三、焼きを入れる

語意:刀はよく斬れるようにするために火に入れて叩き鍛え、単なる鉄の棒に焼き刃を付けていく事から、弛んでいる者をしゃんとさせる事




「やかましい! この色魔! 払わないんなら今すぐ荷物まとめてとっとと出て行けーッ!!」
「――んがっ…?!」
 すぐ側で耳を劈くような女の大音声が聞こえて、咄嗟に飛び起きた。板戸や木戸の隙間という隙間から白い光が漏れていて、六尺二間の極狭い室内を薄く照らしている。
(…あぁ…もう明けたか…)
 どういうわけか、今朝に限って頭の芯がぼんやりしていてあまり目覚めが良くないが、起きなくては…というか、あの声を耳にしてはとても寝ていられない。
「――まあまあまぁ〜、そんなに大声を張り上げたところで、眉間のシワがますます深くなるだけで、無い袖は振れんからのォ〜?」
「嘘をつけ! 貴様が夕べ川向こうの飯盛女の所に行ってたって証拠は挙がってんだよ! そんな金があるんなら、滞ってる店賃半年分、今すぐ耳揃えてきっちり払いな!」
「そりゃ誤解じゃ〜、本当に飯を盛って貰っておっただけだからのォ」
「あンだとォ?! しらを切るのもいい加減にしろ! 岡場所のどこに、椀に飯を盛るだけの女がいるってんだ、あァ?! 言ってみろ!」
「ふふ〜ん。綱手おめぇ、また賭場で負けたんだのォ?」
「なッ…なにィ?! はっ…話を、逸らすな!」
「おーおーやはり図星だったか。こんな朝っぱらからワシの所に店賃を取り立てに来るってことは、お前が大負けした時と相場が決まっとるからのォ。いやいやイカンぞー、表の九箇条の触れ書きが読めんわけでもなかろう? 博奕(ばくち)は一度お縄になったら最後じゃぞ〜」
「――きっ…貴様ァ! そんなにアタシに灸を据えて貰いたいかあぁぁ!」

(そらきたっ!)
 最後の一言を耳にするや、俺は布団をはね上げて飛び起きた。そして余りに畳の部分が狭すぎることで、手を伸ばせば届く所にある土間へと一瞬で飛び降りると、履き潰した草鞋をつっかけて外へと飛び出す。お天道様が火の見櫓の向こうに昇りかけているのが長屋の屋根越しに見えていて、どうやら今日も空っ風の吹く冬晴れになりそうなのはいいのだけれど、とにかく寒い。

「綱手さん、落ち着いて! 落ち着いて下さい!」
 叫びながら、すぐ真隣りの自分の所と全く同じ作りの棟続きの部屋に、勢いよく飛び込んだ。いつもなら、これが自分の所と同じ作りの部屋かと思うほど天井まで堆く積み上げられた書物と、一体どこでどうやって寝ているのか全く見当もつかない空間のなさ加減にまず目を見張るところなのだが、今はそこに驚いている場合ではない。
「綱手さん、もうそのくらいで!」
「ええぇい、止めるなイルカっ! 今日という今日は、徹底的に懲らしめてやらないと、今頃すっかり冷めちまってる朝餉だって咽を通っていきゃしないよ! 死ななきゃ治らないってんなら、一遍死んで貰おうじゃないか! 骨の随にまでとっくりと染みさせてやるからせいぜい覚悟しな!」
 綱手さんは、大地主の三代目から土地を借りて、この棟割り長屋を切り盛りしている、いわゆる「地借家持ち」というやつだ。だから俺達店子から見れば、彼女は大家という訳だが、それ以外にも彼女には別の顔があり、ここの長屋に住まう人々は大家としての彼女は元より、その別の顔の方にも日々戦々恐々としている。
「フッ…自来也、丁度良かったよ。最近年寄りに頼まれて、物忘れに効くツボってのを探してるとこでねぇ。何かと覚えの良くないお前には、きっちりと体で払って貰うよ?」
 そんな気炎を上げている左手には、早くもしっかりと艾(もぐさ)が握られており、指先に挟まれた線香には火まで点いている。これはもう、最初からヤル気満々で乗り込んでいるとしか思えない。
 そう、綱手さんは泣く子も黙る……そして黙っていた子も泣きながら裸足で逃げ出す灸師だ。でも年は自来也さんと同じくらいのはずなのに、どうかすると俺よりも若く見える事から、これも灸の効能かと評判が評判を呼び、結構繁盛している。
とはいえ、その金を一晩で博奕に注ぎ込んでしまう彼女の行為は、艾が薄煙となっていずこかへと消えていく様と、どこか重ならなくもない。

「朝っぱらからやめんか、御免こうむるわい!」
 自来也さんは、自他共に認める無類の灸嫌いだ。俺と違って灸の効能も一切信じていないらしく、「ワシが金を出して女に据えて貰うのは、接吻だけじゃのォ〜!」などと言って逃げ回り、更に事態を悪化させている。こうなると、すっかり頭に血が上った綱手さんの馬鹿力は、俺一人では全くどうしようもない。以前この騒ぎに気付くのが遅れて、俺の部屋との境の間仕切り板を彼女にブチ破られた経験から、今では必ず止めに入るようにしている。
 土間の隅に逃げた自来也さんに馬乗りになって、身ぐるみ剥がそうとしている彼女を後ろから羽交い締めにすると、俺は必死の声を上げた。
「…やっ、ヤマトさん! ヤマトさぁん!!」


 かくして俺とヤマトさんは、裸足のままどこかに逃げ出して帰ってこなくなってしまった自来也さんの代わりに、朝っぱらから綱手さんの博奕の負けを補填すべく、熱い灸に暫し悶絶することになる。

「――…ッ、あの…ちょっと、そこ…っ、ほんとう…に、肩の凝りに効…くんで、…すよ…ね…ぇ!? うあちっ、ぁつ、ぁつ、あつつつつ…!」
 大工も見習い期間を過ぎて、親方にも頼りにされだしているらしい腕利きのヤマトさんが、白褌を締めただけの尻っぺたの上から、薄く煙を立ち上らせながら悶絶している。
「効くと思えば効くッ!」
 灸師でありながら、博徒でもある綱手さんの言葉は、時に例えようもなく無慈悲だ。その隣りでは、俺が「物忘れのツボ」とやらを探すための被験者となっていて、片肌を脱いだ肩口の上に幾つも灸を据えられている。どう見ても両者のツボは逆だと思うのだけれど、今の二人にはそれを指摘するだけの勇気も余裕もない。
(すっ、すみませんヤマトさん! 俺がうっかり加勢を頼んじまったばっかりに…)
 俺は気のいい隣人に内心で平謝りしながら、肩の皮膚の薄いところに置かれた火種の熱さに、思わず奥歯を噛み締める。
(――…っ、…ぁっ…)
 今にも上がりそうになる声を、喉の奥にぐっと呑み込む。さっきまで何となく良くないような気がしていた目覚めなど、とうの昔に仄白い煙と共に空に昇って消え去っている。図抜けて熱いことでつとに有名な川向こうの銭湯でさえも、今日ばかりはぬるく感じるに違いない。




 暫くのち。
「――どう…も、ありがとう、ございました。お陰で今日は、炭を買わなくて済みそうです。――アハッ」
 衝立の後ろではだけていた着物を手早く合わせた俺は、額に滲んだ汗を袖口で拭うと、ぺこりと頭を下げた。
 ついさっきまで、印半纏に六尺という出で立ちで畳に横になっていたヤマトさんは、「駄目だ、いやこりゃまずい。あのその、あぁそうだ棟梁にどやされるんで、わたしはこれでっ!」と言いながら、あたふたと尻の火種を叩き消すと、そそくさと紺の股引を引き上げて、それでも払うものはその場できっちりと払って飛び出していた。
 で、俺はというと、持ち合わせは元より、家にとって返したとしても払えないことから、「すみません、夕方に必ず払いに来ますんで」と約束して、何とかその場での支払いは勘弁して貰っていた。
 金のあてなら、ないこともない。昨夜ポッキリと折ってしまった刀、あれを拾って持ち帰ってきているから、刀身の方だけでも荒物屋か地金屋あたりに持ち込めば、幾らかにはなるだろう。刀を売ったり質に入れたりすることが武士の名折れで、誹られる行為であることは勿論知っているけれど、それも全て覚悟の上だ。何より使えなくなったものをいつまでも持っていても仕方ない。
 もちろんその金で新たに安い刀身を買えば、手元に残っている柄に挿し入れることで、再び簡素な拵えが一振り出来る。だが一日一食半がぜいぜいの今、背に腹は代えられないし、それ以前に何となく……そう。
 新たにもう一度、刀を手にしようという気が、しない。


(ふう、やれやれ…)
 今日も朝から一騒動だが、まぁいつものことかと思い直した。が、
「待ちなッ!」
 灸据え所の敷居を跨ごうとした時、背後から鋭い声が掛かって、思わず体を強張らせながら恐る恐る振り向く。
「イルカ、アンタまた夜廻りでドジ踏んだのかい。ったくしょうがない奴だねぇ、ほら、塗っときな!」
「えっ!?」
 言い終わるや否や、小さな蓋付きの器が勢いよく飛んできて、うっかり取り落としそうになりながら、左手でもって掴み取る。
「ぁ…! ありがとうございます!」
 俺はもう一度勢いよく頭を下げると、顔を洗いに井戸へと走った。



「――おーおー、結局最後までやっていきおったか。しかしイルカの奴も大概物好きよのォ。毎度毎度、よくもまぁ音を上げんもんじゃわい」
 そろそろお開きの頃合いかと舞い戻ってきていた白髪の大男が、イルカの後ろ姿を見送る綱手の隣りにけろっとした顔で立つや、「さては筋金入りの鈍というやつかの?」などと、悪戯っぽい目付きで豊かな長髪を揺らしている。
「ハッ、尻と肩の内側じゃ、同じ量の艾でも熱さの度合いは雲泥の差だよ。自来也、アンタなら今頃気絶してるところさ。どうせあの若造はね、『自分に出来ることなんて、堪えることくらい』だとか、一丁前みたいなことを本気で思ってるのさ」
 俯き加減の小さな唇が、遠ざかっていく黒髪を見つめながら、片側だけ吊り上がっている。
「ううむ…、明るいだけに難しい奴よのォ」
「お前が安易すぎなんだ! いいトシこきやがって、いつまでも蚊とんぼみたいにふらふらふらふらとォォー」
「ああ〜儂のことをいちいち構うな〜。それより気付いとるか綱手よ?」
「あァ?」
「イルカの奴、客などまだ誰もおらんというのに、框(かまち)に上がる際にちゃんと框から少し離れた所に草履を脱いで、大股で上がっておったのォ」
「? それがどうした。貴様、話を逸らそうったって…」
「違う違う。先に来たからといって、野郎が框のすぐ下に草履を脱いでしまうと、後からおなごが来た時に難儀するじゃろう?」
「…ぁあ? ……ん…、まぁ、な…」
「後から来るかどうかも分からんおなごの、着物の裾の気遣いまでが常に出来る男ってのは、なかなかに見上げたもんだと、そうは思わんか? ――まぁ綱手、女だてらに股引なんぞ履いとるお前には、縁のない気遣いじゃが〜?」
 悪戯っぽい顔で覗き込んだ大家の顔は気持ち赤らんで、小さな唇がへの字に曲がり、如何にも居心地が悪そうだ。
「おぉそうじゃ! イルカの奴には今度、いい飯盛り女でも紹介してや…――あぁっコラッ、冗談に決まっとろうが、まったく〜、こら離さんか!」
「いいから来いッ! 今日こそはそのド助平に効くツボを焼き切ってやる! 有り難いと思えッ!」









         TOP    書庫    <<   >>