だがそのあとに続いた、「あのバイクは、今日納車されたばっか」という言葉に、ハッと胸を衝かれていた。
「えっ…今日…?」
(手に入れた、ばかりなのに…?)
 なのに、あんな危ない場にわざわざ割って入って、車体に傷がつくのも承知で、獣道にも入ってた…?
「あぁもう、食べたんなら行くよ、まだバイク代払ってないんだ」
 男は「早く行かないと、店長にどやされる」と呟いたかと思うと上着を掴み、まるでこちらの問いかけを遮るようにして立ち上がっている。
(えぇ、どやされるって…なんでそれ先に言わないんだよ?!)
 残っていたコーヒーを勢いよく流し込み、大股で歩き出した背中を追いかけた。


     * * *


「あのっ、俺が払います。――払わせて下さい」
「いい、自分で払う」
 ブルゾンの内ポケットから財布を取り出そうとしている男を遮って、応対に出てきた女性定員と向き合う。
「別に、いいって」
 だが「そんなつもりで言ったんじゃない」、と後ろの男は譲らない。
「いえ、約束したことは守る主義なんで」
 急いでいるはずが、なぜかレジ前で押し問答になっている。
「いいからどいて。…ぁ、別々でお願い」
「いえっ、一緒でお願いします!」
 自分でもびっくりするくらいの勢いで打ち消す。
「だからいいって。どこの誰かも知らない人に、奢ってなんか貰いたくないしね」
 だが続いた彼の言葉に、カチンときていた。それは正論であればあるほど、俺の中のどこかに引っかかるものだったのかもしれない。とにかく、考えるより早く口が喋りだす。
「そのどこの誰かも知らないヤツを助けたのは、どこの誰なんですか?」
(貸しを作るだけ作っておいて、知らん顔なんてさせるか!)
 今度はレジに背中を向けて、まるで立ち塞がるようにしてぐっと睨む。
「いーじゃない、いつまでもそんなことに拘らなくたって。自分の食べたものくらい、自分で払うって」
「ハッ、そんなこと? あんたにはたかがそんなことかもしれないけど、俺は違うんだ」
 ついでに言うと、金額の多少でもない。次の人がじりじりしながら待っていようと、レジの女性が困惑していようと、男が明らかな「面倒くさい」という表情をしていようと、それだけは言わせて貰う。
「ちょっ…、もう〜こんな所で揉めるのやめて」
「じゃあ、約束通りで」
「…あーハイハイ、――ご馳走様でした」
 最後には俺の頑固っぷりに彼が渋々折れた格好だったが、あんな状況で交わしたものでも約束は約束だ。最初っから大人しくそう言ってくれれば良かったのだ。
(だって、こんなにして貰っておいて何もなしじゃ、別れられないだろ?)
 そんなことをしたら、きっと明日の目覚めが良くない。朝起きて、窓から下を走る国道を見下ろしたとき、眼下を行き交うバイクを目にするたびに後悔しそうだ。
 けれど店を出て、どこか古めかしい感じのするオートバイのエンジンがかかった途端、(おや?)と思った。ずっと二人を乗せてきた鉄の塊が息を吹き返した気配に、何となくだけれど、それまで固かった空気が少しずつ解されていく、ような…?
 ひょっとすると、彼もそんな風に感じているのだろうか?
「このバイク、なんていうんですか?」
 どことなく近未来とレトロが交錯しているような独特の印象の車体を、改めてしげしげと眺める。バイク好きらしい彼にしてみれば「やれやれ、ようやく俺の相棒に気付いたのかよ」ってところかもしれないが。
「スズキのGSX750S2」
「へぇ〜ナナハン? なんだ? でもさっきの人達、カタナ? とか、なんとか?」
「あぁ、そう」
 それがこのバイクの通称なのだという。言われてみると、確かに滑らかな直線の多いシルバーボディーは、どこか日本刀を思い起こさせた。何となくレトロと感じたのも、そのせいだろう。
「え、そんな昔のバイクなんですかこれ?」
 なのに、発売されてからもう四半世紀が経つと聞いて驚いた。どこもかしこもピカピカで、とてもそんな古いものには見えない。
「ん、確かにね」
 彼もその意見には同感らしい。銀色のヘルメットが、駐車場の照明に小さく頷いている。
「でもこれさ、当時はあんまりにも革新的なデザインすぎて、発売して暫くは整備不良車だろって、よく警察に止められたりしたらしいんだよね」
「へぇー」
「整備不良っていうのはさ、さっきみたいなバイクに言って欲しいよね」
 いいながら、男はシルバーメタリックのタンクを、黒い革手袋越しにそっと撫でている。もうさっきまでの険悪な空気はどこにもない。
(ホント、不思議だな…)
 こいつはガソリンで走る、単なる古めかしい機械のはずだ。
(なのに、それだけじゃない、何かを持っている…?)

「とりあえず、ショップに寄って貰うよ」
「あ、はい」
 慌ててラーメン容器を被りながら答えると、シールドを下ろしたヘルメットの奥で、男がくっくと笑っている。
「っ、そっちが被れって言ったんじゃないですかっ」
「知ってる」
 バイクに跨がり、腹に手を回しても、まだ失敬な振動が伝わってきている。たぁく、なんなんだよっ。
(ぉっ、お前なんかなぁ!)
 警察に見つかって、思いっきり切符切られればいいんだ、このやろ!


「あ、ホラ」
「は? なんです?」
 再び裏通りを走り出して、二度目の信号待ちで停止した時、男が道路脇を指さして、街明かりに目を凝らした。
(んん〜? なんのことだよ?)
 黒い革手袋が指さしている方向には、シャッターの閉まった商店しか見えない。
「メットのバージョンアップ、出来るよ?」
「はっ?」
(ヘルメット…?)
 言われてもう一度見る。と、店先に、『ご自由にお持ち下さい』の張り紙があり、プラスチックの植木鉢が幾つも重ねた状態で置かれている。その一番上に、半球型の鉢に白い吊り手の付いた、ぶらさげて飾るタイプのものが一つ乗せられていて、思わず鼻の穴を膨らませた。
(ふんッ、あんなしょうもないものにまでよく目がいったと、その点は褒めてやるがなぁ!)
「しーまーせんっ!」
 誰が被るか、バカ野郎。
「悪いけど、俺はこいつが気に入ってるんでっ!」
「そうなんだ〜?」
(くそう、また笑ってやがるよ)
 腹筋を通して人が笑っているのを察するっていうのも、あんまりない体験と思うが、なんだか面白…いやいや癪に障る。

「あーのーっ!」
「んーー?」
「こういうことっ、しょっちゅうやってんですか〜?」
 再び信号が青になり、オートバイが流れに乗ったのを見計らって、ふと何気なく湧き上がってきた疑問を投げかけてみる。「こういうこと」というのは、違反行為のことだ。もちろんこのノーヘル行為もそうなのだが、さっきバイクに跨がろうとしたところ、後ろのナンバー部分に茶色いガムテープがぺたりと一枚張ってあるのが目に留まっていた。その際彼の方も見たのだが、さっと背中を向けるやそそくさとヘルメットを被っていたから、恐らく気付いているはずだ。このガムテープをいつ、どのタイミングで貼ったのかは知らないけれど、警察に掴まらないようにするための周到さは、その場で初めて思いついたものではない気もする。もちろんそんな彼に助けて貰ったのだから、責めるつもりなど更々無いが。
「……んー? なんのこと〜?」
(出たな、ヘラヘライダー)
 すっとぼけやがって。でも質問の手は緩めてやらないのだ。なんたって俺は、彼のすぐ後ろで、殆ど耳元に密着したような格好で走っている。後ろに乗せて貰っているというポジションは、一見すると完全なアウェイだが、質問体勢としてはホームなのだ。
「仕事はっ、なにやってんですかぁ!」
 この男、バイクに乗っている時は結構機嫌良く喋っているような気が、しないでもない。チャーンス!
「はぁ? なにって……人さらい〜?」
(たはっ、ダメだこりゃ)
「ぶっ…あははははは!」
 何かしら突っ込んでやろうと思ったのに、不覚にも笑ってしまった。風がその笑い声を、次々後ろへと勢いよく吹き飛ばしていく。
(あーくっそーー負けた〜)
 しかも今うっかり、ちょっとカッコイイとか思っちまったじゃねぇか。
(あぁわかったわかった。そうだな、じゃあバイク屋までは大人しくさらわれてやるとするか)
 片手でヘルメット(?)を押さえ、彼と同じように顎を引いて、ぐっと前方を見る。と、その気配を察したみたいに、オートバイが加速していく。
(ついでに、店で名前も聞きだしてやるからな?)
 こう見えても俺はしつこいのだ。
 覚悟しとけよ? 人さらい。


「ちょと、どいて」
「へ?」
 バイクから降りろと言われ、訳も分からず道路の真ん中に降り立つ。もちろん信号待ち中だ。すると彼もバイクを降りて、エンジンを掛けたままスタンドを立てた…かと思うと、バイクの後方に回り、「例のガムテープ」をサッと剥がして尻ポケットに押し込んでいる。周囲に車の姿はない。
(あぁーー)
 再びしれっとバイクに跨がろうとしている男を、ちらと見る。とヘルメットの口の辺りに人差し指を立てている。
(ふん、内緒、か)
 まぁ俺が黙っていたところで、この「なんちゃってヘルメット」が見つかってしまえばそれまでなんだが。でも逆を返せば、ナンバーにガムテープを貼っている限りは、例え見つかっても逃げ切れると考えていたのだろうか。それもどうなんだろう。
 だが、彼がそのタイミングでそんなことをした理由は、その後すぐに分かった。
(あ、バイク屋…)
 剥がしてから幾らもしないうちに、左にウインカーを出して入った先が、彼の目的地だった。


「へぇー」
 店の前の広い空き地に止まったバイクから降りるなり、しげしげと見回す。
 古びたビルの一階が店舗兼整備場になっているようだが、そこに窓や壁の類はない。よく言えば開放感満点だ。人の行き来やバイクの出し入れには便利だろうが、冬はどうしているんだろう。店先には数台のバイクが並んでいるものの、どれもタイヤやシートやエンジンがなかったりして、まともに走れそうにないものばかりだ。至る所に散らばった無数の工具類はどれも黒い油にまみれ、それらが乱雑に置かれた棚の一角からは、古びたラジオがFM放送を流している。(が、修理の音が凄くて時折全く聞こえなくなる)
 他にも埃とも油ともつかないものに覆われた、ガラクタとしか思えないパーツらしきものが店の一角にごっちゃりと積んであるかと思うと、反対側の壁には一体何十年前のものかというような、モデルとバイクが写った色褪せた大型ポスターが無造作に重ねて貼ってあったりして、店全体が一種異様な雰囲気を醸している。バイク屋というから、もっと新品のバイクがずらっと並んだすっきりと明るくて広い店を想像していたけれど、思っていたのとは随分違う印象だ。まるで整備場のバックヤード…の更にバックヤードみたいな。
 この独特の雰囲気を、あえて素人が言葉にするならば、「玄人とマニアの巣窟」といったところか。




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