男は修理中らしいバイクの脇を抜けて、奥にいた小柄な男性と、金髪の女性に挨拶をしている。
「遅いッ! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだ、あァ?!」
(うーわーー)
 だがライムグリーンのツナギを着た、整備士らしい女性の声のよく通ることといったら…。大通りに面しているというのに、車の往来にも負けない張りのある声が、表までガンガン聞こえてきている。
「三代目に心配をかけさせるなと、あれほど言ってるのがまだわからんのか!」
(あっちゃーすみません!)
 これには男と一緒になって首を竦めてしまった。それならそうと、一言言って欲しかったぞ。
「おめぇら、なにしでかして来たんだ?」
 隣にいた背高い男が、口端から煙を吐き出しながらたずねてくる。髭面にがっちりした体躯、黒い革ジャン、そしてどっかりと腰を下ろしている尻の下の、怖ろしくマッチョでグラマラスなバイクが嫌になるくらい似合っている。
 犬と飼い主っていうのは似るとかいうけれど、バイクとライダーもそうなんだろうか。そうなんだろうな。
「しでかしって…ゃその、色々…ありまして」
 俺達の乗ってきたバイクはあちこちに泥が飛び、さらにその上から埃をまぶしたようになっていて、とても「その辺をちょっと…」とは言えない様相になっている。思わず一部始終を話そうかと思ったが、どういうわけかあの男がガムテープを剥がしていた時の『ナイショ』ポーズに、自分でも不思議なくらい義理立てしてしまっていて、喋れそうにない。
「色々、ねぇ?」
 男は胡散臭そうな表情を髭面の中に浮かべると、片方だけ捻り上げた口の端から盛大に煙を吐いた。

「皆さん、結構遅い時間までバイク屋に居るんですね」
 名前を聞き、アスマと名乗った男と話を続ける。
「ああ。そもそもこの店が開くのが午後からだからな。日付が変わってから来る奴も多いぜ」
「あぁそうなんですか、いいなぁ」
 終電を気にしないでいいというのは、とにかく便利だ。駅からどんなに遠く離れた場所でもドアツードア。行きたいときに行きたいところに行けるというのは、率直に羨ましい。しかも車と違い、駐車場の心配をすることもない。
「ぇ? うわ、あのバイクって、そんなにするもんなんですか?」
 男が手渡した封筒を受け取った整備士が取りだした札束の厚みに、思わず小声になりながらたずねる。
「あ? カタナか? まぁ年々数は減ってく一方だしな。程度が良けりゃ、あれくらいはするだろうよ」
(そう、なんだ…)
 なんだか古そうなバイクだし…なんて思っていたけど、趣味のものの値段は本当にわからない。
「あの人、名前なんて言うんですか?」
 それまでどうしようかとも思っていたが、無性に聞いておきたくなっていた。
「あ?」
 それには屈強の髭さんも驚いたようだった。煙草を吸おうとしていた手を止めて、こちらをまじまじと見ている。
「オイ、ゲンマ。あいつの名前、なんて言うんですか、だと」
 隣で大型のスクーターに座ってスマホの画面を見下ろしていた金髪の男性に、わざわざたずね返している。
(そうか、あの男、まだ店に来て日が浅いのか?)
 それとも浅いのは、この髭男のほうだったりするのだろうか。随分と濃厚な常連エアを醸してると思ったのだが。
「はぁ? ――カカシ?」
(はは、もう名前わかっちまった)
 カカシさん、か。覚えたぞ。
 でもその直後にはスッキリ解決を上回る勢いで、新たな「分からないこと」が次々出てくる。
「…だと思ってるけどよ、本当はどうなんだかな」
「へっ?」
 夜遅くに裏原か青山辺りを闊歩していそうなファッションの男を見る。スクーターは直線で構成された近未来的な今風のデザインで、彼のファッションに違和感なく溶け込んでいる。
「ふっ、言えたな。まぁバイクを買うときゃ、必ず住民票が要るから? 三代目達がそう呼んでんなら、まず間違いはねぇ…とは思うが」
「――なのに、なんだか、アヤシイような」
「だな」
(?? どういうことだよ)
 しかも二人して苦笑いしながらの回答で、ますます意味が分からない。
 そのうえ「しっかしなんだ、アイツが見ず知らずの野郎を後ろに乗せるとは、どういう風の吹き回しだよ」とか、「確かにな。珍しいこともあるもんだ」などと話しだすと、もうどこからどう聞き返していけばいいものやらだ。
「おめぇもだ」
「は」
「名前も知らねぇのに、よくあんなのの後ろに乗る気になったな」
「はあ…まぁ」
 すみません、ついでに顔も暫く知らなかったです、とも言えず曖昧に頷く。
「ひと目見て、地獄の一丁目逝きって、思わなかったか?」
「なっ?? なんでっ、ですか?」
 ドキリとして、返答に詰まる。バイク乗りの言うことは、時としてハンパに意味が伝わってきて困る。

「…せっ、整備士の女性、カッコイイですね」
 あの男が…他称「カカシ」がこっちに来たら、俺の質問タイムは終わりだろう。先の問いの答えが「さぁな」で終わってしまったことから、思いついた端から口にする。
「五代目か? そう思うんなら、直接言ってやんな」
 アスマさんがニヤニヤしている。髭と煙草とニヤニヤとバイクが憎たらしいくらい合っていて、腹が立つくらいだ。
「六角ボルトを素手で増し締めする女は、カッコイイを通り越してる気もするけどな」
「マジすか…」
 それはちょっと、いやかなりこわ……凄い。
 でもそのお陰で、バイクに乗っていても誰も怪我をしないのだという。
「まぁなんだ、正確には『怪我をしていても、そうとは見せない』だがな。考えてもみろよ。あの指で思いっきり絆創膏貼られんだぜ?」
「アハハ〜、それは確かに〜」
 まかり間違って骨折なんかしようものなら、それこそどやされるのが怖くて当分店には来ないらしい。バイクの怪我を『青春の勲章』として大っぴらにしてるのは、ガイさんという人だけだそうだ。
「いやゲンマ、アイツは数に入れるな…」
 折る骨があるうちは好きに折らせとけ、という髭男の言葉を、カラ笑いで流した。

「おい、――これ持ってけ!」
 こっちに歩いてきていた銀髪男が呼び止められ、振り返っている。と、さっきまで凄い剣幕で怒鳴っていた五代目店主の綱手さんが、白いヘルメットをポンと投げて寄越してきて、慌てて受け取った。その様子を、エンジニアの間では知らぬ者などいないという凄腕らしい三代目が、店の奥からニコニコと見守っている。
「すいません、ありがとうございます」
(へえ)
 あの人、あんなに素直に頭が下げられるんだなと、ちょっと見直す。と同時に、乱暴そうに見えた女性整備士の気遣いにも感心していた。俺の方なんて殆ど見もしてなかったはずなのに、俺がラーメン被ってたことを、とっくにお見通しだったなんて。

「ヘルメット、ありがとうございます、お借りします。…お邪魔しました」
 アスマさんの側に立ってヘルメットの顎の部分の止め方に戸惑っていると、綱手さんが近寄ってきて挨拶をする。近くで見ると、ツナギに収まりきらないほどの立派なボリュームの胸に、余計にDリングの通し方が分からなくなってくる。いつも使っているベルトと同じ、簡単な仕組みのはずなのに。
「ああ、せいぜい気をつけて帰んな。…それよりお前、その足、どうしたんだい?」
「えっ?」
 言われて彼女が見ている視線の先…自身の足を見下ろす。
(ああこれ…)
 すると、道に迷った挙げ句の靴ずれで、残念なことになっている踵が目に入った。色々ありすぎて、今の今まで、すっかり忘れていた。
「血まみれじゃないか、ちょっと見せてみな」
「ヤっ?!」
 バッタみたいに飛び退いた。


「あはっ、すみません、ありがとうございます!」
 加速していくバイクの後部シートで、声を張る。
「別に、誰も乗れとは言ってないけど〜?」
 前の方から、相変わらず掴めない返事が返ってくる。
「ええぇ〜そんなぁ〜」
 綱手さんから逃げるようにして後ろを振り向いた際、バイクに跨がった銀髪男が銀色のヘルメットを被っているのが目に入った。
 すかさず空いているリヤシートに跳び乗ると、まるでそれが合図だったかのようにエンジンがかかり、店はみるみるうちに小さくなっていた。

 二人を乗せたオートバイは、青々とした街路樹が縁取る国道を、大型のトラックや、いつも疲れきって無言のまま乗ることの多い深夜タクシーを次々かわしながら、ひたすら走る。
「お店の人達、みんないい人ばっかですね!」
 お客や綱手さんはもちろんのこと、何も言わず静かに皆のやりとりを見守っていた三代目と呼ばれていた店主も、ああいう風に歳をとりたいと思わせる好々爺だった。
「え〜〜そーかなぁ〜。三代目はいいとしても、五代目はあんなにお袋風びゅーびゅー吹かせることないと思うけどー?」
(満更でもなさそうな返事しちゃってー)
「ははっ、お袋風! それがいいんじゃないですか〜!」
 バイクで走っているのをいいことに、ことのほか大きな声を張り上げる。風が気持ちいい。ただスピードを出して走っているだけなのに、ジェットコースターなんてもう二度と乗らないだろうと思っていたのに、都会の空気だってお世辞にもきれいとは言えないだろうに。なのに、なんでこんなに清々しい気分なんだろう。
「あーー気持ちいいー! 最高〜!」
 男はもう返事をしなかった。何も言わないかわりに、黙ったまま深夜の環状線に一筋の銀の刃を走らせた。


     * * *


「あち?!」
 何気なく手を差し入れた風呂の熱さに、思わず声が出た。熱めが好きとはいえ、湯温の設定はいつも通りだったはずなのに。
(手…、結構冷えてたんだな)
 それでも山に行くからと、長袖のシャツとチノパンという格好だったのだが、バイクに乗っている間は確かに少し寒かった。でもここまで冷えているとも思ってなかった。それどころか体の奥はずっと熱くて、何かが胸の奥深くで常に沸き立っているような、なぜか片時もじっとしていられないような、そんな感じだった。
(あの男…カカシも、こんな感覚を味わってる…?)
 水を入れながら湯船に浸かると、両手で何度も湯をすくっては、顔を洗う。
 結局彼に、マンションの前まで送って貰っていた。道案内の下手さには自信のある俺が、家のまわりの目立った建物と大通りの名前を言っただけで、ただの一度も間違えることなくマンションの前に着いてしまっていた。これではタクシー以上だ。
「本当に、ありがとうございました」
 深夜のマンション前だからだろう。早々にバイクのエンジンが切られて静まりかえった中、頭を下げる。
「ん」
 バイクが止まって俺が歩道に降りると、彼はまた無口でぶっきらぼうな男に戻っていた。まるで彼の跨がっているバイクのエンジンが、そのまま彼の心臓と直結しているみたいだなと思う。
 俺の被っていたヘルメットを受け取ってハンドルに掛けるや、彼の銀色のメットは明後日の方向を向いて俯き加減になったまま、殆ど動かなくなった。スモークシールドの下の瞳が、一体どこを見つめているのかもわからない。
「ぁの、気をつけて」
 早く話を終わらせてオレを解き放ってくれ、とでも言っているような沈黙に、上手く言葉が見つからない。
「ん」
 もう男の声は、背後を通り過ぎる車の音に殆ど掻き消されてしまっている。家はどこなんだろう。ここからどの程度で帰り着ける? 明日は仕事? 朝は早い?
 続けようと思えば、幾らでも続けられたはずだ。
 でも、出来なかった。ヘルメットを被ったままの彼が、結局一度もシールドを上げないままで、それがどうしても自分の中で次の一歩を踏み出させなかった。
 そんな、気がする。




        TOP   裏書庫   <<  >>