五、抜き打ち

語意:『抜・即・斬』。刀を抜いた途端に斬りつける事。この事から、予告なくいきなり何かをする事





(…ぅ……っ…)
 何だか酷く寝苦しいような感じがして、ほぼ無意識のうちに寝返りを打つ。
 いや正確には打とうとした。だがどういうわけか動いたのは下半身だけで、上半身が…特に胸の辺りが重いような感じで全く動かない。しかも咽は餅でも詰まったみたいで、息すら上手く出来ない。
「――ッ?!」
 どんなに疲れていて酷い鼾をかいても、ここまで苦しかったことなど一度もないはずだ。一体何事が起こったのかと、大慌てで両の目を見開くと。
(――な…ッ?)
 人とは、心底純粋に驚くと、声など出なくなるものらしい。すぐ目と鼻の先に、こちらを覗き込むようにして一人の男がいたが、出したつもりの声がどこかにつっかかったまま、出そうで出てこない。ひたすら鯉のように口をぱくつかせながら、何度も瞬きをする。道理で苦しいわけだ。良く見れば、失敬な輩は人の胸の上に片膝立ちで体重を掛けながら乗り上げていた。そいつの見目姿に何とはなしに見覚えがあるような気もしたけれど、どうしても思い出せない。
(ひょっとしたら自分はまだ夢をみているのか?)と、急にあやふやになってくる、と。
「――思い出したか?」
 低い男の声は直接頭の中に響いてくるようでもあり、まるで深い井戸か大きな水瓶にでも頭を突っ込んでいるような、妙な感じがした。と突然、あることに気付いてハッと息を呑む。
(そうだ…蝋燭はさっき全部灯しきってて、もう無くなってるはず…?!)
 なのに閉め切った室内で、男の姿だけが異様にはっきりと見えていた。何かに照らされているのではなく、どう見ても彼自身が仄白い光を放っている…? と思うや否や、暖まってきていたはずの体が、背筋からぞくぞくと寒くなっていく。
「…え…と? なに…を、です…?」
 懸命に心の臓の高鳴りを押さえながら訊ねた。急に声が出るようになったのは、何となく目の前の男がそれを「許可したから」という気がする。
 そう言えば、さっき綱手さんにも『何か思い出したか』と聞かれたのに咄嗟には思い出せず、後になって思い出して臍を噛んだばかりだった。
 子供達にだって日頃から「いいか? 何事も人に言われる前にやるんだ。言われて慌ててからやるのは、かっぺい((井の中の)蛙)だけだぞ?」なんて言っているのに、こうも「粗忽者のお師匠さん」ではどうにも示しがつかない。でもにわかに動転した頭では、悲しいかな何も心当たりがない。
「オレの言うことを無視して、どこまで武士を気取れるか。試してみれば? ――試せるものならな」
 だが向かいの男は何をどう勘違いしているのか、もう既に喧嘩腰ときている。町火消しで倶利伽羅紋紋を背負った再不斬さんよりも、団子屋の看板娘のアンコさんよりもまだ血の気が多い輩がいたとは驚きだが…って、そもそもどう見ても人じゃないだろうこれ?!
「だっ、旦那は足があるみたいですけど、その…新手の幽霊か、何かで…?」
「…ッ、何を言い出すかと思えば…。そんな下等なものと一緒にして貰いたくないね。ったくそこまで間抜けなこと訊かれるとは…」
「…はぁ、そりゃすんません」
 思わず謝ってしまったが、こっちだって何の事やら全く分からないのだ。話が見えなければ、合わせようがない。
「大体ひとかどの武士なら、オレ気配を察していち早く身構えるか、或いは気付いても泰然と構えているかってものだろう?」
 男はなぜか、初対面の俺の言動や驚いた様がひどく気に入らなかったらしい。甘い響きの声なのに、鋭い物言いで次々切り込んでくる。
(そう、言われてもな…)
「いやお恥ずかしい話ですが、俺はその、傘を張るとか、草鞋を編むのとかは得意ですが、子らに読み書きを教えることは出来ても、剣術の方はからきしでし…」
 途端、男の細い銀眉がぐうっと寄り、続いて眉尻がきりきりと上がっていくのを見て、慌てて言葉を切る。
「傘っ…、草履だとォ…? 貴様それでも武士か?!」
「あいすみません。幽霊の旦那は、優秀な武士をお探しで?」
(よし、何となく話が見えてきたぞ)
 少しは相談に乗ってやれるようになってきた。もしも浮き世に心を残した御仁なら、早く成仏してあの世にいってくれと願うばかりだ。あっ、ついでに俺の親父とお袋さんに、「イルカは元気にしてた」と一言でいいから伝えてくれると有り難いのだが。
「だからそんなものじゃないと言っている! 二度言わせるな!」
「なっ…なら、なに…」
 男の強い語気と、何より全身から発散される、ぞっとするような鋭い気に圧されて体を固くする。この感覚、何となくつい最近も味わったような気がするが、はていつだったか。まるで眉間の間に鋭い刀の切っ先でも突き付けられたような感覚に、上手く記憶が手繰れない。
「…ふっ、ここまで察しが悪いとはな…。どうやらお前は、刀というものに全く興味がないどころか、武士として精進する気もない、とんでもない腰抜け侍らしい」
(ぇ…)
「――えぇ…それは…――仰る、とおりです…」
 どこの誰かも知らない、見ず知らずの闖入者に単刀直入に言われたその言葉に胸を衝かれて、思わず素直に認めてしまっていた。

 いつ頃からだろうか? 自分が常に腰に刀を帯び、場合によってはそれで人を脅したり傷付けたり殺めたりすることが許されていることに、微妙な違和感のようなものを感じだしたのは。
 周囲では誰もが皆、武士の証しであり、成人男子の証明としての刀に、ひとかたならぬ思いを日に日に込め続けている。いや、もちろんそんな彼らを否定するつもりは毛頭ない。けれどいつの頃からか自分は、それとは逆の流れに向かってゆっくりと、でも確実に歩み出していた。
 とはいえ、この考えがなかなか理解されないであろうことは重々承知していたから、もう長いこと誰にもそんなことを打ち明けることもなかったのだが、最近になってようやくアスマさんにだけは匂わせるに至っている。いや、悟られてしまったから観念したというべきか。
 そのアスマさんしか知らないはずのことを、いきなり襲ってきた異容の男に真っ向から指摘されて、それが思いの外堪えていた。本当に誰なんだろう、この者。いや、やっぱりこれは夢なんじゃないか? いまだに手足が動かないのも、単に夢の中で金縛りに遭っているだけなんじゃ…? などと、再び疑念が湧き上がってくる。

「オレは、そこにある雷切だ」
「……はァ?」
 だからそれを耳にした途端、何とも間抜けな声が不意を衝かれた唇からぽろりと転がり出ていた。
「…ッ、だから、お前が昨夜持ち帰ってきた、打刀だ」
「はぁ、……かたな…ぁ?」
 ああぁーこれはあれだな、やっぱり夢ってやつだな、と余りに訳の分からぬ言葉に、早くも頭の隅で全てを片付けようとしている。
「ふん…ここまで言ってもまだ分からないとはな。昔は鞘に収まった拵えを一瞥しただけで、オレの存在に気付いた奴も居たってのに…。ったく貴様は最悪の切れ味だな。焼きを入れてやるのも馬鹿馬鹿しい」
「なっ…?! そんなこと藪から棒に言われたって、分かるわけないでしょうっ? 大体なんだってんですか、真夜中に勝手に人んちに上がり込んだうえ、いきなり人の上に乗り上げて首締めといて、なに大上段に振りかぶった勝手なこと並べ立ててんですか?! ちょっ…、いい加減そこどいてくれ、重いっ!」
 男のあんまりな言い草に、ついに堪忍袋の緒が切れた俺は、奴をはねのけるつもりで真っ向から食ってかかった。と、突然体がふっと軽くなり、勢い余った上半身が、掛け布団をはね飛ばしながら暗がりにがばりと起き上がる。
 男は文字通りの流れるような動作でもってすっと後ろに下がると、相変わらず玄妙な光をその身にまといながら、刀のすぐ側に静かに佇んでいる。その一分の隙もない立ち姿には、言われてみれば確かに神気めいたものが感じられなくもない。
(だからって……刀に、宿ってる…だと?)
 けれどその様を見てもまだ、にわかには信じ難かった。
「ふん、まだ信じられないか。なら聞くが、お前達武士にとって、刀とは何だ? 『不断の伴侶であり、独自の愛称を付けて愛するもの』、『力と勇気の象徴』、『忠義と名誉の証し』、『己の魂そのもの』――過去にオレを選んだ者達は、オレのことをそんな風に表してきたが、お前は、どうなんだ?」
「…それは…っ、その…」
 思わずぐっと俯いた。肝心の自分の刀は、受け方がまずかったせいで折ってしまったうえ、それすら近々売ろうと思っていたなどとはとても言えそうにない。
 だが対する男の指摘は抜群に鋭く容赦ない。思わず(確かにこれは、緊迫した無数の戦いの中で培われてきたものとしか…)と思ってしまうくらいには。
「ま、どのみちそこに転がってるそいつはもう駄目だ。二百年くらい前の刀狩りの時に農民から取り上げた、玉鋼さえ使ってない粗悪なやつだからな。打ち直したとしても用をなさない。しかも代々の持ち主が一人として精神を宿らせなかったお陰で、いつ折れてもおかしくない状態だった」
「――っ」
 男に畳みかけられた俺は、項垂れたまま唇の内側を噛んだ。『要するに刀が折れたのは、お前の半端な心そのものだ』と暗に言われた気がした。
「お前には雷切は扱えない。全く相応しくない。諦めろ」
 その声は冷淡だ。
(――確かに…な)
 自分だってアスマさんにこの刀を押し付けられた時「俺には宝の持ち腐れですし、分不相応ですから!」と言っていた。
 けれどまさか、刀自身にまで同じ事を言われてしまうとは。
(…くそっ、情けないな…、――ああぁでも……でも…っ!)
 でも「彼」に対して、俄然ものすごい興味が湧きだしていた。なぜって、何百年も前のことを全て昨日のことのように覚えて知っているのだ。こんなに素晴らしい知識の泉は他にない。
(きっと何百冊の本を読むより、遥かに素晴らしい話が聞けるに違いない! ぃよっ、伝家の宝刀! にわか生き字引っ!)
 腹の奥からむくむくと膨らんできた、今にもはち切れんばかりの好奇心を、もうどうにも抑えきれない。

「とはいえ『袖すり合うも多生の縁』なんて言いますしね!」
「? なんだと?」
 これには流石の先読みに長けた男も面食らったらしい。その眉を顰めて盛んに訝っている様子に、ふと親しみのようなものまで覚えだすと、もうだめだ、もう止まらない。
「ここで会ったが百年目…じゃなくて、折角なんで暫く俺の刀になってくれませんか? いやあのっ、心を入れ替えて精一杯手入れしますんで、一生大事にしますんで!」
 なんだろう、生まれてこの方、女人にさえ言ったことのないような言葉がぽんぽんと出てきて、自分で言っておきながらも内心で驚く。
 男は銀色の髪の向こうで右目を細め、明らかに胡散臭そうな顔をしているが、大丈夫だ。恐ろしく切れる人みたいだけれど、悪い人じゃない……はずだ。ああ、そうだ彼は人じゃない、人じゃないけど、まぁいいよな! あれやこれやと色んな昔話をしているうちに、きっとすぐに打ち解けて、仲良くなれるに違いない!
(刀と仲良くなれるなんて、凄いぞ、面白い!)
 どうやら他人様には内緒にしておかないといけないらしいことが、返す返すも残念だが。

「あの〜、旦那はさっき、刀には独自の愛称を付けるもの…と言ってましたけど」
「あぁ? ――あぁ」
「じゃあ雷切なんていう、厳めしい歌舞伎役者みたいなのじゃなく、俺が付けても?」
 そう、ここはお近付きの印にひとつ。
「ふん、勝手にすれば」
 何となく居心地の悪そうな、でもどこか満更でもなさそうな、どっちともつかないような複雑そうな顔をした男が、投げやりな返事をしている。
「んーと……愛称…愛称…。――んっ、じゃあ決めた! カカシにしよう!」
「なっ…? なんなんだその木偶の坊みたいな名前は? 明らかに試し切りされる側の名前だろう?」
「やっ、試し切りって…、やなこと言いますねー」
「当たり前だ、竹に藁を巻いた巻藁は、昔から試し切りの道具と相場が決まっている。ふっ…なんだ、また怯えて尻込みか」
「まさか。雷→稲妻→稲→案山子ときてるから、あながち遠くも悪くもないと思いますが? 大体勝手にしろと言ったくせに、往生際が悪いですよ?」
「……っ」
 カカシに打ち込まれた俺は、負けじと斬り返した。実際に刃を交えない形でのこういう丁々発止なら、いつでも受けて立とうじゃないか。

(カカシ、仲良くしような!)

 ちょっとやそっと斬られたからって、俺はめげないぞ?




  * * *




「…ぅんっ…がっ…?!」
 自分の鼾のすごさで目が醒めた。
(…ぇ? 朝…か?)
 ぱちぱちと瞬きをする。板壁の隙間から白い光が射し込んできていて、何ら代わり映えのしない簡素極まりない九尺二間の四角い部屋を、薄ぼんやりと照らしている。
「――っ?!」
 がばと跳ね起きた俺は、慌てて周囲を見渡した。
「…ぁっ…、あった…っ!!」
 部屋の隅の衝立の影に置いてあった、見事な大刀の拵えを勢いよく掴んで、細い朝日に透かすようにしてまじまじと見下ろす。掴んだのは先日斬られたほうの手だったが、もはや気にもならない。

(なぁ……カカシ?)
 綱手さんの「物忘れに効く」お灸、実はとてもよく効いていたのかもしれない。
(お前、なんだろ? 夕べのあれって?)
 手の中のものに、そして脳裏にいまだくっきりと残っているすらりとした銀色の立ち姿に向かって問いかける。
 刀からの返事はない。けれど不思議なほど疑問も迷いもない。

 早速刀身の手入れをすべく、俺はいそいそと鯉口を切った。昨夜はそこから覗いたものの強さに圧倒されていたけれど、もう大丈夫だ。
 いや、心乱れたりしないよう、これからは努力する。

 手入れなどではもう何年も高鳴ることの無かった胸を踊らせながら、俺はその美しい鞘をそっと払った。








                「なまくら!」 いつか…続…?



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