電車が駅に近づいてきたことを知らせる地下鉄特有の風が吹いてきて、いよいよその時が来たことを告げている。
「じゃ」
 今のはほんの小さな計画だったけれど、考えていたことがその通りに出来た。なんだかいい気分のまま、自動改札に向かって踵を返す。
(――おわっ?!)
 だが誰かに二の腕を掴まれ、自動改札に押し付けようとしていた財布が直前で止まった。誰ってそりゃあ。
「ね、少しだけ、いい?」
「っ?! …は、なんでしょう?」
 話は全て終わったのではなかったのだろうか?
「いいから、少しだけ」
「はぁ…、あわっ?」
 そのままタイルの貼ってある壁際のほうへと引っ張って行かれる。なんなんだ一体。連絡先の交換については、そっちがバリア張ってるみたいだから言い出さないでおいたのだ。今頃教えろとか言うなよ?
「カカシさん仕事は? 大丈夫なんですか?」
「平気。それより、ね。ちょっとだけ」
「ぇ? あぁ、はい…」
(なんだろう)
 さっきから同じ言葉ばかり繰り返しているその様子は、これまでとは何だか少し雰囲気が違う、ような。
 財布をポケットにしまいながら、彼の言葉を待つ。電車がホームに入ってきたらしく、吹き上げてきた風が二人の髪を強く揺らす。
「オレ、前に一度暗闇体験に来たことあるって、言ってたでしょ」
「ぇ? はぁ? えぇはい」
 何の予想をしていたわけでもないけれど、全く思いもしなかった話が始まって、急になんだろうと思う。彼は何を言おうとしている?
「あれ、嘘じゃないよ。もう何年も前の話なんだけど。ただその時の参加者がね、オレ一人だったんだよね」
「えっ、一人?」
 嘘とも思ってなかったが、まさか一人とは思っていなかった。そうか、そういうこともあるのか。
「うん。たまたまらしいけど、運悪く直前に四人キャンセルが出たみたいで」
 確かにそれは運がないし、何より気の毒だ。もちろんその時はその時で男性のアテンドと二人でまわり、大人数で回った時にはおおよそ聞くことのできないような、裏方の運営事情なども沢山聞けたらしいのだが。
「その頃のオレって、仕事でやたらと肩肘張ってる時でね。もちろんこの稼業ってのはある程度は自信家で、客の前では常に堂々としてなきゃ務まらないわけだけど、連戦連勝だったせいでだいぶ天狗になってて。オレ一人で世界を回してる、くらいの気分だったから、中に入った途端暗闇で何も出来ずに一人で突っ立ってるしかない自分に、頭ぶん殴られたようなショック受けちゃってさ」
(カカシさん…)
 さっきまで頑なに自身のことを語ろうとしなかった男が、突然堰を切ったように自らのことを話し始めている。こんな場所で? いやこんな場所だからなのか?
(もしかして…)
 いまここで口にしたことは、すぐさま右から左へと聞き流して、明日の朝にはきれいさっぱり忘れていてくれて構わないって、思ってる?
(そんなこと、できるわけないだろ)
 赤ワインが今頃回ってきたのでもあるまいし。無理やり引き止めておいて、そんな言い訳が通用するとでも?
「今思えばあそこって、想定外の事態を体験出来る、一種のシミュレーターみたいなもんなんだよね」
「ええ」
 おおかたの人は入るとすぐに己の無力感を味わい、不安を感じるものの、そこで見ず知らずの人と助け合えれば不安が解消でき、無力感が克服できることを知る。当時カカシさんがそれを体験出来なかったのは勿体ないことだった。
「結局その無力感は後々まで残ったわけだけど、自分のこの見た目にはさ、ガキの頃から納得いかない嫌な思いも色々してきてたから。そいつから一時的にでも解放されたのは大きかったよ。ほら、あそこには鏡も光もないわけだし、アテンドはオレの見目なんてまるで気にしないわけだからね?」
「ええ」
 そして彼の外見が気にならなかったのはアテンドだけでなく、彼自身もだったろう。どれほど高価なスーツも、腕時計も、髪色も、顔形も、そして肩書きさえも、暗闇では自身を取り巻く全てがきれいに塗り潰されて「ただの人」になれる。
「そう、だったんですか…」
「だからあの時はあの時で、行った意味はあったと思ってるんだけどね」
 カカシさんはその時から、あの施設が定員割れを起こしがちで、必ずしも経営が順風でないらしいことには気付いていたという。だが、だからといってどう改善すべきかというような考えは湧かなかったらしい。巨額の資金を動かす投資家達が興味を示すビジネスモデルこそが世の中を動かし、勝機もそこにしかないと思っていたという。
「恥ずかしい話だけど、まだまだ青かったんだね。その後市場が暴落したら、莫大な額の損失出しちゃって。あっさりクビになっちゃった」
「な…」
(クビって…)
 思った通り、自分とは真逆の世界に住んでいるらしい男の話に、二の句が継げない。
「ま、それがきっかけで会社立ち上げて独立することにしたわけだけど、そのお陰で人との協力や繋がりが如何に大切かってことも、嫌ってほどわかってさ」
「でも、なんでもう一度行ってみようと思ったんですか?」
 この施設、俺もとても面白いと思ったくらいだからリピーターはいるだろうが、彼の場合はちょっと事情が違ったろうに。
「なんでだろうねぇ…。まだ事務所立ち上げたばっかだから仕事ないし暇でしょ。夕方近くなってぽっかり時間が空いたからふと思いだして、何気なくサイト見てたらまた行ってみたくなっちゃっただけなんだけどね。何の利害関係もない見ず知らずの人達と一緒に暗闇を回るのって、実際どんな気持ちなんだろうってね」
 でも来てみたら前回より遥かに楽しく、俄然やる気になったのだという。
「へっ? やるって、なにを?」
「もう、なに言ってんの。そんなの決まってるでしょ。これから沢山の子供達にこの体験を受けて貰えるよう、あの団体の財務改革を押し進めながら資金調達を計画して、まず手始めにイルカ先生の学校をモデル校にしながら話を進めるんでしょうが」
「えええぇーーーっ!?」
 俺の間抜けな声が、地下鉄の通路に跳ね返りながら響いた。だって、ええええぇ!?
「えぇって、さっきまで何聞いてたのよ。そんなに驚くことないでしょ。イルカ先生がやりたい、やるって言うから、オレも出来る限りのことをしてみたいんだ」
「ようやく決心がついたよ」などと安堵の表情で喋っているが、こっちの混乱は加速度を増していく一方だ。なんだよ決心て!?
「やゃっ、ちょっと待って!? さっきしてたあの話って、本当の、本気だったんですか!?」
 なんかの例えとか、酒の場にありがちな、呑みニュケーションの一環じゃなく〜!?
 確かにあの団体は広くパートナー企業を募集しているようだし、常時寄付も募っている。彼は彼で広報のやり方から財務の改善方法まで、随分と事細かく具体的に突っ込んだ話をしていて、そのシミュレーション自体は実に面白かったが、それだけに本気とも思っていなかった。一介の地方公務員に、そんなスリリングで大それた投資計画など及びが付くわけもない。
「うん本気。ただ参加費が安く上がるようになったとしても、周囲の説得や調整についてはきっとこの先一筋縄ではいかない大変なことが山積みだと思うんだ。それでもやれる? やってみたい?」
「ゃっ…やってみたいて……。ゃあのカカシさん、あなたって…?」
「あぁオレ? ファンドマネージャ」
(はあー…、やっぱり…)
 学生の進路相談なんてものをやっているせいで、様々な職業の概要は掴んでいるつもりだ。お陰で何となく投資関係者っぽいなとアタリだけはついていた。それでも日系企業なのかと思っていたら、更に苛烈な競争に二四時間、三六五日晒されているという大手外資系に所属していたとのことで、当時あっさりと首を切られたというのも納得だ。
「心当たりの篤志家や法人企業にもあたってみるし、ヘッジファンドが組めないかも考えてみる」
(ヘッジ、ファンド…)
 そうすれば、様々な企業や人々を巻き込みながら、千万から億単位の金が動きだすということで。
「あの、カカシさん」
「はい、なんでしょ」
「えとあの、まさかとは思いますけど、カカシさんてナルト達が言ってた詐欺師じゃないですよね?」
「はッ?」
「俺、貯金なんてからっきしだから、例え上手く騙したところでラーメン一杯がせいぜいなんですけど?」
 そしてそうは言っても心のどこかでは信じて、言われるがままラーメンを奢り続けてしまう気もしているけれど。
「っ、ラ…メン…、――ぷぷっ、そうなんだ。うんいいよそれで、そうしよう。それ以外は一銭も必要ないから、よっ…よろしくね…くくっ……あはははは…!」
(っ、なんだよ、人が真剣に話してんのに。笑い過ぎだろ)
 こんな途方もない、雲を掴むような話をしながらそこまで楽しそうに笑えるなんて、詐欺じゃないならとんでもない心臓だ。内心期待はすれど、不安も募る。
(でも…最初に子供達にやらせてやりたいって言ったのは、俺のほう、なんだよな…)
 彼がその涼しげな顔を歪め、背高い体を折って笑うのを、苦笑いしながら見つめた。

 この壁際に立ってから何度目かの強い風が吹き上げてきて、男の銀髪を後ろへと真っ直ぐ流している。地下鉄のこんな薄暗い照明でも、男の髪がチラチラと光を跳ねている。
「カカシさん?」
 男が一頻り笑い終わるのを待って、再び質問する。
「もしかして、独立一発目の仕事がこれですか?」
 この誰が見ても地味で、誤解はされても理解はされにくい、特殊も極まったようなワークショップを、多方面と協力しながらメジャーなものに育て上げる?
(しかも、俺とーー??)
「いけない?」
 と、それまでヘラヘラ笑いを頬に貼り付けたままだった男が、急に真剣な目元で見つめてきた。
「ゃっ…、いけなか…」
 だがそれ以上言葉が出てこない。到底想像がつかないともいうが。もしも計画が途中でコケたらとか、考えないんだろうか。
(――考えつつやってる、か…)
 そりゃあそうだろう。リターンが莫大なら、リスクもそれ以上ときている。考えずに進められるわけがない。だがプレッシャーだけでも大変な仕事だ。俺なら片時も笑えないに違いない。
「あの団体って、以前全国各地を期間限定で回ってた時は大勢のボランティア頼みで運営してて、ここの代表も数年前まではずっと無給でやってたみたいなんだよね」
「そうだったんですか…、ならまずはそういう体質から変えていかないと」
 でないと、決してメジャーなものにはなり得ないということは、俺も何となくだがわかる。
「まっ、そーゆーこと」
 それから暫くの間、俺達は時折吹き上げてくる風に吹かれながら、ラーメン屋に居た時とは比べものにならない密度で話をした。次に気がついて時計を見た時には一時間以上が瞬く間に過ぎていたが、体の中はその驚きが入りきらないくらい別のもので満たされていたと思う。
「ね、今度ベルギービールの旨い店に行かない? オレいいとこ知ってるから」
 別れ際、カカシさんが新たな提案をしてきた。もうちょっとやそっとの提案では驚かないという自信はあるが、そこでまた経過を報告して話し合いたいという。
「うーん…」
「ね? ……ダメ?」
 確かにあの暗闇での味を思いだすとそそられる話ではあるが、呑みながら計画が練れるかは甚だ怪しい。経過報告だけならメールでも済みそうな気がするし。ただ今日は俺がラーメン屋にしようと言いだしたことで、彼との暗闇で交わした約束が流れてしまっているのも事実だ。
(まぁ、ベルギーのシメがラーメンでもいいなら?)
「ぁ…、えぇ、はい」
「――よかった」
 男は剛胆な心臓の持ち主とは思えないほど、ホッとした表情で微笑んだ。

「カカシさん、一ついいですか?」
「なに?」
 最後に一つだけ聞いておきたいことがあった。心を決めるにあたって、聞いておきたい。
「なんで、俺だったんですか?」
 あの団体に投資をするにしても、学校関係者の具体的な意見を聞きたかったにしても、いち教師の俺などではなく、もっと幅広い知識と発言力を持った教育委員会などの関係者に声を掛けるという選択肢はあったはずだ。だからてっきり自分はこの場限りの情報源であり、今日限りの話し相手でしかないと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。偶然同じグループで回ったとはいえ、なぜ投資素人も極まったような俺なのか。俺が主な相談相手では、如何にも役不足ではないだろうか?
 するとカカシさんは、明らかに何か言い出そうとしたもののすぐに言葉を飲み込み、暫くしてゆっくりと、穏やかに切りだした。
「あの暗闇の中で見ず知らずの人達と協力し合えたことでね、もう一度人を、信じてみようって気持ちになったんだ」
(それはまぁ…確かにそうなんだろうけど)
 だから俺も、カカシさんの話に半信半疑ながら乗ろうとしているのだけれど。
 でも状況としては、そこにたまたま、偶然俺がいただけということで。
「そんなノリで俺なんかを選んでしまって、本当にいいんですか?」
「なんで? いいから話してるんじゃない」
「要は誰でもってことでしょうけど、もしもこの先、ほかに適任者が見つかっ」
「もう、誰でもじゃないよ」
(ぇ?)
 俺の言葉を遮る形で、彼の声が割って入る。その俯き加減の白い横顔を、まじまじと見つめる。
「誰でもじゃない。誰でもじゃないよ。今日オレ達は真っ暗闇からはじまってここまでの間に、もうこれだけ沢山のやりとりをしてきたんだ。同じ体験をしてきたんだよ。とっくに他の人じゃダメになってる」
「………」
 大きな案件を、様々な分野の人達と連携しながら押し進めていく人というのは、きっとこんなふうに人心を掴むのが上手いんだろう。片方ではちゃんとそう思っているのに、もう片方では別のことを考えようとしている。なんだろう、自分でもよくわからない。この場を離れて暫くすれば見えてくるだろうか。
 遠くからまた、低い振動音と共に風が吹き上げてきている。連絡先を交換し合った携帯を上衣のポケットにしまい、財布を取り出す。
「…もしかするとオレ…どんな暗闇でも明るい所でも、変わらず側にいてくれる人を探してたのかもしれない」
「――えっ? なんですか?」
 地下鉄が入ってくる風音でよく聞こえなかった、というと、男が少し慌てた様子で「いやいい、何でもない」と首を振っている。

(聞こえてたよ)
 よく聞こえてた。
 ただ、今すぐには返事が出来そうになかっただけ。

「じゃあ」とだけ言うと、「うん」とだけ返ってくる。そのごく短いやりとりは、今しがたの男の言葉をなかったほうへと傾かせるに十分な、あっさりとしたものだ。
 なのによりくっきりと、胸の奧深くに刻まれていくような感覚を味わいながら踵を返した。


 ホームに続く階段を下りながら、ふと暗闇体験のことを思いだした。
(例えばもしも今ここで、この目の前が真っ暗になったとしたら? 俺は一人で家に帰れるだろうか?)
 ナルト達の真似をして、目を閉じてみる。が、途端に足が止まり、階段を下りるペースにブレーキがかかってしまう。踊り場は何段目で、最後の段は何段目だったろう。もう不安しかない。
(ううーん…これは…)
 何だか無理そうな気がする。いやとても無理だ。ちょっと試そうとしただけでも気持ちと体が竦んでしまって、すぐにもホームに入ってくるであろう電車に乗れるかどうかすら怪しい。なのにその電車をあと二度も乗り継いだうえ、最寄り駅から十五分以上も歩くなんて、明日になっても辿り着けるかどうか…。
(けれどもし側に、誰かがいてくれたら?)
 そしたら多分、ぜんぜん違うんじゃないだろうか。
 誰か一人でもいい。例えその人が同じように何も見えなかったとしても、到着がいつになるかわからないと言われても、俺はその人と前に向かって小さな一歩踏み出せると思うのだ。
 不思議だ。なぜ人は一人より二人なんだろう? どうして一人ぼっちだと、二人の時のような気持ちになかなかなれないんだろう?
 きっと家に辿り着くまでの真っ暗で長い道を歩く間、俺の側にいてくれるその人も、あちこちでぶつかったり、転んだりするだろう。けど、決して頼りない存在とは思わないはずだ。
 例え何も見えなくても、何も聞こえなかったとしても、それでもずっと側に居続けてくれるその人は、「お前はまだまだ無限に感じることができ、やれることは山ほどある」と言ってくれているのだ。

 どうにか階段を下りきったところで、ホームに勢いよく電車が入ってきたのがわかった。強い風が、剥き出しの頬や首筋を勢い良く吹き抜けていく。
(カカシさん…)
 構内に響き渡るガタタン、という大きな騒音の中、ゆっくり瞼を上げると、眩しい世界が視界一杯に飛び込んでくる。
(カカシさん、俺…)
 深く息を吸い込むと、目の前で開いた扉に向かい、俺は真っ直ぐ小さな一歩を踏み出した。




           「やさしいくらやみ パラレル編」 了


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