四、真剣勝負

語意:元は本物の剣を用いて行う勝負。転じて本気になって行う勝負、または本気になって物事に当たること





 賊に斬られた右手の傷は、何かをしようとするたびにいちいちその存在を主張してくるが、そんなことで寺子屋を休みにするわけにはいかない。
 教場に向かって歩きながら、貰ったばかりの薬を何気なく一塗りした途端、その猛烈な滲み具合に大きく息を吸い、歯を食いしばる。
(ええぇい走って散らすぞ、コンチクショウ〜!)と、いつもの道を駆け出した。

 表通りからは随分と離れた、古びた長屋の一角にひっそりとある教場は、お世辞にも恵まれた環境とは言えないが、俺がそこで子供達に読み書きや算術を教えだして、かれこれ二年ほどになる。
 この寺子屋が他のそれと違う所は、教場を提供してくれている三代目の厚意により、毎月の月並み銭が一切かかることなく学べることだ。
 『子供にだけは読み書きと算術を習わせて、何とか今の貧しい暮らしから抜け出させてやりたい』と切に願っていても、様々な事情から今日食べることだけで精一杯という親は少なくない。中には、そんな風に気にかけてくれる親すらいない子供もいる。
 そんな子ばかりを集めて面倒をみている三代目のお陰で、この寺子屋は教場の畳替え代としての畳料や、冬に暖をとるための炭料、盆暮れ節句の際の謝儀や最初の入門料さえも一切かからない。
 まぁそれには、ちょっとした事情があったりするのだけれど…。
 というのも、この寺子屋には替えるべき畳もなければ、暖を取る火鉢の一つさえも無いのだ。その昔、ここが発足した当時はいずれも揃っていたそうなのだが、裕福なために入門を断られた親達から、「不公平だ」という声が相次いだことで、やむなく無くしてしまったのだという。
 そんな環境のせいか、師匠がなかなか居着かず、俺が来るまでに十人近くも入れ替わっていたそうなのだが、自分はこの寺子屋での師匠としての日々が結構気に入っている。
 火鉢がなくて凍えそうなら、沢山着て大きな声でも出せばいい。畳が無くて足が痛いなら出来る限り我慢して、それでも駄目なら足を崩せばいい。
 三代目は敢えてそこの部分には物資も口も出さないで、俺に全ての舵取りを任せてくれている。だから食うや食わずの親達がせめてもと集めてくれたぼろや古紙も最大限有効活用しているし、子らも働ける者は自らの生活費や墨代を稼ぎながら、今年の冬も元気に乗り切っている。
 そんなたくましい彼らのことを考えたら、雇われの身である俺が休むわけにはいかないだろう。


「コラァッ! ナルト! 寒いから動くなとは言わんがな! せめて最後まで書き終わってからにしろ! まだ『い』と『ろ』しか書けてないじゃないか! ――あぁっバカっ! 誰が障子に書いていいと言った! いいか、お前はあとで残って障子紙の張り直しだッ!」
 俺が日々発する「大音声」の半分は、この少年に向けられているといっていい。とにかく落ち着きが無くて、年中悪戯の機会を伺っている。
 他の悪ガキ達と、表通りに置いてある大八車に片端から跳び乗って「上がりこ、下がりこ」をして回るのなんてまだかわいいもの。鳥居といわず他人様の家の庭木といわず、とにかく高いものとみるやてっぺんまで登りつめないと気が済まないし、長い大橋の欄干の上を誰が一番長いこと歩けるか競いあったり(大抵誰かしらが川に落ちて終わる)、肩車をして小料理屋の格子の間から行灯を片端から吹き消して回ったり、犬の紐を茶店の縁台の足にこっそり結んでいきなり走らせてみたり、挙げ句の果てには肝試しと称して水鉄砲でお侍の顔に水をひっかけたり…。
 とにかく半端ないやんちゃ坊主達で、その度に謝りに行くこちらもたまったものではないのだが、まぁ可愛いところもあるにはあるし、親の顔を知らない孤児ということもあって、出来るだけ声を掛けて様子を見にいくようにしている。

「――ん、いいぞサスケ、全部合ってる。この分じゃもう俺が教える事なんて幾らもないんじゃないか。そろそろ私塾に行くことも考えておけ? あぁ金のことなら心配するな、俺が三代目に掛け合ってやるから」
 如何にも利発そうな顔付きのこの少年は、さる名士一族の次男坊だが、身内による不幸な事件のせいで一切の身寄りをなくして、今はナルトと同じく三代目の所に世話になっている。

「待て待てまて〜チョウジーッ! …ふふーん、見つけたぞ〜。今日は俺の勝ちだな! そのまま食べるのを止めて大人しく御八つの時間まで待つ方がいいか、それとも今すぐそこの柱に縛り付けられる方がいいか、――さぁてどっちにする?」

 寺子達に「雷師匠」とあだ名されている俺だが、子供だからって甘い顔はしない。
 俗に『三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理(ことわり)で末決まる』というくらいだ。彼らはもう十二も過ぎて久しいのだから、礼儀正しい行いや言葉遣いはもちろんのこと、もう親の手紙の代書が出来ていい年頃なのだ。それらを貧しいからという理由だけで後回しにさせるつもりはない。

「――おいシカマル、ほら起きろ! 薬行商の裏方が大変なのはよーっく分かるがな、こんな所で寝たら風邪ひくぞ! 寝るなら三代目に話をしてやるから、そっちで寝るんだ。薬売りが作った端から薬飲んでたら、商売上がったりだろうが?」

「――ん〜そうかー…確かに子犬を抱えて暖を取るのは名案だし、正直俺もちょっと羨ましい。けどな、その赤丸がここで騒いで、他の者の迷惑になるなら話は別だ。ちゃんとお前の言うことを聞くように躾けてから連れてこい。いいな、キバ?」

 そんなこんなで、居眠り起こしや喧嘩の仲裁までもがすっかり込みになってしまっている七時間程度の手習いが終わって一人になってからも、俺の師匠としての仕事はまだまだ続く。
 進みの早い者には地理や手紙の書き方などを教える必要があるため、新たな往来物の選定作業や購入が必要だし、習字の手本書きや半紙や墨の工面、それに毎日少しずつやっている教場の修理、時には奴らが町中でしでかした悪戯の謝罪などの後始末等々、やることは幾らでもある。
 今日も三代目の所に行き、一日の報告をして日割りの駄賃を貰う頃には、気の早い陽はすっかり暮れてしまっていた。

 大急ぎで家へと戻るその道すがら、たまたま向こうからやって来た馴染みの親爺がやっている夜鷹蕎麦を呼び止めて、寒風の吹く中、川を背にして大急ぎで二杯をかきこむ。昼はナルトやサスケ達と、近所の境内に行って集めてきた落ち葉で芋を焼いて食っただけだから、気付けばこれが今日始めてのまともな飯だ。
 ここの蕎麦は旨い。余裕でもう一杯いけそうだったが、綱手さんの所に今朝の支払いにも行かないといけない。
「――テウチさん、おあいそっ」
 ぼろを巻いただけの右手を、何とか懐に入れた。




「…あぁしまった、蝋燭買うのを忘れた…!」
 何だかんだ言っても、思い返してみれば割といつも通りだった一日もそろそろ終わりという刻限。俺は自分の家の板戸の前で、おでこをぴしゃんと叩いた。
 つい今し方、綱手さんの所に寄って今朝の払いを済ませた際にも「ところでお前、今朝の物忘れに効くツボはどうだった? あの後、何か大事なことを思い出したりはしたかい?」と訊かれて「はあ…? いえ、特には…」と笑いながら出てきたばかりだったのに。
(こんな事、綱手さんが聞いたら…。たはっ、くわばらくわばら〜)
 もうこの時間では心当たりの店も閉まっているし、行商も来ない。
(あーあ、今日は何だかんだで、風呂にも行きそびれちまったしなぁ…)
 すっかり暗がりに沈んでいる三畳しかない畳に腰掛けて、カックリとなる。
 でもまぁ、朝一の灸のお陰で随分と血の巡りが良くなっているのは確かで、いまだに普段より寒さを感じないでいられるのはとても助かる。今日みたいに夜空のお星様がくっきりと凍てついていて底冷えしそうな夜は、ともすれば物忘れを一つ思い出すより、体があったかい方が有り難いくらいだ。蝋燭だって灯りの漏れている隣近所に借りに行けば、誰かしらは貸してくれるだろうが、明日には買える。こんな時間にそこまですることもないかと思い直す。
「――ま、いいな!」
 毎晩この言葉を口にしているような気がするが、気にしない。

 とはいうものの、灯りが残り僅かで殆どないに等しいとなると、眠る以外することがない。
 俺は共同の井戸で豆絞りの手拭いを濡らしてくると、ほんの小指の先ほどになった最後の蝋燭に火を灯して、土埃にまみれた顔や手足を手早く拭いた。そして朝の騒ぎのせいで折り畳むのを忘れ、三畳ほどの畳の上に伸べたままになっていた冷たい布団にばたりと横になる。

(…ふう〜〜、やれやれっと…)
 耳を澄ますと、左側からはいつものようにヤマトさんの寝言が聞こえてきている。今夜は角材に墨付けをしようとしているとみえ、墨壺がないないと探していて、つい口元がほころんでしまう。
 背後ではイビキさんの規則正しい寝息も聞こえてきているし、右隣りからも何日ぶりかで自来也さんの元気な鼾が響いている。流石の彼も、今朝の騒ぎは多少なりとも身に染みたのかもしれない。

(…おやすみ…)
 早くもとろとろと深いところに向かって落ち込みだしている意識の表面には、小さな蝋燭の灯りに照らされた世界が薄ぼんやりと映っているだけだ。
 視界には、灰色にくすんだ薄い板壁や、そこに掛かっている竹箒、使い込んだ木桶や瓶、手前には擦り切れた畳、それに藍と銀鼠の紐のようなものも入っているが、もう全ての景色はただの紋様にも等しい。
 散々塞いだつもりが、まだあちこちから絶え間なく入ってくる隙間風に、忙しなく揺らいでいた小さな光がすうっとしぼんでいき、やがてふっと視界が暗くなる。
(――消えた……、な…)
 一応火の元を確認した俺は、さっきまであれほど冷たかった煎餅布団に少しずつ暖められながら、そのまま真っ直ぐに寝入った。











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