堂々たる構えの長屋門を、いつものように通用口からくぐり、まだ低い陽光が眩しい乾いた小径を、敷き詰められた敷石を踏みながら歩く。あとふた月もすれば、頭上から覆い被さってくるような燦めく新緑が楽しめるはずだが、今はまだ暫し枯れ野の侘を味わう時節だ。
 やがて敷石は飛石へと変わり、緩やかに右へと曲がりだした。続いて木肌の美しいヒメシャラの足下で、誘うように左へ。そして導かれるようにして辿り着いた、苔むした石灯籠の角を再び右に曲がると、ようやく目的の場所…茶室が枝木の向こうに見えてきはじめた。
 こうした飛石や敷石の類は、古来よりそこに住まう主の趣味の良し悪しを表すものだ。よってあくまでも、ごくさりげなく設えられる。それでいて、その先にあるものとの出会いに期待を抱かせるものでなくてはならない。

(ここの、はずだが…)
 腰掛待合を通り過ぎ、つくばいの前で立ち止まって、一寸考えてから屈んで手と口を清める。特に招かれたわけではないからとこの手順を省くと、彼はうるさい。
 面を上げると、茶室の塗壁に掲げられた扁額が目に入った。分厚い栗皮付物に彫られたものだが、風雪が一層の重みを加えている。
 穢土庵。
 彼が揮毫し、自分が彫って黒漆を入れた。文言については、当時一切の相談はなかったが、彼から渡された揮毫紙を見ても異論は無かった。あの男にしては、なかなかに洒落ている。
 そこから視線を下に落として、一呼吸置く。そしてにじり口の扉を開いた、が。
(――いない、か)
 珍しいこともあるものだ。
(このオレが、心当たりを外すとは)
 彼とはある意味親よりも、そして彼の妻や子孫達よりも遙かに近く、如何なるものも分かつことのできない唯一無二の存在だとかねてから自覚している。恐らくは、元々固く一つだったものが世の理を経て、「己」と「彼」という形を取ったのではないだろうか。
 そのせいか昔は、顔を合わせれば言い争いをしていた。けれど今はなぜかしら、「一つだった」という思いのほうが強く、胸の内の多くを占めるようになっている。
 だが此度に限っては、そんな目論見違いもさもありなんとも思えるのだ。
(ふ、――さては…心乱しているか)
 茶室でじっとしてなど、いられないくらいに?
(お互いに、な)
 玄関の引き戸に入った磨り硝子越しに、彼気に入りの黒い中折れホンブルグが掛けられたままなのが見えていた。二十数年前に避暑地を訪れた際、珍しく二人で入った帽子屋で散々に悩んだ末に求めたもので、以後はどこに行くにも被って出ている。見間違うはずがない。
 彼は、出掛けてはいないのだ。
(なら、どこに…?)
 新たな心当たりを巡らしながら、今しがた踏み締めてきたばかりの飛石を逆に辿った。


     * * *


 「兄者」、と後ろから声を掛けると、「おう」と柔らかくかえってくる。
「こんな所にいたか」
 「心当たり」は庭の外れにある、小さな祠の裏に居た。ようやくつぼみが膨らみだした大きな広葉樹の枝が、幾重にも重なりながら春の陽を浴び、薄墨で描いたような影を四方に落としている。幼い頃はよく隠れんぼうに使われた場所だが、こんな辺鄙な場所など、半世紀ぶりに足を踏み入れたといっていい。
 ふと、(探させたかったのか?)などという考えが、脳裏を過ぎり、消えていく。
「探したか」
「少しな」
 嘘だ。実をいうと、広大な敷地内をかなり探し歩いていた。ここは消去法から最後に残った場所だったが、途中から馬鹿馬鹿しくなってきて、何度帰ろうと思ったかしれない。
 が、結局好奇心に負けていた。
(己のもう片方は、今頃なにを思っているだろう?)と。

 彼は、手入れの行き届いた祠の石積みに、直に腰を下ろしていた。その様子は、偶然通りかかったことで見つけた春陽の移ろいを、一人静かに楽しんでいただけのようでもある。
「随分と陽が高く昇るようになってきたな」と声を掛けると、「ああ」と短く答えながら、少し尻をずらしている。
 そこへ腰を下ろしながら、彼と同じ春陽のさす方角を向いた。
「忘れ物だ」
 座る際、彼愛用の帽子を手渡した。屋内に居ないことを確かめた時、手に取って外に出ていた。
「すまない」
 彼は手に取ると、すぐさま慣れた手付きで頭に乗せた。その仕立ての良いたっぷりとした生地と髪の境を、黙ったまま見るとも無く見やる。
 二十数年前、避暑地の帽子屋で最初にこれを被ったとき、彼の髪はまだ黒々としていた。
 そもそもは自分が余りの暑さに閉口して、帽子が欲しいと訴えたのが切っ掛けだったはずだが、気が付いた時には兄の帽子選びに付き合う形になっていた。しかも外は避暑地にあるまじき酷暑だというのに、冬の帽子が欲しいなどと言いだすものだから、店主もさぞや困ったことだろう。
 丁寧な職人仕立ての中折れ帽は、その独特の存在感から、引き合いはごく少ないとのことだった。けれど彼がそのことを意に介した様子はない。
 端正なラインのみで形づくられたグレイのそれは、被った瞬間から正しく彼の引き立て役におさまっていた。目鼻立ちに加え、黒髪とのコントラストが見事だった。その凜とした輝きを目の当たりにした当時のオレは、全くの季節違いにもかかわらず、ついつい「似合っているから買っておけ」などと言ったのだった。
 あれから月日は流れ、今では彼の方からそのグレイの生地色に近づきつつある。

「ここには、よく来ているのか?」
「いや、そうでもない」
 隣りに座って水を向けても相変わらず彼の言葉は短く、未来に繋げていこうという意思が感じられない。こういう時、この男は十中八九落ち込んでいる。いい年をして、至宝と称される書を毎年のように完成させるに至っても尚、いまだにこの性格だけは変わっていかない。困ったものだ。
 お陰でオレは、半世紀以上もお守り役を勤めている。結局一つが二つに分かれると、互いの中でバランスをとろうとするのだろう。昔はそれが元でよく口論に発展したものだが、今は随分とマシになった。
(仕方ない)
 ここまで延々オレを導いてきた、趣味のいい石畳と飛石に免じて、たまには付き合ってやるとするか。


 そう思いながらも、オレはしばらくの間、敢えて本題とは別のことを話し続けた。
 彼とは、ひと月ぶりに顔を合わせたということもあった。「どこそこの美術展とサロンに行ってきたんだが…」から始まり、「その際、誰それとこういう話をした」だの、「次作は何にしたいか」だのと続いていく。
 だが、自分は本来、兄の話を軸にしながら会話を成立させることでバランスを取ってきた人間だ。それらしい話題は、想像以上にあっさりと尽きていた。しまいにはバレンタインデーの日に馴染みのバーの女から貰った、手作りの菓子の話を持ち出すにまで至って、ついに音を上げていた。
(あちこち探し回らされたお陰で、気まで回しすぎたぞ)
 この男は昔から、それこそ年端もいかぬガキの頃から、そうやって無自覚のうちに周囲の人々を惹き付けて離さない不思議な力があったことを、今更のように思い出す。
 それによって最も迷惑を被ったのは、もちろん他でもない自分だ。そして人望や徳などとは無縁で真逆の酷く情けない一面は、こうしていまだに片割れを振り回し続けている。
 お陰でオレはシビアなリアリストになり、『人徳からは最も遠い芸術家』などと囁かれるまでになった。いいだろう。本来芸術家とはそうあるべきだ。
 とにかく、落ち込みが趣味と化しているような男に付き合ってやる必要など、最初からなかったのだ。若い時分にやっていたように、きっぱりと捨て置けばよかった。気付けばまた余計なことをしていた。
 ひょっとすると自分も、いい年をしてそれなりに感ずるところがあったのかもしれないが。
 そう、まだ年若いあの二人に。

 彼ら二人…畑と海野がカラーで載っている記事を電車の車内で見つけたのは、全くの偶然だった。スポーツ新聞など、もう何年も手に取ったことなどなかったが、向かいに座っていた男が広げていた紙面の写真とタイトルに、目をひん剥いていた。
 慌てて電車を降り、最寄りの売店で探し求めた新聞をもどかしくめくる。
(――そういう、ことだったか…)
 該当記事を二度読みかえしたところで、ようやく以前イルカが相談してきていた話の全てが、きれいに繋がっていた。一旦繋がってみれば、彼の言っていた意味不明の部分も、何ら不自然ではなかった。てっきり相手はどこかの女性なのだとばかり思っていたその考えのほうが、余程不自然だった。
 ちなみに畑が一般男性であるにもかかわらず、ある程度そうとわかる角度で男性読者が殆どのはずのスポーツ紙面を飾ってしまっているのは、男のオレが見ても「絵になる」見目だからなのだろう。名前など詳細は伏せられているが、迷惑な話ではある。
(兄者は? どう思った?)
 次の瞬間脳裏に浮かんできた男に、どうしても会いたくなっていた。

「ところで兄者は――…あの記事を、読んだか?」
「ぁ? あぁ……今朝わざわざ孫がまとめて持って来たよ。『これって、爺がファンの人だよね?!』なんて言いながら、女性週刊誌と、新聞をね」
「なんと、週刊誌もか」
「なんだ、知らなかったのか」
「知らん。知りたくもないがな」
(あぁくそ、しまった)
 言うつもりのなかった本音が、うっかり口をついて出ていた。
だが言ってしまったものは仕方ない。正直に認めるまでだと腹を括る。
『自分はあの花屋の優男に、少なからず嫉妬している』と言うと、彼は小さく笑いながら少し腰を浮かせ、足下に降り積もっていた落ち葉を一枚、指先でつまみ上げた。
「あぁ、やっぱり畑君だったな」
 言いながらも、茶色く干からびて穴の空いた枯れ葉を、光に透かすようにしながら眺めている。
(? なんだと?)
「やっぱりって…もしや兄者」
「あぁ、気付いていたよ」
 彼は、最初にイルカとラーメン屋で飯を食べたあの夏の時分から、そうではないかと思っていたという。
「いやなぜって、それはきっとあれだよ、私もお前と同じように、畑君を好ましいと感じていたからだろうね?」
(ほう、随分あっさりと言ってくれるじゃないか)
 これでは一瞬でも腹を括った自分がバカみたいだ。正直オレはイルカを「好ましい」と表現は出来ても、あの花屋の優男を同じ括りにするのはいささか抵抗がある。
 だがそこから先が、代々続く千手一族を一手に束ねる、当主たる所以なのだろう。
「もちろん私は、海野君も同じくらい大好きだよ。だからこそ自然に繋がったのかもしれない」
「幸せになって欲しいな。いや、きっとなるよあの二人は。私にはわかるよ」と、蕾の膨らみはじめた木々の枝越しに、空を見上げている。
「彼らは、自分にないものを相手の中に見つけているのだろう。きっとそれが楽しくて、居心地良くて仕方ないのだよ」
「まぁ、確かにバランスという点では、良いかもしれんが」
 そしてついには、「畑君がイルカ君のまわりを回ることで、つり合いを取っているのではなかろうか」「なんと、兄者もそう考えていたか」などと、勝手な想像もそこまでくると、もはや他人事とは思えない。
「まさに私と、お前のようにな、扉間」
(ふッ)
 一瞬(本当にわかって言ってるのか、この男!)と思うが、思ってしまったほうの負けなのだろう。半世紀をかけて、ようやくそれだけは分かった。
「まぁ、そういうことにしておくさ」

「私はあの二人を応援するよ。今までと何一つ変わらずな」
 と、それまでずっと、後生大事そうに一枚の落ち葉を弄んでいた男が、それをついと手放している。落ち葉が元いた場所へと還っていく軌跡を見届けたオレは、顔を上げた。
「当然だな。兄者に言われるまでもない」
 むしろ、今まで以上に何かしてやりたいとすら思っている。
「ったく…兄者がそんな風に落ち葉をいじくって落ち込んでるせいで、てっきり『俺はもう枯れ落ちたから、このまま棘の道を歩む二人の肥やしになる!』とか言い出すんじゃないかと、ヒヤヒヤしたぞ」
「がっははははは! そうか、それもいいな扉間! 名案ぞ! お前もたまにはいいことを言う!」
「あぁもうやめてくれ。兄者にはまだ、そんな言の葉は似合わん」
 大口を開けて快活に笑う男の前で、ぷらぷらと片手を力なく振る。こうして居場所があると、つい余計なことを口走ってしまうからいけない。
 ふと、(畑というあの男も、そうなのではないか)などと思う。
「ありがとう。お陰で少し浮上したよ。――扉間、お前が弟で、本当に良かった。私はついているよ」
「そうかい、好きにすればいいさ」


「扉間よ、あの二人は、今幾つだ」
 ひと心地ついて、目の前の雑木の林の中を、小さな小鳥が二羽過ぎっていったのを合図にしたかのように、再び兄者が口を開いた。
「畑は知らん。イルカは二五と出ていたが」
 恐らく畑のほうが少し上だろう。
「そうか、齢二五か」
(ほう、兄者が人の年齢を気にするとはな)
 珍しいこともあるものだと思う。
(あぁそうか。でも、二五ということは、だ)
 この男が輝くような黒髪の上に帽子を乗せて屈託なく笑っていた、まさにあの頃。二人はこの世に生を受けたことになる。
「兄者の髪色が変わるのも、当然だな」
 中折れ帽を三つ指で取ってしげしげと眺めている男を、今一度じっと見つめる。
「お前は得だな、扉間。あの頃と髪色が全く変わらぬ」
「おう」
 お陰でいつまでもモテて敵わぬわ、と嘯くと、男はまた大きな口を開けて快活に笑った。

(なんだ、そうか…)
 なぜさっき、兄は落ち込んでいたように見えたのか?
 他愛ない会話の合間に、つらつらと考え続けていた。
 おおかた、「彼の子の顔が見れないとは…」だの、「大ファンだった息子同然のイルカが、扉間似の優男に取られてしまった…」だのといったことではないのかと内心でアタリを付けていたが、それは下世話なリアリストの勘ぐりだったようだ。
『果たして自分は、いつまで彼らを見守っていられるのか』
 恐らくは、そういうことではないだろうか。
(あの二人にはそんな存在など、もう必要ないだろうがな)
 オレ達はごく自然に、自身でも気付かぬうちに、彼らと自分達を重ねて見てしまっている。
 だが人はそれを、「要らぬお節介」と呼ぶ。

「応援といっても、取りたててオレ達がすることなど何もないだろう。二人はまだ若いんだ。せいぜいお互いに熱交換をしていれば、それで十分のはずだからな」
「な…っ、ぬ?! ぃゃっ、熱こう、かん、とは…?」
「なんだ。熱交換といえば、そういうこと以外ないだろうが」
(兄よ…)
 その年になっても、いまだにこういった色事に免疫がないのは、どうしたものかと思うぞ。
「兄者、よくそんなことで子が出来たな」
 それについてだけはいまだに感心している、というと、今度はついぞ見たことのない、なんとも複雑そうな面持ちになった。相変わらず忙しい男だ。
 どうやら子だけはあちこちに出来たものの、結局どの関係も長続きせずにいまだ一人暮らしを続けているオレの行く末を内心で案じてのことらしいのだが。
(ふん、それこそ余計なお世話だ)
 自身の作風に、結婚や家族という枠が合わなかっただけで、これっぽっちも不自由などしてなどいない。
 結局今でも気の置けない関係が続いているのは兄だけだが、それも当然のことと思っている。
 彼の中にだけは、自分の居場所があるのだ。
 恐らくは花屋の男も、イルカの中にそれを感じ取ったのだろう。
 同性や世間体などという高く厚い壁すら、見えなくなってしまうくらいには。


「扉間よ、今度彼らをこの庭に招いて、四人で花見をするというのはどうだろう?」
 さっきから拾った桜の枯れ葉ばかり眺めていたが、そういうことだったかと思う。
(というか、切り出すのが遅いぞ兄者)
 自分はその台詞を当主自らの口から言わせたいがために、延々広い敷地内を探し回り、飛石を渡り歩いてきたも同然だったのだから。
「名案だ兄者。その時は、我々もまだまだやれるというところを見せ付けてやらねばなるまい」
 舞いや唄、これまで見聞してきた緑や賢人にまつわる話など、ネタは尽きないはずだ。
 年月を経た老い木に咲く花は、枝のあちこちが傷むことで全体のバランスが悪くなることも多い。けれどかえってそのせいで、若木のそれより遙かに壮絶で艶やかだ。
「うむ、いい意気ぞ、扉間」
(ふ、なんということはないな)
 てっきり落ち込んだ男を引き上げてやっているとばかり思っていたが、最後には引き上げられていた。
 居場所とは、そういうものなのかもしれない。
 
「そうと決まれば、花見の準備だ。兄者、畑に連絡を取ってくれ。オレはイルカに連絡を取る」
「なんと、私もイルカのナマ声が聞きたい。自分ばかりずるいぞ扉間」
「いやなことだ、断る!」

 春はまだ浅い。
 花見の算段は、まだ始まったばかりだ。





           「待つ間も花・番外 千手兄弟編」 了


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