「じゃあ、イルカ先生、あなたの考えを聞いても?」
「……俺は…」
 だが黒髪の男は即答には程遠いといった様子で、自身の手の上に置かれたままの上忍の白い指先をじっと見下ろす。

(もし…)
 もし仮に、中忍の俺が己の魂と、里の平和を引き替えることになったなら。
(万が一にも、本当にそんな事態になったなら)
 忽然と現れてはひたすらに破壊の限りを尽くす存在など、この世から完全に消し去れるものなら、それに越したことはないのではないだろうか。そうすればその先々で、少なくとも九尾に関する無意味な死や争いは起こらないのだ。
 幾ら他里が人柱力を有していたとしても、俺は尾獣を『必要悪』として認めてはいけないと考える。そんなことをしても、戦は増えこそすれ、決して無くならないと思うからだ。
(なのに…なぜですか…)
 やはり四代目に対しては「子供への封印だけは止めてくれ」と一言言うべきではなかったか。他のことは止められなくても、それだけは出来たのではないか。
 そうしなかった自分は、人である前に、忍だったということか。
(――――…)
 目を閉じると、記憶に新しく上書きされた、今はもう遥か遠くに隔たった人々の顔が、次から次へと浮かんでは消えていく。
 結局自分は一歩たりとも動くことが出来ずに時の中洲に立ちつくし、時間の大河が周囲を激流となって流れ下っていく様をひたすら見せ付けられていただけだった。
 ただ別れ際に、彼らが口にしていた言の葉だけは、今も耳の奥に鮮やかだ。
(死ぬまで悔いていてもいいのなら、そうするけれど)
 そんなことのために、生き残ったわけじゃない。


「――四代目は、遺された者達に全てを託したんですよ」
 自分の右手の上に乗せられていた黒い革手袋の上に、空いていた左手を乗せる。
(図らずも、もう一度確かめに行けたのだ)
 見間違える訳にはいかない。
「託した?」
「ええ。どんな親だって、それが例え里長だとしたって、自分の子を人柱力として扱っていいなんて心の底から思っている親がいるはずがない。何もかも託されてるんです」
「ん…確かにね」
 上忍は僅かに銀髪を揺らした。


(イルカ先生…)
 たった三日間ではあるけれど、あの時代と真っ向から向き合ったらしいこの人は、そこで会った男から一体何を受け取ったのだろうとカカシはふと思う。
 そしてその弟子だった自分には、なぜそれが伝わらなかったのだろう。


「俺達忍って…いや人って、どこまで力を持つことを許されているんでしょうね」
 この数日間でより一層芯の強くなった感のある中忍の、誰に答えを求めるでもないような言葉に、カカシは黙考する。
(そうね、――篝火(かがりび)が篝火のままで、オレ達の行く先を明るく照らすのか、それとも身を焦がす業火に変わるのかは、火が決めるわけじゃない…)
 けれど。
 上忍は心持ち開いていた右の瞳を伏した。
「ゆるされている間だけ、ですかね」
 全てが灰燼に帰す、その日まで。


「ねぇ、イルカ先生?」
 銀髪男のいつも以上に軽い感じの問いかけに、俯きかかっていた頭が上がる。
「もしオレが生きている間に、そんな絶望的な日が来たら」
「えっ…」
「もしもこの先、オレ達が進む道がまた暗闇に閉ざされるような事態になったら、二人でもう一度、過去に戻りませんか?」
 カカシは背後のポーチに長い腕を回すと、その手に掴んだものを二人の間に置いた。白いシーツの上で鈍く光っている里支給の武具――一本のクナイを見て、イルカが小さく息を呑む。
「こっ…これって…?」
 その鋼色の柄には、黒々とした標がくっきりと浮かんでいた。
「残念ながら十六年前の標の付いたクナイは、先日転送に使ったものも含めて、全部連中に回収されてしまいました。でもオレが今回時空間移動術の開発中に実験のために付けた標なら、まだ残ってますから」
「…実験用の、標…」
「ええ、それらも全部自主提出したつもりだったんですけどね、一本だけ出し忘れてまして。とりあえずこいつで、三ヶ月前になら確実に戻れますよ。どうです? 再出発するにはまずまずの時期だと思いません?」
「――――…」
 上忍の、提案というよりはどこか誘いのように聞こえなくもない思いもよらぬ言葉に、咄嗟の返答が出来ない。
 だが軽く目を伏せていたイルカが短く息を吸ったかと思うと、やがて真っ直ぐカカシを見つめながら切り出した。
「その時は……カカシ先生一人で戻って下さい」
「――…あなたは?」
「俺は……俺は…。――カカシ先生がどのように過去を変えていかれるのか、その成果をここで見届けながら終わるとします」
「このまま残ると…――辛いかも、しれませんよ」
「構いません。もしも信じていたことが端から覆されたとしても、諦めさえしなければ、言うほど辛くないはずですから」
「――――…」
 ほんの一瞬、イルカの視線と正面から絡み合ったカカシが、ついと顔を逸らしたかと思うと、バリバリと勢いよく銀色の頭を掻く。
「――そう…ですか。あぁいや、そうですよね。ハハハ、いえもちろん冗談ですって。決まってるじゃないですか、やだなーあんまり真剣に答えないで下さいよー。ホント、あなたには敵いませんねぇ」
「なっ…?! もちろんて…?! ――まったく…悪い冗談はよして下さい! 大体三月前に戻ったとして、カカシ先生は何をどうするつもりなんです? 今以上に若くて青いだけの俺達を幾ら見たところで、きっと恥ずかしいだけですよ?」
 眉をハの字にした中忍が少し困ったように、でも素直に笑っている様を、上忍は黙って見守る。

(イルカ先生…、まったく…あなたって人は…)

 ――月天に届かんと燃え盛る劫火。
 ――立ち込める黒煙と、腐臭の混じった獣の吐息。
 ――見渡す限り累々と横たわる屍のその上に、一人、また一人と倒れ伏していく家族や同胞達。

 そんな中で、あの九尾と間近で対峙したとはとても思えない、それこそ数日前に、情事の後で「眠っていけば?」と訊ねた時と、一見しただけでは何ら変わりのないそのくっきりとした横顔に、カカシは「敵わないな」と思う。
 自分など、出来ることなら一日も早く忘れ去ってしまいたかった記憶が新たに上書きされてしまったことで、簡単には隠しおおせない程の精神的ダメージを被ったというのに。

「えぇー、そんなに恥ずかしいかなー? オレは若いイルカ先生も結構…いやかなりイイと思うはずなんだけど」
「もう、馬鹿なことばっかり言わないで下さい。まったく、こんな物騒なものまで用意して…。あなたも本当に懲りない人ですね」
「そんなだから、いまだにナルト達に「ハイ、嘘!」なんて言われるんですよ?」などと始まりだすと、流石の上忍も白旗を上げざるを得なくなり。
「あぁ〜分かりました。分かりましたから。…じゃあこれは処分しましょう。んーそうね、明日の朝起きたら…なんて悠長なことを言ってたら、またオレの気が変わるかもしれないから、今から五代目の所に持って行って処分して貰ってきますよ。――すぐに、必ず戻りますから。あなたはここにいて下さいね? ――いいですね、約束ですよ?」
 男はなぜか言葉を短く句切るようにしながら、まるで一言一言をイルカの中に置くように言う。
「ぁのっ……待って!」
 イルカの手が、起き上がってベッドから下りかけた上忍の腕を掴んだ。
「――はい」
 振り返って真っ直ぐに見つめてきたその声が、いつも通り穏やかなのに、どこか重い響きを含んでいたように感じられたのは気のせいだろうか。
「いっ……ぃぇ、……そのっ…」
 イルカは何度も瞬きをして、どこか自分の中に湧き上がってきた不可解な疑念と向き合っているかのような、酷く複雑そうな顔をした。
 上忍は右の目尻を柔らかく細めると、「あなたにそんな顔をさせる物は、やはりこの世にあるべきじゃないね」と言って背を向ける。
 イルカが何も続けられないでいるうちに、扉は静かに閉まった。




(カカシ…先生…)
 イルカはいつもと何ら変わらない、少し猫背の背高い後ろ姿が扉の向こうに気配と共に消えると、白い寝具にそっと体を横たえた。
(……なんで今、そんなこと、訊くんですか…)
 どうして急に「一緒に過去に戻ろう」なんて。

 イルカはきつく唇を噛んで、枕に顔を埋めた。
(俺はずっとここに居ます。この時代を生きます。もう一人で、どこかに行ったりしない。約束します…、だから…だから…!)
 だからあなたも、次にその扉を開けたら「やっぱりそうあるべきだよね」と笑って下さい。

 嘘でも、構いませんから。





 パタンと静かに自宅のドアを閉めると、カカシは一切の気配を消して、ドアにもたれ掛かった。
「―――…」
 手にしていたクナイの輪に人差し指を通し、目の高さに持ち上げると、ゆっくりと頭の上にかざす。
(やっぱ、気付いた……か…)
 当時、新術開発の最終段階で苦労して付けた柄の標を、見るともなく見つめる。

 もしも再び、二人に『そんな絶望的な日』が訪れたなら。
「そうしたら、カカシ先生と一緒に、もう一度やり直したい」
 あの人がたった一言、そう言ってくれたなら。
 あまたの追い忍をも退ける覚悟で、二人してこの里を抜けるのもよし。
 或いはこんな日が来ることなど何も知らずに愛し合っていたあの頃に戻れるよう、三月前に標を付けたこのクナイで、時空間移動術を、今度は影分身に発動させて二人して飛ぶのも悪くないな、などと漠然と思っていたのだけれど。
(…ふふっ…参ったな。――一人で行ってこい、か…)


 今朝方、大名の竹光家から正式にあった婿養子の要請に、五代目火影は「お前が行ってくれるなら、里も心強い」とだけ言い、内心密かに期待していた、この事件を水際で防いだ功績や、上忍が抜けることによる戦力低下を惜しむような言葉は、最後まで一言もかけられる事はなかった。
 もちろん今回のご意見番が画策した一件が、全く何の咎めも戒めもなく終わるなどとも思っていなかったが、まさか術の開発者であるオレを事実上の「事件の元凶扱い」として里から追い出すことで、全ての幕を引くなどとも思っていなかった。
 国家を「転覆させる夢をみた者」ではなく、そんなことなど露ほども思わずに、ただ「転覆も可能な術を開発した者」にのみ、相応の償いをさせる。
 里長の下した決断は、まさに里長らしいものだった。
(ま…、全てはオレの甘さが引き起こしたこと、か…)
 火の国の隠れ里という共同体が、その大きさゆえに、時に残酷な一面を見せることなど、百も承知だったはずだ。
 四代目の青い双眸が、こんな遠くまでも見通していたことに、今さらながら溜息が出そうになる。
(ひょっとしたら…)
 狂気の沙汰としか思えなかったご意見番のあの命令ですら、実は単なる口実で、彼らが本当に心の底から欲していたものではなかったのだとしたら?
 オレが恋人であるイルカに対して危険な術を発動するように仕向け、最終的に二人の間に修復しがたい亀裂を生むことが出来たなら、彼らは目的の八割がたは達成したも同然だったのでは?
(オレはその皺だらけの掌の上で、都合良く踊らされていただけ、…だったのだと、したら…)


(――あぁ…そうね、――ふふ…そうなのかもねぇ…)
 体の内側にぽっかりと空いた空洞に、コロリと転がるようにして出てきたその例えに口端を歪める。
(なるほど。そういうことか。…ならこの世の時間が、容易く戻らないのは…)
 単に万物の理に反しているから、ではなく。
 現(うつつ)に残された愚かしき者達が、どう足掻いても決して越えることの出来ない壁(ひと)をつくるためなのかもしれない。
 そして他でもないイルカは、そういった者の存在を骨の髄から知っており。
 六歳で中忍になったオレは、結果的には知らなかった。



 耳を澄ますと、扉の向こうからきつく押し殺した男の忍び泣きが微かに聞こえてくる。やはりちょっとした会話の端々から、置かれた一連の状況を全て悟ったのだろう。
(イルカ、先生…)
 決して途切れることのない時間という名の大河の奔流で、あなたと同じ船に乗り合わせた偶然を、心の底から幸せに思う。
(ありがとう)

 黒い口布の下で噛み締められていた男の形の良い唇が、片方だけ僅かに上がる。
(あなたは、こんな男にどこまで優しくしたら気が済むんですか?)
 けれどその狂おしいほどの優しさが、比類無き強さに支えられている限り、これから始まる旅路の先々でも必ずや確かな標となって、オレの行く先を明るく照らしてくれるはずだ。

 岸辺の光に照らされながら再び櫂を握ると、木の葉の小さな船は急速に岸辺を離れていく。


(じゃあ、ね。――元気で)
 不思議と不安はない。当然か。
 今度の別れは、永遠の死でもなければ、過去への転送でもないのだ。
 これから始まる航海は、それらとは比べるべくもない、今の自分にとっては隔たりとも言えぬ程の、ほんの瞬きのようなものに過ぎないのだから。


(いい? きっと、きっと戻ってくるから。そこに居て下さいね?)
 男は手中のクナイを懐にしまうと、眼下に広がる暗夜の世界へと、音もなく真っ直ぐに跳んだ。







                     「鳴神ノ瞬キ」  完




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