一、急刃凌ぎ
 
語意:現在は「急刃」ではなく「急場」と書くが、当時戦場で切れなくなった刀を、取り急ぎ切れるようにして間に合わせたことから転じた




(ひッ、ひゃぁっ!)
 自身に向かって振り下ろされた白刃を、殆ど目を瞑りながらろくに構えもしないまま受けると、鋼同士がぶつかりあう重い衝撃と共に耳慣れない鈍い音がして青い火花が散る。とその直後、足下の暗がりに、ばたりという音と共に、刀の上身(かみ)の部分が落ちるのが目に入った。
(――なッ……えええー?!)
 それでも無闇矢鱈と情けない悲鳴を上げてはいけないという長年の習わしから、頭の中だけで絶叫する。
 慌てて柄を握り締めた手元の辺りを見やると、道理でいきなり軽くなったはずだ。鍔(つば)から僅か一寸ほどの所で、ものの見事にポッキリと折れている。これではもう、大根一本切れやしない。
「まっ、参りました…っ!」
 俺は慌てて頭を下げながら、数歩後ずさった。
「フッ…我々を見つけるくらいだから、余程の者かと思えば情けない。大蛇丸様、こんな輩に拘わっていても時間の無駄です。先を」
 丸眼鏡の男の声音は、落ち着き払っていて余裕たっぷりだが、とても冷ややかだ。
「わかってるわ。……あら、でもちょっと可愛い顔をしてるじゃない。残念だわ、こんな時じゃなければ」
「は? またですか? …こんなむさ苦しい、野暮を絵に描いたような男の一体どこがよろしいので?」

(なっ?!)

「――野暮で悪かったなーーッ!!!」
 俺はすっかり短くなった刀を眼鏡男の方に投げつけると、もう一方の、闇夜にも青白い顔の蓬髪女に向かって突進した。




   
なまくら!




 猿飛の旦那に付いて、二人で市中の夜廻りをしていたところ、彼が途中で出くわした馴染みの煙管職人と立ち話をしている間に、まるで虫でも知らせたかのように黒塀を跳び越えようとしている怪しい輩を目の端に掴まえて、そっと背後から近付いたのが少し前。
 そこまでは良かったのだ。けれど、まさか一振りしかない商売道具の刀を折られた上、初対面の賊に面と向かって、そんな失敬なことを言われるとは。
(くっそおぉー!)
 こうなったらもうヤケだ。奴が腰に差している刀さえ奪うことが出来れば、まだ形勢逆転も夢じゃない。短い脇差しよりは長い打刀の方を取った方が有利だなと、そちらに手を伸ばした、が。
「…ッ!」
 いきなり甲に走った鋭い痛みに、思わずその手を引っ込めた。
(ッ…斬られた…っ!)
 暗くてよく見えないが、ひどく痛む部分を左手で強く押さえる。
「ククク…、まったくなんて子かしら、そんなに隙だらけのままかかってこられたら、苛めたくて堪らなくなってしまうじゃない、…ねぇ?」
 奴は、五寸ほどの刃が付いている小刀…恐らくは打刀の鍔(つば)に仕込まれている小柄(こづか)…をこれ見よがしに顔の前に持ってくると、耳まで割けていそうな大きな口から舌を出して、ぬるりと刀身を舐めた。その舌の尋常でない長さと、あたかも舌自体が意志を持っているかのような異様な動きにギョッとする。
(なっ、なんだ…コイツ…?!)
 奴の瞳は、欠けきる寸前の月のように細く金色で、背筋がぞくりとして肌寒いものを覚えた。本能が『それ以上近寄るな!』と盛んに警鐘を鳴らしている。
 けれど直後には(負けてなるか!)と腹の奥にぐっと力を入れた。そもそも打刀でも脇差しでもなく、打刀に鋏(はさみ)の代用として付属している、昨今ではもう装飾的意味合いも強くなってきた感のある小柄で斬ってきたのが、まるで「その程度で十分」と言わんばかりで気に食わない。
(ふっ…、実際からかわれてるんだろうけどな)
 斬られる自分も相当間抜けだ。暫くは読み書きを教えている寺子達に『ヘボ字』とからかわれそうだが、この夜廻りだって一旦引き受けた以上は最後までお役目を果たさないと、世間様に顔向け出来ない。

「オイ、イルカ! 大丈夫か?!」
 背後から掛かった耳に馴染んだ男の声を、いつも以上に心強く感じると、それに後押しされるようにもう一度低く構える。
「…えぇ、無駄に多すぎた血の気が、丁度よく抜けましたよ。唾を付ける必要もないくらいでさぁ!」
(右側の眼鏡は、アスマさんが何とかしてくれる!)
 改めて、小柄を構えた目の前の者に意識を集中すると、大蛇丸と呼ばれていた方が、僅かに細い眉を顰めた。
「あら、邪魔が入っちゃったわね。カブト、本当の野暮っていうのはああいう輩のことをいうのよ。覚えときなさい」
「――…はいはい」
 その力の抜けただらしのない眼鏡男の返答に、ついカチンとものがあって、気付いた時には指摘してしまっていた。もう敵も味方もない。
「貴様ァ…! 目上の者に対しての返事は一回だ! 二度言うってことは、目上の人に対して念押しするってことだろうが! 言葉遣いに気を付けろ!」
「あらぁ〜、やっぱりこの子可愛いわね。あぁ返す返すも連れて行けないのが残念だわ。でもまた、きっと会いましょうね。…一文字の傷の君」
 言いながらも、気付けば既に二人の姿は背後の闇に溶け込みだしている。しかもあろうことか、彼らの足下の闇を形作っているのは何百という数の黒蛇だ。そいつらが一斉にとぐろを巻きながら上へ上へと這い進んでいくと、もう既に膝から下は消え去っていて、土以外何も見えない。
(させるか!)
 腰に残っていた鞘を抜いて一瞬振りかぶり、眼鏡の方を牽制したあと、蓬髪の方へと勢いよく突っ掛かった。だがとうに待ち構えていたらしいその体は、小馬鹿にしたように薄笑いながら後ろへと退く。
 とその時。
 何かが地面に転がるような、ガツッ、という耳慣れない音が静まりかえった路地裏に響いた。
(? なんだ?)
 しかもにわかに慌てだした様子の長髪男が、何かを拾おうとでもしているかのように、体を屈めている。
(しめた!)
 よく分からないが、隙が出来たのは確かだ。
(覚悟…!)
 この近距離からなら、刀の入っていないただの木筒である鞘だって、多少なりとも役に立つはずだ。
 両手で持って、振りかぶった。

「………アレ?」
 しかし、一旦逃げると決めた連中の逃げ足は、想像していた以上に素早かった。今の今まで真正面で睨み付けていたはずの二人の不審者は、それこそ瞬きをする間もなく、呆気にとられるほどきれいにその姿を闇に溶かして消えていた。もう幾ら月明かりに透かしてみようが、気配すら感じられない。
(逃げられたか…)
 振り上げていた鞘を下ろして、習慣から腰へと戻した。が、鋼の刀身でなく木の鞘だけを腰に戻す様は、明らかに格好の付かない、情けない仕草で溜息が出る。
「――なんでぇ、ありゃ。薄っ気味わりィな」
 提灯を持った髭面の男が背後から歩いてきて、呆れたような声で呟いた。大柄で腕っ節には自信のある恐い物知らずの彼も、今の目眩ましには流石に驚いたらしい。
「すみません、取り逃がしてしまいました。確か「大蛇丸」と「カブト」…って呼び合ってましたが…。――あぁそうだ、俺、眼鏡をかけてる奴って生まれて初めて見ましたよ。ひょっとして渡来の者ですかね?」
 最近先立つものが無くて、季節ごとの初物にはとんと縁がなくなっているが、今夜の初物は腹は満たさないが好奇心を満たしてくれて、ちょっと嬉しい。
「分からんが…蘭学に通じた薬師か、高位の者の側近という可能性もあるな。よし、分かった。それに関しては明日一番に、火盗の連中に心当たりがないが聞いておく。他に何か、気付いたことはないか?」
 定廻りの同心である猿飛の旦那は、とても顔が広い。そもそもは、彼の父上である大地主の三代目の土地に建つ、棟割り長屋に転がり込んだのが縁なのだが、一応名字帯刀を許されているものの実際は町人と同じ身分で、こうしてたまに声を掛けられて下っ引きのような事をしている自分などと親しく会話をしていること自体、今でも不思議に思うときがある。
「ええっと…そうですね、眼鏡の方は間違いなく男だったと思うんですが、長髪の方は…ひっとしたら…?」
「あぁ? …馬鹿、ありゃどう見ても二人とも男だろうが。イルカ、お前になかなか女が出来ない理由、何となく分かる気がするぜ」
「は…ぁ…?」
 俺はハの字眉で気の抜けた返事をする。生まれてこの方女っ気が皆無なのは、長屋の住人どころか寺子屋で教える子も、その親までもが皆知っている、それこそ隠しようもない事実だ。
「それよかその手、大丈夫か」
 アスマさんが近づけた小田原提灯の橙色の灯りに、一文字に切れた右手の甲が浮かび上がった。指先に向かって幾筋も血が流れているのを、懐から取りだした古びた手拭いで抑える。
「ええまぁ。…あはっ、それにしても、俺が刀を持つとやっぱりろくなことがないですね。この前辻番やった時は、逃げてきた賊と間違えられて、危うくさす又で突かれそうになったし、その前にアスマさんと聞き込みに回った時は、血の気の多い町奴と口論になって殴られたし、そのまた前に番屋で臨時の木戸番やった時は、野犬に追いかけられて川に落ちたし…」
「たはっ…、まぁでもよ、たまにゃ刀の一振りやそこら腰に据えておくのも、背筋が伸びていいだろうよ」
「いや旦那、こう見えても俺は、昔っから姿勢だけはいいんですよ?」
「ったく姿勢だけとか、てめぇで言うな」

 元罪人を使うことが慣例となっている「手先」や「下っ引き」だが、それだと面倒が起こりやすいという理由から、俺の暮らし向きを察してくれているらしいアスマさんが、夜間の見回りの際によく俺に声を掛けてくれるのは有り難いのだけれど、やっぱり自分は刀とは距離を置くべき時期にきているのではないかと思う。
 でもそれは即ち、三代目の興した寺子屋で子らに読み書きや礼法を教える事で、一刻も早く身を立てていく必要があることを意味しているのだけれど。

「まぁ来週もまた頼むぜ。それまではせいぜい養生しとけ。おめぇと廻ると、飽きなくていい」
「えぇっ…と…」
 その笑いを含んだ言葉に、一体どう答えるべきかと思案している時だった。
(――ん?)
 ふと暗がりに何かが見えた気がして、提灯の明かりに慣れた目をじっと凝らした。
「…? 刀…?」
 視線に気付いたアスマさんが拾い上げたそれは、暗がりにもきりりと固く引き締まっていた。さっきまで自分が手にしていたような、ただ刃が付いているだけの安物とは明らかに存在感からして違っている。薄暗がりにも、いぶし銀の鍔の透かし彫りや、鞘に設えられた笄(こうがい)の銀象嵌(ぞうがん)、それに小柄に散りばめられた精緻な銀蒔絵などが、相当のものであることを物語っている。
「うむ」
 続いて低く呟いたアスマさんが、左手の親指でもってかちりと鯉口を切った。
(ぇ…っ)
 と、その瞬間、中から切羽にぎっちりと留められた銀色の刃がギラリとその姿を覗かせて、思っていた以上に凄みのある暗い輝きに何やらハッとなる。
 なぜだろう、その鍛え抜かれた刀身がほんの僅か鞘から覗いた瞬間、まるで刃と目が合って『睨まれた』ような気がしていた。そんなこと、あるはずないのに。
「…なるほど。さっきの婆娑羅野郎は、これを落として拾おうとしてたんだな…」
 慌てて彼の方を『あの、今、何となく変じゃ…』と同意を求めるようにして見つめたが、アスマさんは、「ったく刀を落とすなんざ、派手な消え方した割には随分と間抜けだな」などと、特に何もなかったように鼻で嗤っている。
(…気のせい…か?)
 多分、そうなんだろう。彼の洞察力の深さや、ロク(第六感)の鋭さには定評がある。
(やれやれ…)
 どうやら久し振りの捕り物に浮き足だって、思いの外びびっていたらしい自分に、内心でこそりと溜息を吐いた。

「――うわ…それにしても凄いですね…」
 気を取り直しながら改めて刀を見た俺は、それに続く言葉を無くしていた。物心ついた頃からずっと棟割り長屋ばかりを転々としているのだから、こんな立派な拵(こしら)えをこれほどの間近で見るのはもちろん生まれて初めてだが、殆ど直感的に(間違いない、これは凄い業物だ。ひょっとしたら最上大業物かも)とぴんときていた。これでは確かに、危険も顧みず拾いたくもなるってものだ。あの大蛇丸とかいう男、今頃地団駄を踏んで悔しがっているんじゃないだろうか。
「イルカ、良かったな。さっきのはもう使い物になんねぇんだから、丁度いいじゃねぇか、まだ侍辞めるには早いってぇことだ。有り難く貰っとけ」
 だがアスマさんは言うが早いか、俺の両の手が手拭いで塞がっていて上手く動かせないことをいいことに、勝手に人の腰帯にその刀を押し込んでいる。案の定ずっしりとした馴染みのない重さに、何やら腰回りの心地が悪くなりだした。
「…やっ?! ちょと、待って下さいよ! 俺はこんな業物持ってても持ち腐れですから。旦那こそどうぞ! 奴等を捕まえるための、手掛かりになるかもしれませんし!」
 この下緒(さげお)一本取っても、俺の半月分の飯代には軽く相当するだろうから、うっかり血糊なんか付けようもんならえらいことになる。俺は美しい組紋様が浮かんだ下緒を汚さないように気を付けながら、ズキズキと痛む手で何とか鞘の部分を持つと、髭面の同心の前へともう一度突き出した。
「あぁよせやい、オレにはこの紅がある。生涯の相棒と決めたコイツ以外を持つ気はねぇよ」
 がっしりとした腰に差した、こっくりと深い紅色の漆塗りの鞘を、大きな分厚い左手が大事そうに撫でている。確かに彼の愛刀「唐紅」(からくれない)に対する執心ぶりは、かなり有名だ。他人には決して触らせないどころか、佩刀(はいとう)拝見を申し込まれても、応じたことはただの一度もないという。ここ何年か、無腰が前提の茶会の席にすら顔を出してないとかで、暇さえあればその曲線(そり)や、艶やかな深紅の鞘をじっと眺めている様は、時に自身の全てを刀身に移そうとしているように見えなくもない。
「……はぁ…でも…」
 俺は彼の分厚い手の中にある、複雑に編み込まれた漆黒の絹の下げ緒と、しばしば巻き締めなおしているらしい、柄の部分の真新しい白の平織を見下ろす。
 堂々たる体躯に、顎を覆うたっぷりとした髭面。黒革の袖無しのでんちに、深い松葉色の三紋付き羽織り。刀は大小拵えで佩(は)くのが式制となっているにもかかわらず、特に金に困っている訳でもないのに脇差しの類を帯びていない。独特の艶やさが印象的な長い打刀一振りだけというその異風は、細かなことにこだわらない気質も相まって如何にも豪胆で、「秘めたる鉄火者」というに相応しい。
「そいつぁ今日の手間賃と怪我の治療代だ。だがもし手掛かりが必要になった時には改めに行くからな、それまではおめぇが大事に持ってろ」
「なっ…?! いや、あの…っ!」
 何となく、アスマさんがなし崩し的にこれを自分に持たせようとしている空気を感じて焦る。恐らく彼だけは、俺が刀に対して物以上の感情を抱けないでいることに気付いているだろうから、気を回して慮ってくれているんだろう、けど…。
「もし『分不相応のものを持ってる』などと咎めだてる奴が居たら、オレの名前を出しとけ。いいな?」
「…っ、……はぁ…」
(いやあの、刀は要らないんで、今日の分の駄賃を頂くってわけには…?)
 心の中で、こそりと呟いてみる。

 だが結局、話はそこで半ば強制的に終わってしまった。
 見事に落とし物の刀を押し付けられた格好の俺は、とぼとぼと棟割り長屋へと戻った。










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