近くに寄ってみると、いつも露わになっている右目の周辺にだけ、木の枝が何かで擦ったような傷があった。掛け布団の上に置かれた白い指先にも幾つもの傷があり、思わず「よく帰ってきて下さいました」という声が唇をついて出る。
「………」
 と、それまで気持ち頭を傾け、耳でこちらの気配を探るようなしぐさをしていた男が、黙ったままふいっと目線を下に逸らした。
(わざわざこんな所まで何しに来た…ってか)
 一瞬、口布で顔の殆どを覆っている男の心情が読めた気がして、複雑な気持ちになる。
 上忍は額当てはしていないが、これまでいついかなる時も閉じていた赤い左目までが開かれたままになっている。そうまでして世界を必死になって見ようとしているのかもしれないが、写輪眼が発動する気配もなければ、いまだに俺の目と一度も視線が合っていない。部屋の惨状を見てもまだ信じられないが、どうやら本当に両眼とも見えていないらしい。
 それでもベッドの脇で上半身を屈め、深く俯いてしまった彼の瞳に気持ち近づく格好になりながら話を続ける。
「無事に帰ってきたんですから、見張りの者には玄関の鍵もトラップも必ずかけさせて下さい」
「必要ない。昔からしてなかったし」
(やれやれ…)
 これまで見張りの怠慢を疑っていたが、この様子では彼が命じて鍵を掛けさせなかった可能性も浮上だ。
「そうはいきません。カカシさんは気休めと思ってるかもしれませんけど」
 どれほど気配を察することに長けていたとしても、今の彼ではともすれば忍でなくとも命を狙える存在だ。そして彼が上げた手柄や名声の分だけ敵もいるのが忍の世界。気をつけなければ。
「いい。必要ないって言ってるでしょ。本当に…必要なくなったから。―― 一人にして」
(うぅん…)
 どうやら上忍は、随分と気落ちして自棄になっているようだった。無理もない。戦闘において、彼が誰より目に頼るところの大きい忍だったことも災いしていた。もちろん耳も鼻も、一般的な忍より優れているにせよ、それだけでは「百聞は一見にしかず」と言われる視力をカバーすることは到底無理だ。
 そしてそれは、俺達全ての人間にも当てはまることではないだろうか。人は通常、行動の殆どを視力に頼って生活している。例え犬塚一族であっても、目が見えなくなったとしたら不自由な面はかなり出てくるはずなのだ。匂いでは、文字も読めなければ物の色も形もわからない。
(カカシさん…)
 彼の目が見えないのなら、唐突な行為は控えないといけないなと、ここに来る前に自ら確認したはずだった。だが気づいた時には傷だらけの白い手指に向かって己の左手が伸びだしていて、途中で止める。
(ぁ…そうか…)
 伸ばしかけていた手を、気配で悟られないようそっと体側に戻し、ぎゅっと握る。
(おい、落ち着けよ、俺)
 自分はいま、彼に何をしようとしていた?
 二人はもう「そういう関係」ではなくなったのだ。なら幾ら顔見知りでも、手に触れるのは違う気がする。恐らく彼もおなじ事を考えているのではないだろうか。しかも彼は今、見えないのだ。容易に命を狙われる可能性のある非常事態でもある。不用意に手や体に触れて無用の誤解や混乱を招くようなことは、極力避けなくてはいけない。
(いいかイルカ、軽率なことはするなよ?)
 慎重に自分に言い聞かせる。
 彼を助けたいという気持ちはある。
 けれどそれは、哀れみや未練などといったものからはきっぱりと一線を画したものでなくてはいけない。

「カカシさん?」
 声を掛けながら、男が僅かに反応して顔を上げている様を見つめる。これから先、どのくらいの期間警護が続くかはわからないが、まずはこうして「話す」「聞く」ということが、彼の新たな世界を形作っていく基礎(ちへい)になっていくのだろう。根気のいる地道な作業の連続になるであろうことは想像に難くないが、俺もいつまでも過ぎ去った過去に囚われてないで、早く認識を変えていかないといけない。
「今日から俺が、カカシさんの警護にあたることになりました」
「ぇ」
 彼の焦点を結んでいない色違いの瞳が、気持ち見開かれる。
「身の回りのことも、俺がお手伝いさせて頂く事になりましたんで。何でも遠慮なく仰って下さい」
「………」
 けれど彼は何を思っているのだろう。俯いたまま返事をしようとしない。その表情を、少し上から見つめる。半年付き合ったが、こんな角度から彼の表情を見たことは一度もなかった。今も変わらず知的な印象のする鼻梁、銀色の睫毛が隠れてしまうほどの深い彫り。その下にある、涼しげだけれどいつもどこか遠くを見ているような瞳…。
「…えぇっと…そうだな…。――まずは部屋を、片づけますね?」
 昨日の今日だ。彼はまだ混乱の只中に居る。落ち着いてこの状況を受け止められるようになるまでには、まだ暫く時間がかかるだろう。
 足元に気をつけながらベッドから離れ、掃除道具を探すべく踵を返した。



       * * *



(――あぁしまった…!)
 この家の玄関付近と思われる場所に、よく見知った男の声を聞いた瞬間悟っていた。
 あの日、突然目が見えなくなりだした自分がそれなりに動転して、随分と余計なことをしでかしてしまっていたことにようやく気付いていた。が、もう遅い。
 世の殆どの忍にとって、目が見えなくなるということは即ち死を意味している。どれほど気配の察知や嗅覚などの探知能力に優れていたとしても、忍の術は日に日に多様化・強大化し、五感の中でも最も重要なウエイトを占めている視覚なしでは到底太刀打ち出来なくなっているのだ。
 あの瞬間、自分はもうこれきりなのだと覚悟を決めていた。諦めの良さについては、本意ではないが自信があった。その諦めた勢いのままイルカ宛てに書き付けてしまったのだが、人生においてこれまで連戦連敗で運の悪かった男が、突然ここにきて五日間ものあいだ敵に遭うことなく、うっかり生還してしまっていた。
(ふ…結果的にはまた運が悪かった、ということか…)
 よもやフラれて別れたばかりの元恋人と、こんな無様な形で顔を合わせることになろうとは。オレという男は引き続き、よくよくツイていないというべきだろう。ある意味彼は、敵以上に会いたくなかった人物だった。合わせる顔がないとはこのことだが、そんな中唯一幸いだったのは、どれほど彼と顔を合わせても何も見えないということで、何とも皮肉なものだと思う。
 どうやら人とは、「気になる他人の表情を通して自分を見ている」生き物らしい。そんなことにこの年になってようやく気付くようになったのも、うみのイルカという忍らしからぬ男を知ったからだが、オレがそんな人間だったせいで、あっさりフラれてしまっていた。
 教え子をダシにして、「つきあいませんか」と声を掛けたのが三月。満開の桜の下で他愛もない話をして、梅雨寒の中ラーメンを食べ、夏虫の鳴く夜道を並んで歩いた。話題は全て彼に任せた。ただ声を聞いているだけで満足だったが、つきあいだして半年後の九月半ば、それは唐突にやってきていた。
「俺達、別れませんか?」
 なぜ、と思うと同時に、遠くで「やっぱり」と納得もしていた。何となくだが予感があった。『任務以外の付き合いでは、どこの誰であっても最終的にはそうなってしまう』という、経験則からくる諦めにも似た予感。あとはその時期が早いか遅いかだけ。
 イルカはまだ、かなり遅いほうだった。早い者なら僅か半日で縁がなかったと感じる者もいる中、半年はよくもったほうだ。それも恐らく、相手がイルカだったからだろう。
 幸か不幸か、いま彼の表情を伺うことはできない。全ての表情は想像の範囲でしかなく、今この瞬間も「多分きっと、笑顔ではない…だろう」という程度。
 基本イルカは、思っていることが顔に出やすい人間だ。だからこそ気になって声を掛けたのかもしれないが、失明という、忍として危機的な状況下でも心地よく響いてくる彼の声に何度耳を澄ませてみても、その声がどんな感情を内包しているかまでは全くわからなかった。ただただ、耳に心地いいだけ。
 つきあっていた半年という期間、自分は目にばかり頼り、それとなく彼の顔色を伺っていながら、彼の声、言葉には本当の意味では耳を傾けていなかった。要はそういうことなんだろう。フラれて当然だ。
(そうして今も相変わらずお話にならない男、か…)
 台所のほうで割れた硝子を処分しているらしい音に耳を傾けながら、溜息を呑み込んだ。


       * * *


「カカシさん、飯出来ましたから食いませんか?」
(う…、やっぱりそうくるか…)
 さっきからずっと、あちこちを掃除したり、平行して台所のほうでも何やらやっている音がしていた。暫くすると温かな料理の匂いが漂ってきて、ある程度予想はしていたものの、正直気乗りがしない。
「ガラスの破片はきれいに片づけましたから、履き物なら足を下ろした辺りに置いてありますけど、面倒なら裸足でも大丈夫ですよ。俺を信じて下さい」
 きれいにしていたことは知っている。さっきまで全ての部屋を箒で念入りに掃いたあと、この部屋を中心に雑巾で何度も往復していた。なにもそこまでしなくたっていいのに。
 実を言うと、コップはわざと割っていた。コップのありかはわかっていたが、一番最初にオレの警護についた者の目の前で、如何にも「水を飲もうと探していてうっかり落としてしまった」という風を装いつつ割っていた。どんな風に割れたかまではわからないが、欠片が盛大に散らばったのは確かだ。その者とは以前から面識はあったが、割れた硝子が床に散らばることで、どういうリアクションをするか試していた。結果彼女は、「あーあーもうーー…仕方ないですねぇ。私はもうそろそろ交替時間ですから、次の方に片づけて貰って下さいね」とだけ言って、さっさと部屋を出ていた。イルカが来たのは、それから一時間近く後のことだ。
「片づけてくれたことには礼を言うけど、掃除なんていい。そんなの必要ないから。手洗いに行きたくなったら、天井側を歩いて行けばいいんだし」
 実際そちらのほうが、よほど障害物もなく楽に辿り着けるだろう。
「あぁ、その手がありましたね? って、そういう問題じゃありません。さ、行きますよ」
(?!)
 暗闇の中、いきなり背中を押されてドキリとした。会話の流れから身構えていたはずなのに、全く役に立っていない。
「さあ、リビングに行きましょう。いつまでも布団にかじりついてちゃ、体に良くないですよ」
 しかもイルカは、そんなオレの内情などお構いなしと言わんばかりに引き続き背中を押してくる。
「いい。いいから。食べたくない」
 思わず、見えない腕を振り解くようにして体を捩った。放っておいて欲しかった。誰もこの四角いベッドの内側に入ってこないで貰いたい。もしも言われるがままここから降りたなら、無様なことになるのは目に見えている。いや見えはしないが、そういうことなら誰より自分が一番よく見えているのだ。しかも相手は、そういう部分を一番見られたくない人物ときている。こんなところで自らに追い打ちを…最後のトドメを刺したくない。全く役に立たなくなった上忍にだって、プライドの欠片くらいはある。




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