「あ、カカシ先生、金魚掬い! ね、やりましょう?」
「え? 金魚? …いや、オレはもういいですって」
カカシはもう十分、といった様子で半分逃げ腰になる。しかし、イルカはすっかり乗り気になっていて、もう早色とりどりの魚が泳ぐ水槽をきらきらした瞳で見渡している。
「おじさん、二つね!」
(あぁーもう〜〜)
観念した上忍は、空気が抜けていくようにイルカの隣に座り込んだ。
水色に塗られた横長の浅い水槽には、一体何百匹いるのかと思うほどの色とりどりの金魚が、所狭しとひしめき合っていた。
あるものは斑模様、あるものは真っ白。あるものは尾ひれが短く、あるものは鬱陶しいほどに長い。目が出っ張っているもの、太ったもの、痩せたもの…。
こんなに沢山の金魚を、こんな間近で見るのは初めてのカカシは、その多様さに少なからず驚く。
「ホイよ」
店のオヤジから、白い薄紙の張られた掬い網と、水に浮く銀色の入れ物が手渡される。上忍はそれを、物珍しげにじっと見つめた。
「カカシ先生は、どんなの掬います?」
座り込んだイルカは、早くも水槽に身を乗り出すようにしてあちこち目を走らせている。
(どんなのってね…)
カカシは内心苦笑しながら、周囲の様子を黙って伺う。
白い薄紙は、水に浸かると随分と脆くなるようだった。
折角金魚が紙の上に乗っても、いざ掬い上げようとすると金魚が暴れる。すると、決まって尾ひれが当たった部分から紙が破れるのだった。
金魚は「やれ助かった」とでも言いたげに、その破れ目からつい、と水の中へ泳いで行ってしまう。
(…ふうん)
心の中で小さく鼻を鳴らした。そして傍らで熱心に水面に向かっているイルカの方を見やる。
すると、早くも白い紙が少し破れているではないか。
(あららっ。もう?)
この男、ある程度のコツ教えてやれば、素直にそれを実行して成果を上げられるのだが、そのコツを自分自身で見出す要領の良さに欠けるきらいがある、と思う。
(まぁそんな不器用なところが、この人の魅力でもあるんだろうけど…)
と、そこまで考えた所でカカシは(馬鹿、何考えてんだオレ?)と、慌ててその考えを打ち消した。
結局、カカシの見ている前で、イルカの白い網は小さな魚達にいいように破られてしまった。
「うーん、難しいなぁー!」
彼は腕を組んでしきりに残念がるが、こちらをまじまじと見ているカカシに気付いて「掬わないんですか?」と覗き込んでくる。
(そんなに難しいことか…?)
とりあえず魚の尾びれに気を付ければいいだけだろ? と思いつつ、カカシはやれやれといった調子で真下の水槽を覗き込む。
色や形が違うことに、一体どんな理由があるのかなんて知らないが、魚達は片時も止まることなく常にゆらゆらと揺れ動いている。生ぬるい水の中、ひしめき合うようにして縦横に行き交うその様子をただじっと見下ろしていると、何だか目眩がしそうだった。
不思議な光景だと思う。
(でも、里に暮らすオレ達も、神とかいう奴が見ればこんなもんなんだろうけど)
小さく自嘲した。
(でっ、この中のどれかを掬うわけね…)
こんなに一杯いる中からオレに掬われるなんて、よっぽど運の悪い奴だな、と思う。
とその時ふと、随分泳ぎの下手な金魚が一匹混じっている事に気付いて、カカシの目線が止まった。
そいつは一点の模様もない、塗り潰したように真っ黒な色の、ちっぽけな出目金だった。よく見ると、二つに割れた尾ひれが他の奴等に比べてかなり短い。よって上手く前に進めずに、自身でもどこか戸惑っているように見えた。
(よし、こいつにしよ)
何だかその魚に妙な親しみを感じて、カカシはそっと網を水に沈めた。
ちゃんと紙が破れにくい角度で水に入れ、その真っ黒な魚の尾ひれだけを器用に網の外に出して、予め寄せてきていた入れ物の中に素早く掬い入れる。
するとその小さな魚は、嘘みたいに大人しく丸い器の中に入っていった。もちろん薄紙は半分濡れただけで、どこも破れていない。
「うわ! カカシ先生上手い!」
イルカはすっかり目を丸くしている。
「ハイ、じゃ交替」
カカシは少しぶっきらぼうな物言いで、イルカの鼻先に濡れた網をぐいと差し出した。
「え、なんで? もっと掬えばいいじゃないですか」
「や、オレはもういいです。 ほら、早く。網は立てすぎると水の抵抗が大きくなって破れやすいですよね? でも全く水平だと魚と水の重さでやはり破れ易いんです。そう考えると網は四十五度程度に持って掬うのがベストですよ?」
「あぁ、なるほど!」
イルカが大きく頷く。
「それから、魚だって掬われるのは嫌ですから暴れます。だからそういう時は、尾ひれだけが網の外に出るようにして掬い上げればいいんです」
「ああ、そっかー!!」
イルカは、黒々とした瞳を一段と輝かせた。
話が聞こえていた周囲の客達も皆「なるほどねー」と相槌を打っている。
店の親父オヤジが「営業妨害だ」と言いたげにカカシを睨んだ。
「あぁっ!」
耳元でいきなり大声が発せられ、カカシは思わず亀のように首を竦めた。
(もしやまた…)と、恐る恐るその声の主の手元を見れば、案の定白い薄紙はぼろぼろだ。
「おじさん、もう一回っ!」
間髪入れず、イルカの気合いの入った声が上がると。
「あいよ」
店主の笑いを含んだ答えが返る。さっきからこのやり取りを、一体何度繰り返しているだろうか。
イルカは即座に小銭を渡すと、再び真剣そのものの表情で水面に向かっている。
彼が手に持っていた団扇は背中の帯に差され、着物の裾は帯にからげられて、日に焼けていない白い脚が、白熱灯の灯りに晒されている。
こうなってしまった時のイルカは、信じられないほど粘り強く…と言えば聞こえはいいが…頑固だ。しかも、この金魚掬いではカカシに引けをとりたくないと、一生懸命見栄えのする金魚を狙っているがために、なかなか成果が上がらない。
要するにすっかりムキになってしまっていた。
(まったくもう…、意地っ張りなんだから…)
カカシは手元のビニール袋の中でふらふらと頼りなげに泳ぐ、尻尾の短い小さな黒い魚を見つめた。
「――楽しかったですね、お祭り」
祭りの喧噪から随分と離れた頃。
イルカが、同意を求めるように訊いてきた。
彼の右手には、見事な尾ひれを持った、とても美しい赤い出目金が一匹下げられている。随分と苦労して、ようやく掬ったものだ。
そして左手には、丸い硝子の金魚鉢が一つ。これは、あまりにも大金を注ぎ込んでくれたという事で、店のオヤジが半額でいいとまけてくれたものだった。
「ぁ? …えぇ、…まぁ…」
まさか当初は別れ話を切り出そうとしていたとも言えず、カカシはやや曖昧な返事を返す。
しかし思い返してみれば、すっかりイルカのペースに乗せられてしまい、それなりに祭りを楽しんでしまっていた自分にふと気付く。
(ホント、あなたにはかないませんね)
いつしか「距離をおきませんか」などという申し出は、カカシの心から離れ、四散してしまっていた。
振り返ると、背後の鎮守の森からは幾筋もの淡い光が漏れ、南風に乗って時折お囃子が響いてきて、あの場所が夢や幻の類などではなかった事を教えている。
(オレが夢にしたかっただけ、か…)
カカシは僅かに口端を上げると、祭り囃子に背を向けた。
「あれ、こいつ、あっぷあっぷしてる」
ビニール袋を目の高さに掲げ、さっきから何度も何度も金魚を眺めていたイルカの、明るかった声のトーンが変わった。狭い世界で盛んに口をぱくぱくさせている魚を見つめながら、形の良い眉を顰めている。
「水の中の酸素が足りないんですよ」
カカシの持った黒い金魚も、同じように水面を彷徨っていた。
「何だか苦しそうだなぁ。早く帰ってやらないと」
「ああ、じゃ、オレのとこで水替えて行きます? 裏に井戸がありますよ」
「あ、はい」
静かな夜道に、下駄と草履の音が早足で響いた。
あれほど無数にひしめいていた中で、たまたま自分達に掬われ、丸い透明な世界で共に暮らすことになった二匹の魚を、イルカは先程から飽きもせず見つめ続けている。
テーブルに両腕を乗せ、その上に顎を乗せて、金魚鉢に鼻が付きそうなくらい間近で見つめ続ける表情は、すっかり上機嫌のそれだ。
「この赤いやつ、すっごく綺麗でしょう?」
ソファにもたれてビールを呑んでいる男に、イルカが自慢げに話しかける。カカシは可笑しくて仕方ない。
「その黒い奴、すっごく不器用そうでしょ?」
笑いを堪えながら同じように返すと、ムッとしたイルカが金魚鉢からカカシの方に視線を移して睨む。
「――それって…俺みたいだって言いたいんですか?」
「いいえ〜、誰もそうは言ってませんけど?」
上忍はあからさまに笑いを含んだ声音で、男をからかう。
「…そりゃあオレは…カカシ先生みたいに器用じゃないですよ…」
確かに今日の自分の不器用さにはちょっとへこんでいた。自然と顔が俯く。
(おまけに、見た目だって良くないしな…)
イルカは、行き帰りの参道で無数の赤提灯に照らされた、美しい上忍の姿を思い出した。
白に近い輝く銀髪や滑らかな肌、そして銀鼠の浴衣までもが滲むような緋色に染まっていてハッと息を呑んだ。中でも左の瞳は特別赤く輝いていて、その容姿は畏敬の念すら覚えるほどの鮮やかな存在感を放っていた。
きっと一生忘れない祭りの記憶として、胸に刻まれるだろうと思った。
「――別に、二人ともが器用である必要なんて、ないでしょ」
睨まれたカカシが、苦笑しながらぽつりと言った。
「え…?」
「だって、この先もずっと二人で居るんだから。……そうでしょ?」
「――ぁ……あ……はい…はいッ!」
イルカは、顔をくしゃくしゃに歪めながら、一も二もなく大きく頷く。
「さっきの射的だって、初めてにしては上手くいったと思いません? オレ達って、案外二人で協力して一つのことをするのに向いてるのかもしれませんよ?」
「あはっ、そうですかね? いや、そうですよね!」
だが、立ち上がって近付いてきたカカシに、ビールの味のする深い口づけをされ、高く括った髪を解かれた瞬間、イルカは上忍の誘導尋問に上手く乗せられてしまっていた事を知った。
「――…っ、……ぁ! ぁ! 待って! カカシ先生…!」
裸のイルカがカカシの下で大きく仰け反るたび、ベッドが軋む。
「力抜いて。ね、もっと体の力抜いて。大丈夫だから、息止めないで」
さっきからずっと愛撫を重ね、何とかイルカを落ち着かせようとしているカカシ自身の吐息も、だいぶ前から隠しようもないほど熱い。
イルカとて、明らかに自分に反応している想い人の高ぶりを間近に感じると、もうそれを拒む理由などなかった。
(…でも、でも…)
でも、何をどうしていいか分からない。カカシの言っている事は分かっても、竦んだ体が言うことを聞かない。それなのにカカシの与えてくる快感だけは、容赦なく体の芯を直撃し、五感を痺れさせる。怖いだとか恥ずかしいなどと言っている暇も無い。
行き場のない両手でシーツをきつく掴んでみるけれど、とても心許なくて耐えきれない。
大混乱に陥りながら、夢中でカカシにしがみついた。
やがてイルカの体は、小刻みに震えながらも少しずつカカシを受け入れ始めた。
「――あッ! ……あぁっ…ぁっ……っ!」
目尻にたちまち涙が浮かび、反り返った喉から切れ切れの呻きが漏れる。
熱い吐息を撒き散らしていたカカシが僅かずつ腰を沈めながら、合間にあちこちにキスを落としていく。目尻の涙を掬い、強ばる体を優しくさすり続けた。
時間をかけて、ようやく二人が一つになれた後。
重なり合ったまま、酷い暑さも忘れて深い口づけを交わしだすと、一旦は痛みで萎えかけていたイルカ自身が再び勃ち上がり始めた。それを軽く扱いてやると、雄として当然の、何とも気持ち良さそうな素直な反応が返ってくる。
頃合いを見てカカシがゆっくり動き出すと、最初は辛そうに耐える仕草を見せていたイルカも、だんだんと苦しい喘ぎの中に別の表情が見え隠れしだした。
(……気持ちいいよね、ホント。――最高…)
その微妙な変化を読み取ったカカシは、一人喜びを噛みしめる。
喉を仰け反らせ、甘い声を漏らしながらしきりに喘ぐイルカの姿は、まるで酸素を求めて水面を彷徨う魚のようだった。
「…ぁっ……ぅっく…」
やがて、イルカが必死で何かを我慢するような表情を見せ始めた。
「――もう……いけそう?」
深く突き入れるたび、顎の先から彼の体に汗を滴らせつつ、カカシが訊ねる。すると向かう男は眉をきつく寄せたまま、浅い息の中ですぐさまこくこくと頷き返してくる。
カカシは満足そうにうっそりと笑むと「一緒に、いこう」と、吐息の合間に囁いた。
イルカの表情と、己の快感を計りにかけながら、大きくずれていた双方の照準を少しずつ合わせていく。わざと少しだけずらしてあった己の快感が一足飛びに高まってくるにつれ、、暗かったカカシの脳裏に赤や白や朱の光の断片が瞬き始めた。それはどこか、あの夜祭りの遠い灯に似ていなくもない。
汗と涙で顔に幾筋も髪がまとわりついているイルカの吐息にも、酷く切なげな響きが混じり出す。
(……あつ…い…)
イルカが、イルカの中が。そしてイルカの中にいる己が。
触れ合っている部分が熱すぎて、それ以外の感覚が分からない。暗かった脳裏は、今や真っ白な強い光で溢れている。
「…ぁっ……ぁ…ぁ! あ!」
「――っ…!」
カカシが白いシーツの網ですくい取った黒い魚は、びくん、びくんと体の奥から何度も跳ね、背中をきれいに反り返らせながら、次第に静かになっていった。
(……何もかも諦めてしまわなくて……良かった…)
シャワーを浴び、隣で深い眠りに落ちているイルカの瞼に、上忍がそっと唇を乗せる。
先程までの激しい昂ぶりは、夜空の遙か高みへと駆け上がって消えていた。かわって今は、気怠くも穏やかな充足感が部屋を静かに満たしている。そう、こんな日をもうずっと待っていた。
ふと目の端に何かが動く気配を感じて、ベッド脇のテーブル上を見やる。とそこには赤と黒の二匹の金魚が、丸い硝子の中で気持ちよさげに泳ぎ回っていた。
だが、ゆらゆらと常に優雅に振られ続けているその尾びれは、見ようによってはどこか拙くてもどかしく、とても懸命な動きにも見える。
カカシはその小さな命の揺らぎを暫しの間見つめ、やがて白いシーツに散らばった黒髪に顔をうずめると、酷く幸せそうに目を閉じた。
「金魚」 終
このお話は、「KIOSUK」のばいおばさんより頂戴した暑中見舞い絵や、彼女が某所の絵板で描いた金魚掬いのイラストを元にして書かせていただきました。
ばいおばさん、随分と遅いお中元になってしまいましたが、ご笑納頂ければ幸いです。
2003.8.28. 雫拝
ばいおばさんから素敵な挿し絵を頂きました!
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