(――えぇっと…ここで、いいんだよ、な…?)
 予めネットに載っていた道案内は覚えてきたつもりだが、実際に現地に立った途端、急に心許無くなってくる。乱立するビル、同じような太さで縦横に交叉する道路、騒々しく走り抜けていく無数の車、どこかへ向かって忙しなく歩いて行く人、人、人…。それらを目の当たりにすると、確かだったはずの記憶の地図が、一斉に不確かなものに変わっていく気がしてならない。まぁそれらは今に始まったことではないのだが、「いつものように」何度も景色と記憶を照らし合わせ、それでもまだ何となく信じられなくて、プリントアウトしてきた地図を取りだし覗き込む。
(――うん、あってはいそう、だな)
 何となくこんなことになるんじゃないかと、指定された集合時間より三〇分以上余裕をもって来ていたが、今となってはそれだけが拠り所だ。これから会う見ず知らずの人達に、いきなり迷惑をかけるわけにはいかない。サイトにあった「徒歩8分」という数字を信じて歩き出した。

     * * *

(…ぁ、あった、あれだ!)
 道中感じの良さそうな飲食店を幾つも横目に見ながら、どのくらい歩いたろう。覚えのある黒地に白文字の立て看板を見つけたところで足が速くなる。よかった、間に合った。この見知らぬ一本道を一体どこまで行くのかと、内心不安になっていたところだった。
 早速打ちっ放しのコンクリートが洒落た印象の地下へと階段を降りていく。入り口周囲は晩秋にちなんだ植栽で鮮やかに彩られていて、何となく「ちょっと怖い催しだったりして…?」と勝手に緊張してしまっていた部分を優しく和らげている。
「――あの、こんにちは。五時で予約をしてました、海野といいますが…」
 言いながらバリアフリーになっているガラスのドアを押す。と、広いロビーにいた人達に、次々「こんにちは!」「遠い所ありがとうございます」と声を掛けられ、更にホッとする。ロビーは外観同様に洒落た雰囲気で、あえてかなり暗めに調整されたオレンジ色の灯りがいい雰囲気だ。周囲に客らしき姿は見えない。まさかの一番乗りか?
 スタッフの一人が近づいてきて、勧められるまま長椅子に腰を下ろし、事前の説明を聞く。
「本日は当ワークショップにお越し頂き、ありがとうございます。お客様は当館の暗闇体験は初めてでいらっしゃいますか?」
「ぁ、はい」
 そう、今日俺は、母親のお腹の中以来(?!)という、「完全なる暗闇」を体験しに来たのだ。物好き? ははっ、そうかもな。お化け屋敷は頼まれたって入らない主義なのに、なんで5000円も払って暗闇なんだって聞かれても、上手く答えられそうにない。でも何だか面白そうだなと思っちまったんだ。答えなら後からついてくるだろう。
(たぶん、な?)

「では、これから真っ暗なお部屋に入っていく際の、ご案内をさせて頂きますね――」
 暗闇体験とはまさに読んで字の如くで、本当に目を開けても全く何も見えない、純度100%の真っ暗闇に身を置いてみようという試みだ。発祥はドイツで、もう世界35ヶ国以上でその国独自の発展を遂げているという。日本で開催されるようになったのは、17年ほど前とのことだそうだ。
 申し込みも簡単だ。老若男女、誰でも参加できる。予め希望の時間をネットから申し込んでおくが、日によってはすでに殆ど埋まってしまっていたりして、案外物好きの同士は多いようだった。体験時間は90分で、一度に入れるのは八人までだが、『知り合い同士は四人まで』と決められている。あえて見知らぬ人達と暗闇に入ることを勧める理由は書かれてないが…なんだろうな?
「もしもポケットの中などに落ちやすいものがありましたら、お荷物と一緒にあちらの返却式のコインロッカーに入れておいて下さい」と言われて、慌ててポケットを探った。確かに鼻をつままれてもわからない暗闇のどこかにものを落としたら最後、床に落ちたコンタクトレンズ以上の騒ぎになることは想像に難くない。当然その日のうちに戻ってくることもないだろう。
「それと、真っ暗な暗闇を体験して頂くので、光るものはご遠慮頂いております」
「はぁ…光るもの?」
 そう言われて初めて、携帯をはじめ、鞄や靴に着いた蓄光板や腕時計の蛍光塗料、洋服のブラックライトに反応するプリントなどなど、様々なところに光が存在していることに気がついた。何となく映画館程度の暗さを漠然と想像していたけれど、この徹底した感じからすると、どうやらそんなレベルじゃないらしい。うわぁ、なんか急にドキドキしてきたぞ。あとでトイレいっとかねぇと〜。
「それとですね、今回中でちょっとした買い物とお食事をして頂く機会を設けておりますので、宜しければお金の用意をお願いします」
「へっ、食事?」
 ふと脳裏を「闇鍋」という単語が過ぎったが、なるべく頭の隅に追いやって想像しないようにしておく。買い物についても「なにを? どうやって??」と疑問符しか浮かばないが、財布を覗くといつになく沢山小銭が入っている。「額はそんなに多くなくても大丈夫です」という言葉を信じ、その全てを取りだすと、渡されたチャック付きのウエストポーチへと投入した。

     * * *

(――ふー、ちょっと落ち着いたぞ。…あれ)
 荷物をコインロッカーに入れ、やたらと明るく感じる手洗いから元の薄暗いロビーへと戻ってきた時だった。
 さっきまで誰もいなかったフロアに、新しいお客が来ていた。
「あの、五時で予約してました春野ですけど…」
「あっ、オレも! オレもおんなじ回な! いまよ、すぐそこで道聞いたら一緒のとこに行くっていうからよ。な、すっげぇ偶然だろ? …へ? あぁオレ? 渦巻。渦巻ナルト」
 優しい髪色の女性と、やたらと元気な金髪の青年だ。いずれも若く、年格好からして十代半ばから後半といったところか。何となく大人がメインのワークショップだと思っていたのだが、学生も興味を持って参加しているらしいことに頼もしさを覚える。
 その二人が長椅子に座り、スタッフから説明を聞き始めたところで、更にもう一人がふらりと入ってきた。スタッフが「十七時からご予約の方ですか?」と声を掛けると、「ああ」とだけ答えている。服装は大人びて見えるが、彼も自分よりはだいぶ年下のように見える。
(ひょっとすると今日の体験は、仕事の延長みたいな感じになったりしてな?)
 でもそれならそれで好都合だったりもする。自分が教師をしている学校で、授業の一環としてこのワークショップを取り入れることができないかと、個人的視察をかねて来ている一面もあるからだ。
 ロビーの壁沿いに物販コーナーがあり、この暗闇体験に関する著書が売られているのを見つけて、帰りの電車内で読む気満々で早々に二冊購入している。もう準備万端だ。
(よーし、あとは体験するだけだな!)
 
     * * *
 
「――はい、では時間になりましたので17時の回の方、こちらにお集まり下さい」
(おっと、いよいよか)
 長椅子に座り、靴ひもを結び直していたところでロビーの一角から声が掛かっていた。壁の時計を見ると、予定の時刻を三分ほど過ぎている。日曜だからてっきり満席かと思っていたが、どうやらこの四人で回るらしい。
「み、みなさんこんちには。今日この5時の回のご案内させて頂きます、日向ヒナタといいます」
「おうっ、よろしくなっ!」
 初対面の彼女を前に、さっきナルトと名乗っていた青年だけが反応良く元気に返事をしている。でも次の瞬間、自分も会釈だけでなく声に出して挨拶すべきだったなと気付いていた。彼女は視覚障害者で、目を使ったコミュニケーションは取れないからだ。
「私達のことを、ここではアテンド(案内人)と呼んでいますが、私達アテンドは内部のことは隅々まで熟知していますので、どうぞ安心してついてきて下さいね」
 彼女はその控え目な口ぶりからすると、本来は大人しめの性格のようだが、説明は明快で、声もとても聞き取りやすい。目を閉じたまま少し小首を傾げ、一生懸命我々参加者の様子を知ろうとしていることがわかる。
「うっす!」
「はぁーい!」
「宜しくお願いします」
 言ったときだった。
「――いやいやいやーー、すっかり遅くなってすみません。お仕事という名の暗闇にハマッちゃってまして〜」
(へ?)
 スーツ姿の背高い男が、真っ直ぐこちらに向かって歩いてきている。なんと、このタイミングで五人目の参加者が到着したらしい。が、間に合うだろうか。
「はあァ? もうなによそれ〜」
 早速唯一の女性参加者である彼女が小声でツッコミを入れている。この年頃の女の子に、その手のぬるいギャグは禁物だろう。そうでなくても遅刻をしてきているのだ。ずっと俯き加減の黒髪の青年も細い眉を顰め、あからさまに迷惑そうな顔をしている。集まっていた一同の間に流れる微妙な空気。
 男はフロントに名前を告げ、持っていたビジネスバッグとコートをウインクと手刀ひとつで押し付けたかと思うと、さっさと輪の中に入ってきて俺の隣りに立った。スタッフが声を掛ける間もない。
「やぁほんとすいませんねぇ。あそうそう、すみませんついでに、オレの財布預かっておいて貰えます?」
「えッ? やっ、いいんですか俺で?」
 なんのためらいもなく、いきなり尻ポケットから高価そうな革の財布を差し出されて面食らう。
「いいですよ。ここじゃあ持ち逃げしようったって無理でしょうし」
(いやしねぇって!)
 落とした時が心配だから言ってんだって!
 だがこの男、どこまで調子がいいんだろう。「ハイじゃあ宜しく〜」と、腰に付けたウエストポーチのチャックを勝手に開けて押し込んでくる。どうやらこの体験が初めてではないらしいのだが、何だか困った人だ。
「ゴメンね〜中断させちゃって。じゃ、続きを。どーぞ?」
 すらりと背高い、如何にも一線で活躍しているといった身なりのビジネスマンだが、年は俺より少し上くらいか? 見事な銀髪が年をわかりにくくさせている。
「ぁ…はい。今朝当日申し込みされた方ですね。お待ちしてましたので、間に合って良かったです」
 闖入者のあまりの堂々とした様子に、スタッフであるヒナタも少々面食らったようだが、年間何千人もの人々を暗闇に案内しているであろう彼女にとって、この程度のハプニングは日常の範囲内なのだろう。すぐに落ち着きを取り戻して説明を再開した。
「ではこれから少しずつ暗さに目を慣らして頂きながら、だんだんと暗い部屋に移っていきますが、この先暗闇で誰が誰なのかわからないと不便ですので、簡単な自己紹介と、あとみんなに呼んで欲しいお名前を、お願いします。まずは私からですが…皆さん私のことは、ヒナタって呼んで下さっています」
「ヒナタ」
「えっ? はっ、はい?!」
「あ? 呼んでみただけだってばよ?」
「バカナルト! 紛らわしいことすんじゃないわよ。そりゃあヒナタは私より美人だけど、声掛けるのは十年早いわっ」
「ぷっ…」
 思わず笑ってしまった。この二人、きっと暗がりでも賑やかなんじゃないだろうか。
「ぁ、いえ…あのっ、いいんです。実は私、皆さんみたいに面白い話で笑わせたりとか、その…とても下手なので、今みたいにみんなに色んなことを話して頂けたほうが…そのほうが、きっと私でもお役に立てることがあるんじゃないかって、思います。きょうは、宜しくお願いしますっ!」
「「お願いしまーす!」」
 では一番右の方から、と言われ、金髪の青年が「ぁ? 右って? オレか?」と自分を指さしているのを頷くことで促す。(あぁそうだ、しまった)
 気付けばまた視覚だけでコミュニケーションしてしまっていた。どうもまだ声を出し慣れない。
「えーとォ? あぁ名前はナルト。ここには父ちゃんが『きっと面白いと思うよ』っつーから来たんだけど、正直なんかまだよくわかんねぇかなぁ?」
「もー当たり前でしょ、まだなにも体験してないんだから」と即座に突っ込んだのは、その隣りの彼女だ。この二人、待ち時間の間に随分仲良くなったらしいが、よほど馬が合うのか、すでに雰囲気が幼馴染みみたいになっている。





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