(変だ、なにかおかしい)と体に…主に目に異変を感じだした時には、それはもうとうに始まっていた。すぐさま駆けていた樹上から降り、出来るだけ人目に付きにくい大木の陰へと身を寄せる。
 心当たりなら、なくはなかった。先ほどの戦闘において、相手方に一つだけ発動してないと思しき術があった。ただそれが相手のミスで不発だったと思った一拍のちには、こちらが繰り出した雷切で戦闘そのものが終了していたため、そのままになってしまっていた。が、いま思えばあれが怪しい。いやあれしかないだろう。ただ、今はそんなことを悠長に検証している場合ではない。術の見立てが間違っていた時のため、解毒薬も服用したが、いずれにしてもこの様子では間に合いそうにない。そもそも原因は、毒を盛られたことが理由ではないだろう。この二時間ほど、自分は何も口にしていないのだ。だとするならば。
(まずいぞ、とにかく視界が…意識があるうちに、出来るだけのことをしておかないと)と、大急ぎで後ろのポーチから紙片と筆を取りだし、脳裏に浮かんだことを手早く書き付けていく。
(あぁいけない、急がなくては…!)
 何度も瞬きを繰り返し、目を擦る。書き残すべき事項はすぐに頭の中に列挙できたが、いかんせん残された時間に対して書くべき数が多すぎる。出来るだけ項目を吟味し、優先順位を定め、字数を減らしながら書き付けていくが、果たして間に合うかどうか。これはまさしく時間との戦いだ。
(待てよ、まだだ…まだだぞ…)
 今のいままで森の中を駆けていたが、決してそのせいでなく微かに手が震えている。その革手袋から伸びた指先がしたためている文字が、筆先が、書いていく端から磨り硝子を間に挟んでいくかのように、急速に見えにくくなってきている。
 まるで世界を照らしていた巨大な電球の調光ツマミを、誰かが悪戯に絞ってでもいるかのように。




   
やさしいくらやみ −忍編−




「入れ」という、耳に馴染んだ声を聞いて扉を開けた。こんな遅い時間に、火影が直々に伝えてなくてはいけない事とは果たしてなんだろう、と思いつつ。
(今朝提出した書類に、何か不備でもあったか?)
 つらつらとそんなことを考えながらここまで歩いて来ていたが、いつもなら立て板に水といった彼女が、正面に立ってもなかなか切り出そうとしない。いつまでも眉間を指でつまむような仕草をしたまま手元の紙切れに視線を落とし、じっと何事かを考え込んでいる。その様子から、うみのイルカは胸の奥で当初の予想をより良くない方へとシフトさせた。それでも声が掛かるまで、直立の姿勢でじっと待ち続ける。
「…あぁイルカ、呼んでおいて悪いな」
 ようやく考えがまとまったのか、細い眉を寄せて難しい顔をしていた火影が顔を上げた。
「いいえ」
「お前に新規で頼みたいことがあるんだが」
「はい」
「アカデミーと受付の兼任中に申し訳ないが、手が回りきらん場合は…いや回りきらんな。そちらに代役を立てて構わん。可能な限り、今回の任務を優先して貰いたい。期限は、あたしがいいというまでだ」
「ぁ…はい。それで…?」
 何となくまだ彼女の中でも考えがまとまりきっていないような、そして何とはなしにこちらの外堀を埋めていくような物言いに、内心で訝りながら目と空気で続きを促す。
「頼みたいのは、はたけカカシの護衛と身辺の世話だ」
「ハっ?」
 まだ火影が続きを喋ろうしているのがわかっていながら、おかしな声が出た。けれどこちらとしては、いま一瞬でも混乱と疑問のガス抜きをしておかないと、冷静に話が聞けそうにない。
「いいから黙って聞け。実は数時間前に他国への偵察の任に就いていたはたけカカシが戻ってきたんだが…。……目が、見えなくなっていてな」
「なっ…えぇっ?!」
「ああいや、目の他は何ともない。それについてはさっき看てきたから心配には及ばん。ただ視力がゼロになっているというだけだ」
(ただって…、かっ、カカシさんが…?)
 突然のことに、まとまらない考えが散り散りのまま、頭の中を巡っている。
「カカシの話では、たまたま出くわした賞金稼ぎらしき忍と戦った際に、不発だと思った術があったとかでな。それが原因ではないかと言っているが、とにかく見えなくなってから五日が経った今でも視力は戻ってない」
「五日って…」
「ああ。その間口寄せした忍犬を使って、里に向かって歩き続けていたらしい」
(五日間も、一人で…)
 脳裏で「目を閉じて、人目に付かない深い森の中を歩いた場合」をシミュレーションしてみる。が、自分なら十メートルと歩けないだろうことは容易に想像出来た。平坦な街道ではないのだ。一歩先は…いや、例え一歩も踏み出さずにその場に留まっていたとしても、賞金稼ぎがうろついているような地域では、それこそ明けても暮れても24時間、不安や怪我との戦いだったのではないだろうか。
「その賞金稼ぎが発動したという術がどういうカラクリなのか、これから精査して治療していかねばならんが、とにかくこの事実が周囲に知られるのがまずくてな。口が堅そうで、それなりに気の付く者という条件で選ばせて貰った」
「えっ?! でも身の回りのなんてそんな。それなら俺なんかより、くノ一のほうがよっぽど…」
「どうかな。アイツがいつものようにチャクラの使いすぎで、ただバテてるだけならそれでもいいんだろうがな。体は元気でも目が見えないとなると、側に付ける人間はごく限られてくる。実際カカシから一報が届いた時には、誰を迎えに行かせるかで随分悩んだよ」
「………」
 木ノ葉の上忍であるはたけカカシの名は、国内外に広く知れ渡っている。ビンゴブックにも顔写真入りで載っているし、何より木ノ葉でも希少な写輪眼を有した男だ。火影が警戒するのも無理はない。ただ、例えそうだとしても、そんな男の警護と世話役に自分があたるというのはどうだろう。
「今回のことで、本当の意味で信じられる者というのがどんな人間をいうのか、改めて考えさせられてるところさ」
「あのっ、五代目」
「なんだ」
「状況は大体わかりました。でもだからって…なんで俺なんですか?」
「そんな話が回ってくるような心当たりなどないと、そう言いたいのか?」
(!?)
「……ゃっ…、…そういう…わけでは…」
 こんな一大事の状況で、火影は他でもない自分を信じて指名してくれたのだ。本来ならば名誉なことではあるのだろう。
(ただ…)
 二つ返事で引き受けるには、個人的に少々問題が…というか、引っかかる事情がある、というだけ。
「此度のカカシの任務、最初のうちは上忍達と組んだスリーマンセルだったんだ。だが途中でおのおのに割り振った地域の偵察に赴くために、三方に分かれていてな。その時たまたま出くわした賞金稼ぎを一人で始末したらしいんだが、しばらくして己の体の異変に気付いて、万が一次に別の敵と鉢合わせてしまった時のことを考えたんだろう。それまでの偵察で得ていた情報をまとめて寄越してきたんだが、その中に一通だけこんな書き付けが混じっていた」
 さっきから里長が思案顔で見下ろしていた数枚の紙切れのうち、一番上にあったものを寄越してきて、デスクに二歩歩み寄り受け取る。
(――ぇ…)
 見覚えのある筆致でしたためられた短い一文を、食い入るように見つめる。そこには『 イルカ先生 ありがとう 』とだけ書かれていた。言葉が出ない。
「他の任務に関する情報は、全て忍文字だったんだがな」
(カカシ、さん…)
 手の中に収まってしまいそうな小さな紙片を、思わずぎゅっと握り締める。忍にとって、任務で知り得た情報はその命より重いとされているが、自身の目が見えなくなってきていると悟った男が急ぎ書き付けたであろうその中にこの一文があったと聞いて、何とも言えない気持ちになった。
 恐らく、彼女が考えているであろうことは当たっている。
 俺達二人は、付き合っていた。だが半年ほど付き合ったあと、別れている。かれこれ三月ほど前のことだ。別れ話を切り出したのは、俺の方からだった。その際、彼はたった一言だけ短く、「わかった」とだけ答えた。それは彼から「付き合って欲しい」と言われた時と同じか、それ以上に静かで呆気ない幕切れだった。自分は男とはもちろん、格上の上忍と付き合ったのも生まれて初めてのことだったが、(男同士の忍の「付き合い」ともなれば、誰しもそんなものなのかもしれないな)と、どこか醒めた気持ちでもいた。とにかくその後彼とは再び会釈を交わすだけの間柄へと戻っていて、もはやそれきりだと思っていたのに。
 今ここで里長に「心当たりは、本当にないのか?」と、問い質されなかったことを感謝すべきなのかもしれない。名指しの書き付けを見たのだ。聞こうと思えば、それは真っ先に出てくるはずの問いだろう。
 それが彼女の見せた最大の配慮であり、優しさだと理解したうみのイルカは、気持ち俯きながら「わかりました。お受けします」とだけ短く答えた。


     * * *


(ここか…)
 指定された古い戸建ての周りを慎重に二周して、周囲に人気がなくなったことを確認できたところで戸口に立つ。
(? 開いてる…?)
 俺が交替しに行く前にも、見張りの者はいたはずだ。だがトラップも施さず、鍵の一つもかけずに終了していて、随分といい加減だなと思う。何があったのかは知らないが、もしもこれが目が見えなくなった上忍に対する嘘偽りない態度なのだとしたら、だいぶ問題があると言わざるを得ない。中のカカシさんは大丈夫だろうか。気配は全くしないが、この家に居ると聞いている。ノックをして「こんばんわ、夜分にすみません。アカデミーのうみのイルカです」と名乗ってから中に入った。

(――一通り、揃ってはいる、と…)
 室内をざっと見渡し、人が一人暮らすには十分すぎるほどの家具や生活用品が整えられていることを確認する。だが室内には、おおよそ人が暮らしているという生活感が感じられなかった。恐らくこの家はこういった事態に即座に対応するため、以前から密かに用意されていたセーフハウスといったところだろう。使った形跡のない流しや、扉が半分開いたまま、水滴の一つも見られない乾いた風呂トイレを横目に見ながら、唯一開かれていない扉…恐らくは寝室…のドアをノックする。
「カカシさん、俺です。イルカです。――入りますよ?」
(――ぁ)
 扉を半分ほど押したところで、足が止まった。想像していた通り、見慣れた容姿の男が部屋の隅に置かれたベッドに座っている。が、目に慣れているのは唯一それだけだった。枕元の周囲には、携帯食や薬から出たと思しきゴミが散乱し、床には割れたガラスコップの破片が水滴と共に派手に散らばっている。付き合っている時、彼の家に一度だけ足を運んだことがあったが、簡素な室内は驚くほどきちんと片付いていて、ゴミなど欠片も見当たらなかった。
 いや、もちろんそれは見えていたからで、その時と今とを比べてはいけないんだろうが。
「自分の部屋でいいって、言ったんだけどね」
 彼自身、室内がどうなっているのかはおおよそ予想がついているのだろう。軽口めいた開口一番の挨拶に、何となくホッとしながら中へと入る。姿を見るまではどんな状況かと思っていたが、心配していた大きな怪我はないようで、そのくらい言う元気があるなら…とも思える。
「お気持ちはわかりますが、場所に関してはもしものことがありますんで」
 自室なら隅々まで様子がわかっているのだから、彼にとってはどこより都合がいいのはこちらとてよくわかっている。けれど秘密裏に警護したい側としては、自宅ほど危険な場所もない。本人もその辺はよくわかっているはず、なのだが。
 一番近いところに落ちていた大きなゴミを拾い上げ、なぜかベッドから遠く離れた所に置かれている空のゴミ箱へとそっと入れる。続いてそれを持ち、コップの破片を慎重に除けながら、彼のベッド脇へと到達した。これらの始末はひとまず後だ。
「ゴミ箱、枕の右側辺りに置きましたから」
「………」
 だがどういうわけか、さっきの開口一番の軽口以来、返事がない。




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