「よくないですよ。少し気分を変えませんか」
「悪いけど、今そういう気分じゃない」
「向こうでゆっくりお聞きしたいこともありますし」
「いいから、話すことなんてないから。そっとしといて」
「あ、もしかして俺がうみのイルカじゃないんじゃないかって、疑ってます?」
「――なわけないでしょ」
 一拍置いたあと、努めて平静を装いながら答えた。即答できなかったのには理由があった。視力と同時に写輪眼を封じられたことで正確なチャクラの流れが見えなくなり、本人かどうかがごく大まかにしかわからなくなっているのだ。これも長いこと写輪眼に頼りすぎていた弊害だが、相手が誰なのか一〇〇%の確証が持てない以上、自分が他人を正確に判別できていないという事実を知られるわけにもいかない。
「――チャクラの流れは、あんた特有のものだ」
「ああ、そうでしたね」
 だが(今の声の感じ…見抜かれずに済んだか)と思った時だった。
(?!)
 一旦は振り払ったはずの手が再び背中を押してきて、心底ぎょっとする。同時ににわかに湧き上がってくる、(この者は本当にうみのイルカだろうか?)という小さな疑念。果たして彼は、ここまで押しの強い人間だったろうか? 視力をなくしたことで、己の奧深くにまで根差した忍の本能が、視野以外の様々なものまでを見えにくくさせようとしている。
「カカシさん、俺を信じて下さい。何があっても俺が全力で守りますから、安心して全て委ねてくださいませんか?」
「ぇ…」
(ちょっとなに、その台詞?)
 つきあっている時、そんな会話が交わされたことなど一度もなかった。当然か。どこかの大名の姫君であるまいし、間違っても一八〇超えの男の忍相手に言う台詞ではない。だが一瞬でも(彼はこんなことを言うような男だったろうか?)(幾らなんでも大袈裟過ぎはしないか?)などと思いはじめると、混乱の度合いはますます、一足飛びに深まっていく。要するに自分は、その程度にしかうみのイルカを知らなかったと言うことなのだった。半端な付き合いが、かえって…いや当然のように仇になっている。
(落ち着け、よく考えろ。今のやり取りは、目さえ見えていれば何と言うこともないことなのか? 付き合っていた時もこんな片鱗がどこかにあったか? どうなんだ? 姿が見えてさえいれば、これらは全て信じられることなのか?)
 信じたい。一片の疑念もなく頭から信じられれば、どんなに楽かしれない。けれど。
「さぁ、行きましょう。はい、足を下ろして」
 更に背中にかかる力が強められ、いよいよ体が固くなる。
「ぇ、ゃ…ちょっと」
 心の中では(やめて、オレがそんな誘いに乗るとでも?)と繰り返し唱えている。なのに体のほうはというと、半ば強引に背中を押され続けたことをきっかけに、ベッドから下りようと動きだしている。ついさっきまで、コップを割ってまで頑なにベッドから離れることを拒否していたというのに。
(落ち着け。耳慣れた者の声だからって、気を許しすぎだろう?)
 声を真似る程度のことなら、下忍でもできる。そこを利用されている可能性が、全く無いと言い切れるのか?
 混乱の中、体温と同じ温度に温まっていた布団から片足が出た途端、外気の冷たさがいやに際立って感じられ、いつになく心許無い。長いことベッドに横になっていたせいか、二本の足が床についてもなお、本当に自分の体が真っ直ぐになって立てているのかすら覚束ない有様だ。見えていれば全く何と言うこともない、日常のこんな些細な挙動の一つ一つまでが、いつもと全く違ったものに感じられるなんて。
 間違いない。あの日を境に、世界が別のものになっている。少なくとも、オレはそう感じるようになってしまっている。
「カカシさん、俺があなたを守ることは出来ても、カカシさんの代わりに歩くことは出来ないんですよ。もしも俺に手間を掛けさせたくないなって、ほんのちょっとでも思って下さってるなら、ご自分の足で立って、歩いて下さい」
「…ぁ……ぅん」
 心の水平が保てない中、男のきっぱりとした口調につい返事をしてしまう。つい。
 そこから先は、彼に背中を押される形で、一歩、また一歩と足を前に出すことにのみ集中した。不本意極まりなかったが、唯一の砦だったベッドから降りてしまったのだ。半ば「もうどうにでもなれ」という気持ちだった。
「それは棚です。五段になっていて、上から携帯食、医薬品、衣類、忍具、一番下にデイパックが置かれています。あ、いま触れたのが寝室の扉で、ノブの下には鍵穴があります。鍵はさっき触って貰った枕元のテーブルに、玄関や勝手口の分と一緒にして置いてあります。鍵と鍵穴の関係は、後で触って覚えて下さい。寝室を出ると廊下になっていて、左が玄関、右の突き当たりが風呂とトイレです…」
 イルカの説明を聞き、実際に触れて確かめながら、頭の中に立体地図を作っていく。さっきまでいたくノ一は、そういった説明を一切しなかった。試みに彼女の動きを耳で追うことで屋内の全体像を把握しようとしたが、来るとすぐに隣室の椅子に座ってしまい、殆ど何もわからずじまいだった。
 だがイルカは、目に見えるもの全てを言葉に置き換えると決めたみたいに、次から次へと休みなく喋り続ける。
「あ、いま触ったそれ、はいそれです。食器棚です。あぁそうか…今はてんでバラバラに置かれてるんで、後で皿は皿、コップはコップって感じで、分けておきますね。その隣が食材や飲み物をストックしておく棚で、今はお茶と水と、あとはちょっとした調味料しかありません。これも足しておきます。はい、そこは出窓です。上に引き上げる方式で、寝室にも同じものが一つ入っています。今は中が見えないようカーテンがかかっていますが、少し隙間が開いてるの、わかりますかね…」
 言われて一歩近づく。と、剥き出しになっているこめかみの辺りに、じんわりとした初冬特有の温かさを感じて足が止まった。
(ぁ…)
 途端、真っ暗だった世界の一角に一瞬光が見えたような気がして、反射的にそちらを振り仰ぐ。
「? どうか、しました?」
「――ぃゃ、…なんでもない」
(違った、か…)
 人はそこに窓があると言われ、素肌に覚えのある温かさを感じると、例え見えていなくとも自動的に光を想起するものらしい。
 心密かに落胆しながら、再び暗い世界に向かって注意深く片手を伸ばし、見えない一歩を踏み出した。


     * * *


「…で、それがリビングのテーブルです。椅子は四脚あって、中央に箸やスプーンを置いてあります。食事は寝室じゃなく、ここに用意するようにしますね。…あはっ、それは俺の鞄と、持ち帰ってきた残務です。今日からこのテーブルで作業するようにしますんで、なんかあったら声掛けて下さいね。…えぇっと…かなり大まかでしたけど、これで何となく全体像が掴めてきましたかね?」
「ん、…ま…ね」
 半ば強引に連れ出され、気付けばすっかり屋内を一巡して食卓に着いていた。恐らく彼の一番の目的はそこだったのだろうが、もしもこの男が偽者なら、その説明に嘘の情報を巧妙に混ぜることは可能だろう。一方ではそう思いつつも、説明が終わる頃には聞き取りやすい男の声にすっかり耳を傾けてしまっていた。
 また彼は説明の途中で、「洗濯物は脱いだら洗濯機に入れておくこと」とか、「ゴミ箱の場所とルールは教えましたから、分別に協力するように」といった、様々な「宿題」を出してきてもいた。
(うーん…)
 以前つきあっていた時、確かにイルカは明るかったものの、もう少し控え目な印象だった。するとまたぞろ、彼はこんなに細かなことまで言うような男だったろうか…と引っかかりだす。そうやって過去の記憶との差に一人で暗い迷路へと迷い込んでいるうちに、この家での新たな生活のレールを敷かれてしまった格好だった。
「あり合わせのものですみませんが、中央に…はいそれです、コーンスープ、その左にパンが二枚とゆで卵、スープの右側にはサラダと…えぇっともう三センチ上に…はいそれがオレンジジュースのコップです」
 彼が説明するのにあわせ、オレに一つ一つ食器を触らせ、位置関係を確認させている。次々触れる食器は温度も形も違い、いい匂いもしているが、そんなことより男が自分の一挙手一投足を常に見ているらしいことが気にかかる。
「ん…わかった」
 イルカが本物だった場合は申し訳ないが、目が見えないことで一番危険なのは、こうした食事の時間ではないかと思っている。命は一つきり。同じ死ぬならもう少しまともな死に様を選びたい気もする。よってここまできても食べないという選択肢はもちろんある。が。
(――ま、いいか。毒を食らわば皿までだ)
 一度は好いた男に殺されるのなら、それも悪くない。
 そう考えることにして口布を下ろし、教えられた場所にあった箸を取り上げた。


     * * *


(これは、大変な任務を言いつかったぞ)と、改めて思った。
 以前なら足音どころか、気配そのものすら希薄だったような静かな男が、室内の行く先々で不用意な物音を立てている。室内を案内するなら、せめて額当てと手甲くらいは付けて貰うべきだったかと、内心どれほど気を揉んだかしれない。食事も大変そうで、途中からなかなか口に運べないでいる様子に、何度も「お手伝いしますか?」と声を掛けそうになり、その度にぐっと堪えた。
 もしも、もしもこの先。自分がこの任務を外れて、別の者が…或いは彼一人で暮らしていくことになったとしたら。
 その大変さを考えると、安易な介助は憚られた。どんなに格好悪くても、面倒で時間がかかろうとも、ここは彼自身にやって貰うべきだろう。誰かが代わりに修得できるものじゃない。
(いつ見えるようになるか…わからないんだし、な)
 五代目が指揮をとって解術に当たっているとのことだが、安心して解術作業を任せられる者は少ないとのことで、状況ははかばかしくないという。
(まあでも、俺が焦ったところで仕方ないからな)
 カカシさんが焦るのは当然としても、俺まで一緒になって浮き足立っているようでは話にならない。ただでさえ信頼関係にヒビが入りやすい状況なのだ。
(ってもうとっくの昔に……入ってるか…)
 思わず出そうになった溜息を、唇を噛んでやり過ごす。溜息を吐きたいのは彼のほうだ。
 視界、気持ち、先行き…。突然諸々が暗くなってしまっている彼をこれ以上不安にさせるようなことは、極力慎まなければいけない。
(まずは…どこから明るくしていったら…)
 食事が終わり、なにをするでもなくぼんやりとリビングの椅子に座っている男を後ろに見ながら、半分近く食べ残された皿を洗った。


     * * *


「カカシさん、上がったら扉の手すりにバスタオル掛けて…」
(…おきます…から…)
 その場に立ち止まったまま、口の中でもごもごと声にならない続きを唱える。
「ん」
 そうだった、目が見えなくても、着ている服を脱ぐことに関しては、着るより遥かに簡単なことなのだった。しばらく風呂に入ってないのではと気がついて勧めてみたものの、脱衣室でもたついているようなら少しは手助けしようかと来てみたところ、一糸纏わぬ姿にそれ以上言葉が続かない。
「なに?」
「ゃっ? いゃ、その、えっと…」
 慌てて後ろを向いて言葉を探す。
「服なら洗濯機に入れたけど」
「は…? あぁはい、すみません、ありがとうございます」
 自分で指示しておいて、面食らってるなんて失礼だ。
「じゃああの、シャンプーの位置は、さっき話したとおり…えっと…?」
 あぁもうなんだこれ、ついさっき説明したばかりなのに頭が回らない。いきなり見なくていいもん見ちまったせいだ。そうに違いない。
「シャンプーは突き当たりの棚の上段。石鹸は二段目、一番下は洗剤やタワシ類だから触らないこと。湯は右、水は左のカラン。シャワーヘッドは左斜め上」
「あ……、そうでしたね、ハイ…」
 どうやら見えていると、かえって記憶は曖昧になってしまうものらしい。
「ぁ」
 だがそのままさっさと踵を返した背中に、またもやうっかり変な声を掛けてしまっていた。
「…まだ、何か?」
 風呂の折り戸を探し当て、中に入ろうとしていた男が振り返る。
「ぁいや、何でもないです。すみません!」
「まっ、風呂の明かりは点いてても意味ないからね」
(はは…バレてたか…)
 真っ暗な浴室に消えていく、見事に均整の取れた後ろ姿を見送った。




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