる人種がいた試しがないから、全く勝手が分からない。車やオートバイなどの乗り物類についても、昔から余り…というか殆ど興味が無くここまできている。かといって嫌いなわけでもないけど、TVで目にすることはあっても、興味が無いからただ目に映っているだけの状態だった。つまりは、知るための縁が無かった。
 でもこうして、当事者の口から直接聞けるのなら。
「まぁ…?」
「あ、だから? だからあの暴走族の連中も、なかなかついてこれなかった?」
 今思い返してみれば、確かにあの時の走りは尋常でなかったようにも思える。ハイ、これも全くの素人印象ですが。
「ゃ、それは…」
 ここまでくると、男もド素人相手に何と返したらいいものやらといった様子だ。なら路線変更。
「えと、じゃあ、じゃあ、さっき走った何の道案内も目印も無いような、とんでもなく細くて険しい、獣道みたいなハイキングコースが」
「――なんで一般道に再び繋がってると、知っていたか?」
「ぁうん。そう、それ!」
 ここにきて男のノリが少し良くなってきたようで、何だか嬉しくなる。実はこの男、愛想が良くないだけで、言うほどおかしな人でもなかったりするんだろうか? むしろ俺の方が余りに何も知らなさすぎで、彼の話相手になれてないだけだったりする?
「それは昔乗ってたバイクで、あの辺を走ったことがあるから…ってあのねえ? その時はちゃんとオフロードバイクで走ったに決まってるでしょ」
 俺の呆れ顔が相当あからさまだったとみえて、男のトーンが一段上がっている。オフロードバイクというのは、多分山道を走る専用のバイクのことなんだろう。




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