(――ははっ、参ったな…)
 風呂から上がってベッドに横になったが、目を閉じた途端、思わず口元が弛んだ。
(体が…覚えちまってるよ)
 動いていた時は分からなかったが、じっと静かにして暫くすると、あのオートバイから伝わってきた力強い振動が、今もまだ体を内側からジンジンと揺すっている。すると耳元にも、加速の際のエンジン音が、風鳴りと一緒に戻ってくる。大声を張り上げすぎて喉が痛くなっていることに、今頃になって気付く。
 それともこれらは、俺の体が今日の記憶を忘れまいとして、一生懸命反芻してたりするんだろうか。まさかな。
(カカシ、か…)
 ずっと腹に掴まっていた左手に、独特の感触が残っている。左手のあったそこは、外見から受ける繊細な印象とは全く異なった、同性でもはっとするほど鍛えあげられた体幹だった。自分が何だかんだといいながらも、初対面の彼の後ろに乗っていられたのは、あの力強い感覚があったからかもしれない。
(とはいえ…明日は肩凝りが酷いかもなぁ)
 ずっと興奮しっ放しだったから感じにくかったが、慣れないタンデムシートに正しい乗車姿勢も良くわからないまま緊張しながら乗っていた。あの男だって、流石に疲れたんじゃないだろうか。
(ぜんぜん、飄々としてたけど、な)
 でも同じ道を車で走るのと比べれば、バイクの方が何倍も頭と体を使うだろう。
(それが…いいのか?)
 いいのかもしれないな。よくわからないけど。
 目を閉じると、彼が高層ビルの谷間を鮮やかに走り抜けていく後ろ姿が、まるで手に取るように鮮やかに浮かんだ。
 すると自然に口元が弛み、ふ、と小さな笑みが浮かぶ。
(…おやすみ)
 いい、夢路を。


     * * *


「――えっと、ここを、曲がる…でいいんだよ、な…?」
 何度もプリントアウトした地図を回しながら、大きな道路と現在地の関係を確かめる。遅咲きの蝉が、『おまえ、本当にその方向でいいのか?』と笑うように鳴いている。今年の残暑も長引きそうだと言っていたのは、今朝のニュースだったろうか。
 あれから瞬く間に一週間が経っていた。これまでは特に何をするか事前に決まっていない休日が続いていたけれど、早々と行きたいところが決まると、自分を取り巻く世界もいつもと少しだけ違って見えていた気がする。
「よし、やっぱバイク屋行こう!」
 TVのキャッチフレーズ宜しく決心した後は、あの夜の道路標識の記憶を頼りに、ショップの割り出しに夢中になっていた。幸いなことにあの夜見聞きしたことは、その後何度朝を迎えても少しも色褪せていかなかった。むしろ判で押したような平凡な日常から、あの日だけが日に日にくっきりと浮き上がっているようにすら思えてくる。
 そうしてようやく突き止めた店の所在地は、如何にもバイク屋らしく、オートバイでは行きやすい所だったが、最寄り駅からは随分と遠いところにあった。しかもバス停からも相当に離れている。だがそうとわかっても、心は些かも折れなかった。むしろ「絶対辿り着いてやる」と、おかしな闘志を燃やした。
「うう〜〜ん…???」
 ただ今だけ、こうしてちょっと迷ってしまっているだけで。
 その脇を、自転車に乗った二人の少年が猛スピードで走り抜けていこうとして、「あちょっと!」と呼び止める。通行人を呼び止めて道を聞くのだけは、何年も前からすっかり上級者だ。


     * * *


「――そうかー、やー良かった、本当にこの道でいいのか分からなくなって困ってたんだ。じゃあ一緒に頼むよ」
 声を掛けた少年達は、これからそのバイク屋に行くのだと聞いて、ほっと胸をなで下ろしていた。名前を聞くと、ナルトとサスケだという。なんでも二人は「どっちが早く店まで着くか」の競争をしていたとかで、自転車を押しながらも軽く肩を上下させている。俺もよくそんな二人を引き止めたものだ。
「あぁいや、二人乗りは遠慮しておくよ。でもバイク屋って…免許は16才からじゃないのか?」
 どう見てもそれよりかは若く見える。自分が教えている子らと同じか、いっても十代の前半くらいか。
「んなのカンケーねぇってば。免許なんかなくたって、レース場ならガンガン走れっからよ!」
「ええ?! レース!? バイクでか?!」
 細っこいという表現がしっくりくる、まだまだ小さな手足の小柄な少年を見下ろす。
「ポケバイレースだ」
 黒髪の少年…サスケが、(こいつ、バイク屋に行くのに何で知らないんだ)と言いたげな、胡散臭そうな目でこちらを斜めに見ている。はは、ごめんな。あのバイク屋に出入りしてたら、俺みたいな人種がいること自体、不思議に思えるのかもしれない。でも世の中には色んな人がいるんだぞ?
「へぇ〜。でそのバイクには、幾つから乗ってるんだい?」
 公道は走れないという小さな50tのバイクを使って、毎月のように近県で行われるレースに出ていると聞いて、日本のモーターレースのすそ野の広さに驚くと同時に感心する。
「サスケは三歳から、オレは七歳くらいからかな」
「さっ、三歳〜?!」
 でも聞けば、例え五、六歳でも、基本的なライディング技術さえあれば、体重が軽いことから優勝も出来るのだという。ナルトがバイクの大きさを両手で広げて見せてくれたが、本当に片手で持ち歩ける三輪車程度の大きさで、まさにペット的な可愛らしさのバイクらしい。
「じゃあそのポケバイで腕を磨いて、将来プロのレーサーになろうとか?」
「当たり前だってばよッ! ぜってぇ世界一のプロレーサーになって、綱手のバアちゃん達にいい夢見させてやるんだってば!」
「おーそうか! がんばれよ!」
 今時そんな風に何の迷いもなく、ひたすら真っ直ぐに大きな夢を持てるなんて、周囲がよほどいい環境を用意しているのだろう。長期間に渡ってしっかりとバックアップしているのであろう両親や、ショップの人達…二人の店主兼整備士…に頭が下がる。
「でもナルト達は自分だけで練習してるんじゃないんだろう? 誰にコーチして貰ってるんだ? やっぱ五代目か?」
「あ? んなのカカシ兄ちゃんに決まってるってば」
「ェっ」
 途端、自分でもびっくりするような声が出た。
「っ、…あの人、そんなこともやってるのか…」
 そういえばこの間、何の気なしに「レースとかやってるか」と聞いた際、確かにやっていると言っていたが。
「バアちゃんはメカニックだろ。それよりぜってぇカカシ兄ちゃんだってば。あぁ〜〜オレってばいまだに最終コーナーで刺されてかわされんだよなァ〜なんでだよーくそォ〜!」
「お前はビビリだからだ。ブレーキングが甘い」
「なにィ!」
「フン、図星だろうが」
「そういうお前だって、カカシ兄ちゃんにいっつもアウトから抜かされてコケてんじゃねぇか、へったくそ!」
「なッ…!」
「まあまあまぁ〜…って、おいちょっと待ってくれ、一つ質問いいか? まさかカカシさんも、そんなちっちゃなバイクに乗るのか?」
 話しながらも、なぜか『三輪車を全力でキコキコと漕いでいる銀髪男』などという珍妙な絵面が脳裏に浮かんで仕方ないのだが、ひょっとして当たらずとも遠からじ、なのか?
「…アイツに、乗れない二輪なんてあるのかよ」
「そーそー。あんなでっけー体してんのに、虫みてーにヒラヒラしちゃってよ、練習の時とかも、スタートじゃオレらが完全にブッちぎってんのに、三周する間にぜってー抜かされてちぎられんだよなぁ」
「そうか、そりゃすごいな」
 どうやら同じサイズのバイクに乗っているらしいが、ナルトとカカシさんじゃ、体重差はかなりのものだろう。それでもなおテクニックの方が先に立つということか。
「――いつ、死のうが」
「ぇっ?」
 唐突にぽつりと呟かれた少年の言葉に、何やらひやりとしたものを感じて、自転車を押しながら俯き加減に歩いているサスケの横顔を見つめる。
「アスマの野郎が…『てめぇがいつ死のうが、全く構わない、スピードと引き替えなら何だって喜んで差し出せると、本気で思ってるヤツだけがたどり着けるところがある』って、言ってた」
(なっ…、いつ…死んでもって…)
 ふと、ファミレスに入ったとき、向かい側でちんまりと座って、窓の外をぼんやりと眺めていた男の姿が脳裏を過ぎった。窓の外を行き交うバイクの軌跡を、目だけが追っていた、どこか影のある寂しげな横顔。
「よっ、ヨーシッわかったってばよ! んじゃオレもいっぱつガツーンと…!」
「ダメだ!」
 授業中より、バイクに乗って走っている時よりもまだ大きな声が出た。自転車を押していた二人が、驚きの表情でこちらを見上げている。
「それじゃあダメだ。――いいか? お前達二人は、一生懸命応援してくれている人達の思いも乗せて、その人達と一緒に走ってるんだ。どんなに速くなっても、逆に惨めに負けたとしても、そのことだけは絶対に忘れるんじゃないぞ。――わかったな?」
 その後「兄ちゃん何者だってば?」と言われたが、「え? 何者って…塾で講師してるけど?」と何気なく言ったところ。
「げぇぇ〜塾だってえぇ〜〜」と、まるでマズイものでも食べたみたいな表情で言われてしまった。
「いやお前に勉強教えるわけじゃないからいいだろー」
「うわーやべぇ〜イルカせんせえだ〜」
 ナルトはすっかりふざけ半分で遠巻きにしている。お前どんだけ勉強嫌いなんだ?
「――イルカ先生、着いたぜ」


 一週間ぶりの、しかも全くのバイク素人によるバイク屋訪問だったが、店主達の反応は思っていたほど悪くなかった。それは先日借りた、ヘルメットの御礼のつもりで持っていったドーナツの詰め合わせが好評だっただけ…ではないと思いたい。
「悪いね、ここじゃそんなに気を遣うこたぁないんだよ。こっちも気は遣わないから、その辺で好きにしてな」
 「あぁでもそんな所にいつまでもぼさっと突っ立ってると、油まみれになるよ」という綱手さんに、はいと頷く。店の外ではポケットアルバムを手にしたナルトが、「兄ちゃん、ポケバイレースの写真見せてやっから来いってばよ!」と呼んでいて、「おう、待ってろ」と片手を上げる。
「イルカって言ったかい、あんた何者だい?」
「ぇ、ぁはい?」
 さっきナルトにも同じ事を言われたが、塾の講師以外、説明のしようがない。
「へぇ、先生かい」
 これも同じ台詞だが、続いた「じゃあこの英語の解説書、読めるかい」と言って差し出された分厚い本に、ぱちぱちと瞬きをする。
「ええ、まぁ…」
 本を手渡してきた真っ赤に塗られた指先が、はっとするほど黒い油で汚れている。
「最近は無駄に凝った逆輸入車が多くてねぇ、コンピューターなんてもんが幅をきかせだしたら、もう殆どブラックボックスもいいところさ。昔はラクで良かったよ。…あぁ多分この辺りだと思うんだが、何がなんだかさっぱり分かりゃしない、端から読んどくれ」
「はい」
 そこから先は、訳しながらナルトとサスケの写真の相手をし、目の前では三代目と五代目が読み上げた内容に従ってエンジンを分解していく、という予想だにしない事態を迎えていた。
 お陰で、ネジやボルトの種類まで覚えてしまった。なぁおい知ってたか? バイクって主なボルトだけでも一〇種類近くもあるのな? 更にそいつを用途に従って、色んな形に作られたナットと組み合わせて使うのだ。三代目達はそのボルトの名前を聞いただけで、それがどういう所に使われ、何という名のナットと組み合わされているのかを瞬時に判断して動いている。もう指先が覚えてしまっているみたいだ。その様子を、二人の少年が食い入るように見つめている。それらは机上のゲームでもなければプラモデルでもない。人が命を預ける、本物の乗り物。
 放課後、こんなにいい課外授業が出来る所もそうそうないんじゃないだろうか。
 そんなことを考えてしまう自分が、果たしていい塾講師と言えるかは別として。




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