二、切羽詰まる

語意:切羽とは、鍔(つば)の表裏にはめ込んで、鍔がガタつかないようにする板金のこと。転じて身動きが取れぬほどひっ迫した状況をさす




 その夜、恐ろしく立て付けの悪い板戸を、近所迷惑にならないよう、そろりそろりと開けた俺は、僅か半寸にまで短くなった最後の一本の蝋燭に、手探りで火を灯した。
 ただこいつが尽きてしまうと、新しいのを買うだけの銭がないから、家事をするにもあれもこれもとぐずぐずしてはいられない。
(血は…、まぁなんとか止まったみたいだな)
 どのみち付けるような薬もないのだ。ないない尽くしの洗ったような部屋で、俺はそのまま何の手当もすることなく、三つに折り畳んだだけの床を延べるや、早々に蝋燭を吹き消して横になった。


 と、すぐに薄い仕切り板一枚を隔てた左隣から、何やらうにゃうにゃと寝言が聞こえてくる。あれは大工のヤマトさんだ。鳶を生業とする人達には侠気に溢れる鉄火な人が多いけれど、彼の物腰は珍しく柔らかだ。ただ余りにも仕事熱心な余り、ついつい夢の中でまで作業を持ち込んでしまうようで、どうやら今は一生懸命鉋(かんな)がけをしているらしい。とはいえ、そこまでして極めようとするくらいだから、実際にもひとたび器用な彼の手にかかれば、どんなひねた材でもたちどころに言うことを聞いて適所に収まると、この長屋だけでなく近所中でも評判の腕利きだ。
 ちなみに反対側の右隣りは好色な洒落本書きを生業にしている自来也さんだが、しんとしているところをみると、今夜も出掛けていていないらしい。居れば虎か熊かというような大きな鼾が、外からでも聞こえているからすぐ分かる。
 噂では彼は、裏で春画の編纂などもやっているらしいのだが、公的には春本の出版は認められていないから、いつ見せしめのためにお縄になるか分からない。ところが作れば作っただけ、まるで羽が生えたように売れていくので、なるたけ目立たないよう、こんな棟割り長屋に住んで活動しているらしい。(以上、ヤマトさんからの受け売り)
 棟割り長屋というのは、部屋の三方が他人様と接している作りになっているのだが、その背後にあたる場所から響いてくる地響きっぽい音色の寝息は、よく当たると評判の人相見のイビキさんだ。
 数年前に彼がこの長屋にやってきた時には、みな彼の傷だらけの顔やアスマさんを上回る巨躯に怯えていて、なかなか近寄ろうとしなかった。けれど、幾ら彼が面相で人を判断する職だからって、こっちが見た目だけで彼の人となりを判断しちゃいけない。いつだったか、彼が雨の日に橋の上で年老いた御婦人とすれ違うのを見かけた事があるのだけれど、ちゃんと大きな唐傘を人のいない方に傾げて、婦人に雨だれが掛からないようにしていた。ああいうのは誰しもが子供の頃に厳しく教え込まれる稚児しぐさの類ではあるけれど、現実には大人になっても誰もが皆、必ずしも出来るものとも限らない。
 今でも彼の見た目に馴染めない人は大勢いるようだけれど、俺は人の外見をいつまでもどうこう言うのも好きじゃない。彼のことはごく真っ当な人だと思っている。
 で、そんな彼らの元気な寝息に俺も加わった夜半過ぎともなると、一帯は毎晩相当な音色かつ音量になっているらしい。二つ隣で縁談仲介をやっているチヨ婆に、しょっちゅううるさいと小言を言われているのだけれど、俺自身は気になったことは一度もない。ははっ、当たり前か?

(…あぁ〜、こりゃあよく眠れそうだぞ…)
 今朝も普段通りの時刻には起きて教場に行き、隙あらば悪戯や喧嘩をはじめようとする悪ガキどもの相手をしていた。明日もまた騒々しいに違いない。
(ふふ…まぁ……いいか)
 そんな元気一杯の彼らの笑顔をふと瞼の裏に思い出すと、口元に穏やかな笑みが自然と浮かんできた。そのままうーんと大きく伸びをすると、今日自分の身の回りで巻き起こった面倒事の数々や大小諸々の悩みなどが、体の奥からすっと気持ちよく抜けていくような感じがする。
 俺は宵を越すほどの金が持てないかわりに、悩みごとだって持ち越すことはない。さっき斬られた手の傷だって、熱くなるとすぐに周囲が見えなくなる自分にはいい薬になったし、手首ごと無くなっていたことを考えたら、相手はどう見ても堅気の者には見えなかったけれど、こっちから迂闊あやまりの一もつしておいた方がいいくらいだったと今では思える。
(さぁて寝るぞ〜!)
 明日の朝、気持ちよく腹が減って目覚めた時には、明日の風がさらりと吹いているはずだ。

 ふあぁと一つ大きなあくびをした俺は、周囲から上がる音色をじっくりと聞く間もなく、ことりと寝入った。

 だが夜明け前…恐らくはまだ二番鶏も鳴かない、丑から寅へと刻を跨ぐ頃。
 俺はおかしな夢を見た。





 ――…おい、起きろ。何回言わせるつもりだ? ――


(――…ん…?)
 とても不機嫌そうな、けれどどこか甘いような独特の声質に、薄らぼんやりと意識を持ち上げて、(ああこれは夢だな…)と遠くで思う。でもほんの一瞬そう思っただけで、再び意識は深いところへ落ち込もうとしている。
 ――ふっ、オレを無視するとはいい度胸してる。お前本当に侍か? 小柄で斬られるくらいだから怪しいとは思ったが、まさか人に斬られたことはあっても、斬ったことはないとか言うんじゃないだろうな? …あぁくそっ、やっぱりあっちの熊にしとくべきだったか…。おいコラ、起きろ。…オレを、舐めるなよ? ――

「……んが…っ?! ――ぁ…?」
 すぐ耳元で、誰かが思い切り凄んだような感じがして、俺は薄く目を開けた。いや「夢の中で」目を開いた。
 自慢じゃないが、俺は朝の目覚めがいいかわりに、寝ている最中は全くと言っていいほど目が開かない。以前住んでいた長屋が火事になって、身一つで焼け出された際も、その前に住んでいた長屋一帯に大水が出て、布団ごと押し流されそうになった時も、隣人に叩き起こされるまで気付かなかった位だから、筋金入りといっていい。
 そんな俺の目の前に、一人のすらりとした男が立っていた。見たことのない容姿だ。一筋一筋が見事な銀色に輝く、逆立つような豊かな髪に、透けるように白い肌の、まるで異国の風貌をしている。
(はぁ〜、今日はまた、随分と変わった人達ばかり見る日だなー)
 しかも男には、左目を跨ぐようにして目立つ刀傷があり、そちら側は見えないのかぴたりと閉じている。手触りの良さそうな渋い錫(すず)色の着流しをさらりと纏っていて、ああいった仕立てのいい単色の着物を、一筋の皺も汚れもなく着こなすのはなかなか難しいだろうに、はてどこの粋な若旦那だったか…? などと巡らしつつ感心していると、俯き加減だった彼が、再びこちらをギラと睨んだ。
(…っ?!)
 その髪や着物地よりもまだ遥かに強い輝きの鋭い眼光に圧されて、思わず小さく仰け反る。
「――聞いてる?」
「っ…、はぁ…?」
「さっきから、錆びるから早く手を入れろと、言ってるんだけど?」
「は…? さび…洗う…? 銭湯なら、川向こうの辻を右に折れたところに…」
 とにかく無類の風呂好きで知られている俺は、すぐにいつもの行きつけの湯屋を思い浮かべて案内した。食うものを食わずとも、昔っから風呂にだけは行きたい性分だ。長屋の皆に呆れられながらも、これだけは譲れない俺の唯一の楽しみだったりする。
「違うっ、小柄だ。こ・づ・か! さっきあの蛇みたいな奴がアンタの手ぇ斬った時、こう…べろっと、刃を舐めただろうが。…うっ…思い出しただけでも虫酸が走るっ。ああくそっ、いいか? 起きたら必ず小柄の刃の手入れをしろ。分かったな?」
(はぁ…? 小柄…?)
 夢うつつの中で、(あぁ、アスマさんに押し付けられたあの刀か…?)と朧に思う。武士の出の癖に上手く刀に興味の持てない俺だが、どうやらあれのことが、自分の中で思っていた以上に気になっていたらしい。まさか夢にまで見るとは。
 でもそれもそうかと思い直す。己の身の丈に合わないものは、例えそれがどんな良いものであったとしても粋じゃないし、自分はもちろん、周囲だって心地は良くないものだ。夢の中の俺が、(そうだな、やはりあれは、明日アスマさんの所に返しにいこう)と呟いている。
 銀色の若旦那は他にも『もし洗わなかったら、ナントカカントカ…』と言っていたようにも思うが、食うものもろくに食べていない泥のような疲れの前では、腹の足しにもならない夢まぼろしの類は、いかんせん長続きしない。

 俺は久し振りにはっきりと見た夢を、素直に夢として片づけると、すぐにまた深く寝入った。








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