イルカはもうずっと、その場所で想い人を待っていた。

 その男との約束の時間が過ぎてから、一時間が過ぎようとしている。
 気持ちばかりが急いて、ついつい早めに来てしまったイルカが待ち合わせの場所に立ってからなら、更に半時以上が過ぎ去っていた。




   
金 魚




(ぁ…!)
 そしてようやく、本当にようやく待ちに待ったその男の姿を遠方に認めた瞬間から、暫くは彼から目が離せなかった。
 そんなに見つめたら失礼だということにも気が回らず、まじまじと見つめてしまっていた。
(良かった…まだ、終わったって訳じゃなかった…)
 もう既に散々に待たされた事も忘れていた。怒りなど沸き上がろうはずもない。安堵と喜びだけが胸一杯に交錯する。
 涼しげな銀鼠色の地に根岸色の幾何学紋様が入った、何とも粋な浴衣を纏った雪駄履きの男は、草履特有の軽い足音を響かせてゆっくりとこちらに近付いてくる。
 男の珍しい銀髪と白い肌がその一風変わった浴衣によく馴染んでいて、親しい同僚達ですら彼を一瞥しただけでは気付かないのではないかと思われた。
 彼は素顔を晒し、全く別人のような見目になってイルカの前に現れた。

「――すみませんね、遅くなってしまって」
 イルカの目の前で立ち止まると、いつもと何ら変わりない、いや、いつもより更に静かな声で、単なる挨拶のような素っ気ない詫びを言う。色の違う瞳が、イルカの心を見透かすかのように見つめている。
「いっ、いえ。全然待ってませんからっ。俺も、ついさっき来たばっかりなんです!」
 イルカは自分が試されていたとも知らず、夢中で答える。それはもう、心からほっとした顔をして。
(……嘘ばっかり)
 カカシは胸の奥に言葉に出来ない痛みを感じて、思わず沸き上がりそうになる激しい衝動を堪えた。



 忘れもしない、二週間前の立秋の夜。
 それまでずっと、親しい呑み友達でしかなかった二人の関係に、新たな進展があった。いや、正確には何とか友達から恋人へと進展させたかったカカシが事を起こした。
 それが今日に続く、気まずい行き違いのきっかけになるなどと、露ほども知らずに。

 どんなことでも相当に我慢はきく方だと自負していたカカシだったが、何故かイルカの事に関しては上手く自制出来ない事は、彼自身もよく分かっていた。
 いつから彼を特別な存在として意識しだしたかなんて分からない。気付いた時にはもう、彼のことばかり考えるようになっていた。
 日一日とイルカに向かって傾いていくのを止められない自分には、最早冷静な判断力は失われているのだろうと頭の隅では自覚しながらも、彼から目を離す事が出来ない。
 しかもそれを知ってか知らずか、酷く不安定な自分の目の前で、イルカは己に好意があるとしか思えない思わせぶりな行動をとる。
 あの黒々とした濡れた瞳は、いつもひとかたならぬ思いを秘めて自分を見つめていると思う。
 すぐにはにかんだり、鼻梁の傷を掻いたりするその仕草は、いつもオレの心を落ち着かなくさせる。
 オレにだけとびきり屈託のない笑顔を浮かべ、二人きりになると呆れるほど無防備な背中を晒して、無言のうちにオレを誘ってくる。
 下手なりにも一生懸命手料理をご馳走してくれたり、泊まって行けと勧めたり。
 かと言って、こちらも大人しく眠れる自信など無いから「いや、今夜は帰ります」と断ると、一瞬とても寂しそうな顔をする。
 そんな夜は、自宅に帰ってもなかなか寝付けなかった。
 自分で自分を慰め、高ぶった熱い体を一時的に鎮めることは簡単だったが、その場は良くても翌朝目覚めてみれば何ら状況は変わっていない。
 当然と言えば当然だった。自分はイルカに対してそのような気など全く無い風を装い続けていたのだから。
 あからさまな好意など、同胞の、しかも男に対しては見せるべきではないとずっと思っていた。むしろ隠しておくべきだと。だから最初にイルカからそういう雰囲気を感じ取った時には、正直戸惑った。一体どういうつもりなのかと。
 でも今思えば、そんな自分だったからこそ、何の枠にも囚われない彼の純粋さや素直さに強く惹かれたのかもしれない。
 そうは言うものの、ただ惹かれているだけでは何も変わっていかないのもまた事実だった。いつまで待とうが、自分とイルカの関係は単なる呑み友達から先へは進んでいかない。
 もう限界だと思った。


 そして問題のあの夜が来た。
 いつものようにイルカの家で呑み始め、すっかり酔って上機嫌の彼に、驚かさないように少しずつ少しずつ触れていって、頃合いを見て初めてキスをした。
 開け放っていた縁から、蒸し暑い風に乗って小さな虫の音が流れてきていたはずだったが、すぐに聞こえなくなった。暑ささえ感じない。
 最初に唇を重ねた際、水屋箪笥に退路を塞がれてがちがちに強ばっていたイルカの体も、何度も何度も角度を変え、熱い舌で口内をまさぐってるうちに、次第に力が抜けていく。
 イルカが鼻に抜ける意識しない短い声を漏らし、吐息が次第次第に甘くなっていくのを感じると、堪らない愉悦と興奮から軽い目眩を覚えた。
 何より彼が自分を受け入れてくれているという事に、震えるような喜びを感じた。
 薄く右目を開けると、すぐ目の前にぎゅっと瞳を閉じたイルカの赤らんだ顔がある。それは例えようもなくそそる表情で、半ば理性の飛びかかった馬鹿な男の腰を疼かせ、冷静な判断力を溶かし尽くすだけの熱火を熾すに十分だった。
 更に彼の乱れた息づかいや、時折立ち上ってくる微かな体臭をすぐ間近で感じると、もうどうにも抑制がきかなくなる。気付いた時には、イルカの上着の中に右手を差し入れていた。緊張からかしっとりと汗ばんだ滑らかな肌からは、忙しない鼓動が伝わってくる。
 この関係だけは絶対に大事にしたいからと、今夜はキスだけで帰ろうなどと思っていた殊勝な考えは、一瞬で吹き飛んだ。
 抱きたい。
 今、この場でイルカを抱きたい。
 オレはその激しい渇望に、どうしても抗えなかった。
 座ったまま、もう後ろには動けないイルカの膝を割る格好で両膝立ちになり、覆い被さるようにして深いキスを続ける。
 同時に上着の下に差し入れていた右手がそろそろと腹を這い上り、指先があるか無きかの小さな胸の突起にそろりと触れた。
 そのとき。
「――っ?!」
 突然、もの凄い力で突き飛ばされた。
 思わず後ろに二、三歩よろけながら立ち上がり、呆然としながら目の前の男を見下ろす。
「…やっ、やめて下さい!」
 俯いたイルカは真っ赤な顔をしながらも、声にははっきりとした嫌悪の色を滲ませて叫んだ。
 自分で自分を抱き締めるような仕草を見せつつ、更にもう一度念を押すように言う。
「――やめて……下さい…っ…」
 まだ息も上がったまま、必死の様子で投げ付けてきた言葉は、自分とこれ以上の体の関係を持つ事に対する明かな拒絶だった。
(…イルカ、先生…)
 普段、あんなに明るくて話好きな男が、ひたすら俯いたまま、すっかり色を失ってしまっている。
 その時になって初めて「自分は激情に流されて、取り返しのつかない事をしでかしてしまったのではないか?」という、得も言われぬ怯えが走った。
 が、もう全ては「時既に遅し」だった。


 カカシは突っ立ったまま、まだありありとイルカの感触が残る自身の唇を強く噛みしめた。
 こんな目くるめくような記憶など、今すぐ痛みでもって消し去らないと、熱く火照った心や体を抑え込めそうにない。
 やがて(イルカが自分に恋愛感情を抱いているなどと感じたのは、身勝手な思い込みだったのか?)という疑問が過ぎりだした。
 そして(どうやらそうらしい)と、彼が酷く取り乱している様子からはっきりと理解し始めるにつれ、恐ろしく気まずい空気がその場をずっしりと押し包み始めた。
 だがここがイルカの家である以上、そして勘違いの末に勝手に仕掛けていったのが自分である以上、この場を収めるのも自分でなくてはならないだろう。
「――ごめんなさい…」
 潔く謝った。
 しかし、それに続く言葉が何も見つからないまま、居たたまれなくなったカカシはその場を後にした。
 一縷の望みだったイルカからの返事も、何一つ返ってはこなかった。
(…イルカ先生……オレは…)
 通りに出ても尚、消え去らない体の疼きが空しかった。



 その後は何からどう修復していけばいいのか分からず、(この先には進めずに互いに辛い思いをし続ける位なら、縁がなかったのだと見切って早く終わらせた方がいいのでは…?)などとうだうだと考えつつも、結局多忙を理由にイルカとは一度も会っていない。
 途中、十日ほどの遠方任務にも出てしまい、里にすら居なかった。
 いや、むしろその方が有り難いとさえ、心のどこかで思っていた。こんな時は少し距離を置いて頭を冷やした方がいい。
 その十日間、オレは文字通り任務に没頭し、少しでも気を抜くとすぐさま沸き上がって来ようとする雑念を、何度も何度も振り払い続けた。



 十日後、その遠方任務から帰ってきてみると、自宅のドアにひっそりと白い紙が挟まっていた。
 開いてみると短い伝言だった。

『 二十三日、妙見神社の宵の宮に行きませんか 六時に二本松の三叉で待っています 』

 丁寧で大らかな字面だが、送り主の名が記されていないその文を、カカシは食い入るように見つめた。彼には、手紙の送り主が「名前など書かなくてもあなたなら分かるでしょう?」と言っているように思えた。するとまたぞろカカシの中で、イルカが誘っているような錯覚が沸き上がってくる。折角十日かけて、身勝手な数々の思い込みをようやっと振り切りかけていたというのに。
 蒸し暑い自室に入るなり、上忍は真っ先にその紙をごみ箱に投じた。




 そしてついに今日。
 夜祭り当日という日を迎えてしまった。
 朝から行くか行くまいかとずっと悩んでいたカカシは、それでももう何年も袖を通した事のなかった浴衣を羽織り、一応出掛ける用意はしたものの、そのままベッドに大の字に寝転んでいた。
 イルカとの夜祭りを、単なる知り合いとしてでもいいから楽しみたいなどという我が事ながら失笑に値する未練が未だに捨てきれていない。けれど浮かれたせいで随分と手痛い思いをした苦い記憶から、その後何度も行くのを止めようと思い直していた。
 だってどうすればいいというのだ?
 開口一番謝り倒して「どうかこの間のことは全部忘れて、今まで通りの呑み友達でいて下さい」と乞えばいいのか?
 それとも無理を承知で「どうしてこの先に進みたくないのですか? やっぱりオレとじゃ嫌ですか?」と正面切ってゴリ押しすればいいのか?
(馬鹿馬鹿しい…)
 どちらも気など進むはずもない。
 そもそも自分はもう呑むだけ、キスだけというような関係など、幾らも堪えられそうになかった。それでは蛇の生殺し状態だ。
 本能的すぎると人は言うだろうか。 でも、自分が心だけ、体だけというように、どちらか一方だけで思い人とつきあう事など出来ないのだと教えてくれたのは、他ならぬイルカだと思う。
 勿論、力や階級差に訴えてみたところで、生真面目で純粋で凛とした彼の心を動かす事など到底出来はしない。
 イルカは断じてそんな男ではない。そもそも自分は、彼の一見しただけでは分からない、そういうところにずっと惹かれていたのだと、図らずも遠ざかったことでよりはっきりと感じる。そんな人に対して無理強いして征服欲を満たすなど本末転倒だし、思い人に対してそんな貧しい行為などしたくなかった。
(こんなに分かってた、はずなのに…)
 なのに、越えてしまった。


 自分を渾身の力で突き放した時のイルカの表情が思い出される。
 照れなどではなく、本当に心底嫌だったのだろう。普段は遠慮がちな男の顔に、今まで見たこともないような嫌悪感が露わになっていた。
『たまたま好きになってしまったのが、男のあなただっただけ』という自分の説明は、少なくともあのイルカには受け入れられそうにないと思った。
 彼は、彼自身ですら飛び越えられない、一般常識と言う名の深い堀の内側に生きている。


 結局彼とは、自分が思っているような身も心もという関係には一生なれないのだと結論付けられた。
(でもとりあえず、会ってもう一度だけ、さり気なくその気がないか訊いてみるとか…)
 こんな噴飯モノの未練がましい事を未だにつらつらと思案している自分が滑稽で、情けなくてならない。なのにもう一方では真剣そのもの、それこそ大真面目だったりするのだから何とも始末が悪い。
(…いい加減にしろよ、オレ…)
 ベッドに仰向けになったまま、額に手を当てて溜息をついた。



 その後も散々逡巡した挙げ句、結局カカシは家を出ていた。
 彼とは距離を置くために、話し合いに行くつもりだった。だがイルカが待っていると書いてあった辻へは直接行かず、大きく遠回りして、逆の道から気配を消しつつ遠方に彼の姿を探してみる。
 果たして彼はそこにいた。もう既に約束の時間を一時間近くも過ぎているというのに、思った通りまだ彼はそこに居た。
 背後の宵闇に溶けてしまいそうな、綺麗な藍染めの浴衣を着て、深い臙脂色の帯を締めていた。落ち着いた渋い色味の組み合わせが、かえって彼の溌剌とした若さや生真面目さを引き立たせている。辻にある大きな黒松の前に立ち、不安そうな面持ちで、忙しなく周囲を見回していた。
 祭りに向かうために行き過ぎる人々の後ろ姿を、羨ましそうに目で追っている姿は、カカシには見てはいけないもののように思え、酷い罪悪感が胸をよぎる。とてもいたたまれなくなり、このまま帰りたくなった。
 もしここで彼の前に出ていったら、そのままずるずると中途半端なつきあいが続いて、いつかまた痛い目を見るだろう。もうイルカとは距離を取っていないとだめだ。近くにいるといずれまた思いは募って、必ず彼を抱きたくなる。その度に苦悶するのは、他でもない自分自身なのだ。
(彼とのつきあいはもうやめておけ。自分は心と体を切り離して考えられない駄目な男なのだ。またお互いに嫌な思いをするぞ?)
 何度も言い聞かせた。
 いや、他のことに関してなら、幾らでも切り離して考えられると自負している。だが、ことイルカに対しては、絶対に無理だと不思議なほど分かっていた。
 しかし、自分の中で何をどう収まりを付けようとしても、どうしても今イルカをあの場に一人残したまま立ち去れそうにない。
(……仕方ない、別れ話は帰りの道すがらにでも切り出せばいい。そうしよう)
 隠れている事に堪えきれずに物陰から出たカカシは、俯き加減でイルカに向かって歩きながら思う。
 浮かない思いと、浮いた思いが胸中で激しくせめぎ合い、カカシの顔から深みのある表情を消していた。





 イルカは胸が一杯だった。 カカシと並んで歩きながら、待っていて良かったと繰り返し思う。
 内心(もう来ないのでは?)と何度も訝っては(いや、そんなはずはない。報告書だって提出してあったんだ、きっと来てくれる)と、即座に打ち消し続けていた。
 それだけに、最後まで彼を信じて帰らずにいて本当に良かった、としみじみ思った。

 この二週間というもの、カカシに会えなくてずっと辛い思いを味わっていた。でもその原因は自分にある。全ては自業自得だった。
 始めはどんな時も冷静かつ勇敢で、聡明な上忍の事をひたすら尊敬していたに過ぎない。だが酒を酌み交わすようになると、彼の人間らしい思わぬ一面に触れるようになり、やがて誰よりも好きだとはっきり自覚するようになっていた。
 なのに、口では恥ずかしくてどうしても言い出せないまま、しかし態度では無理には隠さず自然のままに接していたのだ。
 カカシがこの思いに気付いてくれたら、と思いながら。
 でも、いざ彼がその気になって一歩踏み込んできた途端、急に怖くなった。口付けられてどんどん気持ちよくなっていた時、いきなり胸先を触られて、その瞬間体の芯に走った得体の知れぬ感覚に思わず跳び上がりそうになった。その刺激はすぐに消えたものの、後にはむず痒いような感覚が残っていて、もっと同じ刺激を欲しがっているようだった。
 それは、奥手で性体験の乏しいイルカにとっては、嫌悪感と紙一重のものだった。気付いた時にはもう、無我夢中でカカシを突き飛ばし、止めてくれと叫んでしまっていた。
 一旦は熱を持ち、ぼうっとしていた頭が一気に覚めていく。
(…しかも…俺、…カカシ先生の前で…)
 何て声を出してた?
 思い出すだに恥ずかしくて、この場から逃げ出したくなる。
 同時に下半身にじわりと集まりだしていた熱にも、後ろめたいような罪悪感を覚えた。
 カカシの事は大好きだ。けれど、上忍であり男である彼に対して、決してこういう事と結びつけて考えてはいけないといつも言い聞かせていた。それだけに、あまりに呆気なくあからさまだった己の体が情けなく、恥ずかしかった。
「――やめて……下さい…っ…」
 もう一度同じ言葉が唇を衝いて出た。


 結局、気持ちが落ち着いてきて「カカシの好意を無下にし、悪戯に傷付けてしまった」とはっきり認識できたのは、彼が出て行って暫くしてからだった。
 普段は何の気負いも無く彼に話しかけているのに、肝心な時に肝心な事が言えなくなってしまう自分が、本当に歯痒くて情けなかった。
 更にそれから数日間は(じゃあどうしたらいいのか?)という事でも悶々と悩んだ。
「もう一度あなたと体の関係を持ちたい」などと、口が裂けても言えたものではない。それに、あの時一瞬だけカカシの固くなったものが衣服越しに触れたのだが、それは当然の事ながら己と全く同じそれだった。口づけされていた時、自分のものも同じように反応しだしていた。
 それを思い出す度に(無理! 絶対無理だ!)と何やら気が遠くなり、同時に気力の萎えを感じる。でも、だからといって「このままずっといい呑み友達でいましょう」などと言い出す勇気もなかった。一度は恋人として進展させようとしてくれていた思い人に「このままで…」などと切り出せば、即座に「じゃあもういいです、別れましょう」と言われそうで怖かった。もしそう言われたら、その後何と言って彼を引き止めたらいいのか。
 イルカには一言の台詞も浮かんではこなかった。


 数日後、堂々巡りの最中に(このままでは彼とどんどん疎遠になってしまうのではないか)という嫌な予感がして、慌ててカカシを探し回るも、その姿が里の何処にも見当たらない。どうやら遠方の任務に出ているらしかった。
 いつ帰ってくるかも分からないまま、イルカは仲直りの機会を設けたい一心で、いつもの居酒屋や自宅での食事ではなく、神社の前夜祭…宵の宮に誘うことにした。
 それまでにカカシが帰ってくれば良し、もし帰ってこなくても、いつかあの伝言を見てくれたなら、自分が仲直りをしたいと思っていると伝わるのではないか。そう思った。

(ここに来て下さったって事はまだ…、まだ気持ちがあるって事ですよね?)
 先程から黙ったままの上、どうにも心情の読み切れない顔をしている上忍を、イルカはこっそりと横目で見やる。気の早い秋の虫の鳴く夜道に、雪駄と桐下駄の音が交互に響いて、何を話していいか分からない二人の気まずい空間を何とか満たしている。
 暫くそうして歩いていると、夜道の両脇に赤い提灯が点々と灯る通りへ出た。ここが境内へと続く表参道だ。
 見慣れた里の一本道が、どこまでも連なる提灯の灯りに赤く染まっている。まるで全く別の通りのようだった。赤い灯の先に見えている鬱蒼とした鎮守の森からは、白や赤や橙色の色とりどりの灯りが漏れているのが見える。そこからは軽やかなお囃子や、賑やかな人々のざわめきが、若干涼しくなってきている夏の夜気に乗って流れてきていた。


「あ、やってるやってる! 何だかこう…わくわくしませんか? あの雰囲気」
 イルカが弾むような声を上げ、カカシの方を見る。
「――えっ、…ええ、そう、ですね」
 急に話を振られ、上忍は曖昧な返事を返した。
 その時チラと見た浴衣姿のイルカは、無数の赤提灯の光に朧に照らされて、いつにない不思議な色香を放っていた。
 全ての色を打ち消して、ただ赤と黒だけが織りなす世界に、彼の姿がぼんやりと浮かんでいる。唯一緋に染まらずに黒々としている瞳が、てらりと濡れ光って自分をじっと見つめている。それは脳裏に直接焼き付くような、酷く印象的な光景だった。
 慌てて目線を前に戻し、知らず早くなった鼓動を鎮める。
(こういうのって…絶対まずいよな…)
 ここに来た目的を忘れ、つい心騒いでしまっている自分をカカシは戒めた。



 石の階段を十数段上がって広い境内を見渡すと、そこは別世界だった。
 宵闇にきらめく目映い屋台の裸電球と、境内を彩る赤や橙の提灯。その中で行き交う色とりどりの浴衣や甚平。参道の両脇に並んだ屋台の暖簾や無数の品々が放つ、目まぐるしい程賑やかな原色の洪水。
 夜店の様々な食べ物の匂いが漂い、非日常の世界へと誘う昔ながらの遊興の店がどこまでも軒を連ねている。
 人々の楽しげな会話と小気味よい下駄の音が幾重にも織り重なり、独特のざわめきとなって一帯を満たしている。
 誰もが皆、この里の豊かさと平和を一杯に享受し、心から満喫していた。


「うわぁ、賑わってるなぁ〜!」
 イルカはすっかり子供のような表情になり、生き生きと瞳を輝かせている。
 「歩きますか」とだけ言った自分の言葉に、彼が「はい!」と屈託無く答え、二人は境内をそぞろ歩き始めた。

 前をゆくイルカの高く括った黒髪が、自分のすぐ目の前でゆらゆらと揺れている。
 少し汗ばんだ首筋に、まとめきれなかった後れ毛が幾筋かまとわりついている。
 時々こちらに振り返っては一言二言話しかけ、何処かを指差し、微笑みかけては、またからころと下駄を鳴らして歩いてゆく。
 楽しげに左右を代わる代わる見渡しているその横顔を、白熱灯の灯りが両脇から優しく照らしている。
 姿勢のいい体を包んだ浴衣の袖や裾が歩くたびに揺らめき、彼の甘やかな体臭が夜風に乗って、からかうように鼻孔をくすぐる。
 それはまさに、儚い一夜の夢そのものだ。
 何もかも…そう何もかもが、明日の朝目覚めてみればきれいに消えて無くなっている。
 その儚い光景の全てが愛おしくて、カカシは胸が痛んだ。












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