「カカシさん」
 声を掛けると、出窓のところに立ってじっと遠くの外の音に耳を傾けるような仕草をしていた男が、ついと顔を上げた。ここに来て早々、あれやこれやと勧めてしまったが、風呂はどうだったかな…と内心気になっていた。けれど考えてみれば、今の彼には昼夜はあまり関係がない。全身を穏やかに刺激したであろう風呂はそれなりに気持ちが良かったらしく、表情は入る前よりは幾分穏やかに見える。彼が気付いていたかは知らないが、最初に部屋に入ったときは、ピリピリ感が半端なかった。
(コップも割れてたしな…)
 俺の前に警護をしていた前任者が、居たたまれずに退出した、というならそれもわかる気がする。
「俺、定期報告があるんでアカデミーに行ってきます。帰りに買い物もしてきますけど、何か欲しいものありますか?」
 言うと男は、黙ったまま一度だけ輝くような銀髪を横に振った。その俯き加減の表情は、口布越しにも浮かない様子だ。無理もない。チャクラを使いすぎて病院のベッドで寝込むのとはわけが違うのだ。
(うーーん、なんか少しでも元気になるようなこと…なぁ…?)
 とはいえ、俺の影分身が一体増えたくらいでは余計に気詰まりなだけで、それこそ面白くもなんともないだろう。暫くはいないほうがいいのかもしれない。だからといって、守秘義務を犯してまで代理の上忍師について任務に出ているナルト達を呼んでくるというのも憚られる。もしそれをするとしても、もっと後の話だ。
(と、すると…)
「わかりました。えっと…じゃあ俺から一つだけお願いがあるんですけど…。もしカカシさんが可能だったらで、いいんですが」
「なに」
「その…、カカシさんの忍犬をお借りできないかな、と」


     * * *


「おう、なんじゃカカシ、お主まだ見えとらんのか? 難儀じゃのう」
 小さな煙と共に一斉に現れた八匹の相方達だったが、五感をフルに使って置かれた状況を素早く確認したかと思うと、口々に思いもよらぬことを言い出した。
「ほんとーだ〜、なーにぐずぐずしてんだよ。だからもっと鼻使えるようになっとけって、言ったろ?」
(なっ…、おいこら! なにを…、しっ! 黙れって! 静かに〜!)
 口の前に人差し指を立て、大きく片手を振ってみせるが、「耳と鼻のエキスパート」達は、知らぬ存ぜぬといった様子でひたすら主人のほうを見ている。まるで俺など視界にも入っていないかのようだ。
「うーむ、…目が見えないうえにオレ達ほど鼻も効かず、耳も悪いってーことは、だ」
「オレらが生まれたばかりの時みたいなもんか?」
「使えんな」
「あぁ使えん。しかもオレらほど可愛くもないときてるしな」
(ばっ…、いいから静かにしろっ! しーーっ! しーーって!)
「おいカカシ、さっきから俺らを黙らせようとしてるこの失敬な人間、誰だ?」
「なっ?!」
 精一杯渋い表情を作り、両手でゼスチャーしてみせていた動きが止まった。
「アカデミーのイルカ先生だよ。この家で、オレの警護と世話をしてくれてる」
 その口元は、『またえらいもの呼んじゃったね』とでも言いたげな様子でおかしな風に歪んでいて、ますますどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
「あぁ、それで静かにしろなどと騒いどったのか」
「無意味だな」
「下手くそな身ぶり手ぶりをする暇があるなら、さっさと口で言えばいいのに」
「若造、出掛けるならいい肉屋を紹介するぞ」
「つーか早くでかけようぜ。肉、さんぽ、肉、さんぽ!」
 早々に白旗を上げた俺は、「よっ…宜しく、お願いしますっ…」と頭を下げた。


     * * *


「おい若造、お前についてきてやったのは、カカシが行けと言ったからだぞ?」
「ああ、わかってる。悪いな」
「勘弁してやるから、帰りに肉屋寄れよ」
「たはっ、わかったよ。じゃあ俺にもいい肉の見分け方教えてくれ」
「違う。肉は見分けるんじゃなくて、嗅ぎ分けるんだ」
「ええぇ〜〜できるかなぁ〜」
 出掛けに一騒動あったものの、予定通りアカデミーに向かっている。長時間カカシさんを一人で隠れ家に残していかなくてはならないが、トラップだけでは心許無い。思案した挙げ句、以前彼が契約してると言っていた忍犬を置いておくことを思いついていた。二手に分けておけば、何かあった時でも一声吠えればすぐに連絡がつくとのことで、頼もしいことこの上ないのだが、この騒がしさは想定外だった。三匹はどんどん先を歩きながら、片時も黙っていない。
「肉は嗅げば一発でわかる。人間はすぐに能書きや見た目や値段に騙される」
「うっ、そうなのか?」
「さてはお主も、あのカカシの見た目に騙されてるくちだな」
(ぇ…?)
「なに、騙されてるって。どんな風に?」
「あいつの所には昔からメスがひっきりなしに寄ってくるが、どいつもこいつも匂いも嗅がなければ、ろくに話も聞こうとしない。それはつまり、見た目ってことじゃろう」
「あぁいや、人間は初対面で匂いを嗅いだりはしないよ。それじゃあかえって嫌われかねない」
 けれど言われてよくよく考えてみれば、あながち的外れってわけでもない、ような。
 付き合う以前、確かに彼の周囲には幾人もの女性がいた。だから付き合おうと言われた時は、てっきり「女性よけ」で本命が他に居るから、俺もカモフラージュの一人なんだろうと思っていた。中忍なら…そしてナルト達を教え子に持つ男の俺なら、そういうことに使ったとしてもさしたる害もない。むしろ教え子達の様子が聞けるまたとない機会に、彼の申し出は有り難いとすら思ったほどだ。実際彼は、俺と会ってもこちらの話をにこやかに聞くばかりで、ナルト達に関すること以外、自ら何かを切り出すことは殆ど無かった。
 だから尚のこと、彼が書き付けたというあの紙片を見た時は、何やら複雑な気持ちになってもいた。
 これって、どういう意味なんだろう、と。
「お前もカカシの匂いや話をろくにきかんのだろうから教えといてやるがな。カカシはメスどもが口々に言うような、きれいな奴じゃないぜ」
(ぇ…)
「若造よ、お主カカシを誰だと思っとる。肉屋の店員じゃないんじゃぞ」
「いやパックン、肉を切り売りするという意味なら、あながち間違ってもないぜ?」
「儂らはカカシの、そういう狼みたいな所が好きじゃ」
「あぁ…」
(そういうことなら…)
 ちゃっかり懐に抱かれ、好き放題喋っている皺だらけの小さな犬をそっと抱き直す。
「…わかってる、つもりだよ」
 なのに半年が過ぎた頃、その関係は解消されてしまった。解消を切り出したのは、俺だった。ある日ふと、(もう俺は必要なくなってるんじゃないか?)と思ったのだった。実際、彼の周囲に女の人の影はなくなっていた。
(ちゃんと見てた、つもりだったんだけどな…)
 俺の見ていたものと、彼が見ていたものは、違ったんだろうか?


     * * *


「カカシ、こないだお前が森の中で話してた奴って、もしかしてあのシッポのことなのか?」
「? シッポ?」
「シッポだろ。歩くたんびに左右に揺れてる。何がそんなに嬉しいのか知らねぇけど」
「ああ…イルカ先生ね」
 イルカと三匹の忍犬が出ていき、その気配が全く感じられなくなった頃。椅子に座った膝の上で耳の後ろを撫でられていたビスケが、思わぬことを言い出した。
 彼はあの日、木ノ葉に向けて書き付けた情報を届けて貰った伝達係ではなく、自分の元に置いて里までの道案内を頼んだ、二匹のうちの一匹だ。小柄なビスケは長時間走り続けることが苦手なため、パックンと共に救援が来るまでのあいだ一緒に森を歩き続けたが、途中お喋りな二匹に聞かれるまま、色んな事を話した。
 あの時は(ひょっとすると、彼らと話すのもこれが最後になるかもしれないな)などと思い、後先考えずに喋ってしまったが、今となっては少々バツが悪い。まぁ長い付き合いになってきいる彼らは、今の自分にとって身内同然の存在だから、恥ずかしいという感覚とは少し違うのだが。
「なんで、そう思うわけ?」
 内心、少し驚きながら尋ねる。確かイルカと面識があるのは、今ここにはいないパックンだけのはずだ。なぜビスケは、いま会ったばかりのイルカと繋げた? 単なる当てずっぽうか?
「だってそうだろう? お前はあの時、『オレはようやく上忍である自分や、オレの弟子や、お前達忍犬に対して、同じように分け隔てなく接してくれる人を見つけた。けど、訳あって紹介できなくなってしまった』と残念そうに言ってたからな」
(あぁ、やっぱそれ、覚えてた…)
 目が見えなくなり、木の枝で杖代わりのものも作ったが、忍犬の声を頼りに歩いている時はまだ気を張っているものの、休憩で止まると途端に気持ちが途切れてしまう。するとどこからともなくあの男の姿が浮かんできて、もうやめようと思いながらもついつい唇に乗せてしまっていた。
「ま、残念そうだったかは別として、他にすることもなかったから確かにそんな話もしたけど、なんでそれがイルカ先生になるわけ?」
 忍犬達はあまり目は良くないものの、そのぶんその他の感覚器官をフルに使って、日頃から人の喜怒哀楽をとても敏感に察知している。オレが幾ら口布や額当てで表情を隠そうが、彼らには無意味なのだ。もしもその鋭敏な察知能力の一割でもいいから自分に備わっていたなら、イルカとの結末も違ったものになっていたのでは…と思うとやるせない。
「だってそうだろう、カカシは任務以外のときは、自分が信頼してる奴の前でないとオレらを呼ばないからな」
「んー、だからってそれをすぐさまあの人と繋げて考えるのは、ちょっと強引なんじゃ?」
 敢えて重ねて否定してみる。いまさら言い当てて貰ったところで虚しいだけだ。
「でもお前ってば、目が見えないのにあいつと二人っきりで部屋にいても平気な顔してる!」
「そうそう! カカシは気に入らない奴のそばにはまず近寄らないだろ。でも好きな奴には黙って何でもしたいようにさせるからな、ケケケ!」
「おおやっぱりそうか! オイラも臭いと思ってたんだ!」
 玄関と勝手口にそれぞれ配置されているシバとウルシが、一斉に賛同の声を上げている。当然外に配置されている連中にも丸聞こえだろう。やれやれだ。
「ゃ臭いってね…気に入らなきゃ近寄らないなんて、誰だってそうでしょうよ〜?」
 彼らのそんな話も初めて聞いたが、どうやら自分は思っていた以上に日頃から観察されていたらしい。主に目を使っている自分と違い、彼らは別の感覚を使って違う角度から世界を認識しているのだから、今となってはそれもさもありなんと思える。ひょっとして気がついていないのは自分だけなんて事が、他にも山のようにあったりするのだろうか? オレはいま、何食わぬ顔でやり過ごせてる?
「信頼してるかどうかは声の抑揚や息づかいで大体わかるし、例え一言も喋らなくたって、嘘や警戒心ってヤツはぷんぷん匂うからな」
「はぁ、そういうもんなの〜」
 だが(いつも通りの調子でさらりと流せたか…)と思ったとき、不意に二つの出来事が結びついていた。
(ぇ? じゃあなに? こいつらに、あの男に対する思いがモロバレちゃってるってことは…?)
 実はオレって、あの姿の見えない男のことを、ホントはこれっぽっちも疑ってなんかないってこと…?
(んーんー、それもどうなの?)
 忍としては失格という気もする。
(もう、してるけどね)
 いずれにしてもあの人が帰ってきたら、こいつらには早々にお引き取り願わなくてはいけない。どう考えてもろくなことにならない気がする。
「思えば匂うってやつさ」
「それを言うなら、『思えば色に出りけり』でしょ」
 気がつけば、そんなことまで言わされてしまっている。どうも身内に対してはガードが甘くなっていけない。
「あん? 色だぁ? オレらは白黒でしか見えないんだから、色なんて知るわけないだろ。匂うんだ」
 あぁダメだ。これでは否定すればするほど誤魔化しの堀が埋められていく一方だ。ここはひとまず話題を変えなくては。
「あぁもうわかった、わかったから嗅がないの〜。じゃそういうことにしとくから、ちょっと手伝って頂戴」
 頭の中に作り上げたばかりの地図を思い浮かべながら、ゆっくりと椅子から立ち上がった。




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