* * * 



 目の端に、鼻の奥に、そして薄い殻と膜からなる己の内側一杯に青い光が瞬いていたように思ったのは、記憶の欠片の寄せ集めだったのか、それとも――。

(――くる、し…)
 のっぺりとした重い暗闇の中にぽつりと浮かんで、懸命に手足をばたつかせて藻掻いているのは、自分が勝手に作り上げたイメージか、それとも現実か。
(誰か…っ)
 誰かこの激しく上下している胸を何とかして欲しい。この状況を、自分でどうにか出来る気が全くしない。
(もう誰も見ていないのか…? 本当に誰もいないのか…?!)
 背筋がぞくりとする感覚に、あるのか無いのかはっきりとしなかった肉体がまだそこにあるらしいことが分かる。
(――まだ、やれる…のか…?)

 俺の役目はまだ終わって…、ないのか?



 と、真っ暗がりから突然白いものが伸びてきて、首筋辺りへと差し入れられたような感触に、思わず声にならない悲鳴を上げた。
「イルカ先生!」
「ッ?!」
 カッと大きく目を見開き、殆ど塞がりきっていたはずの咽を押し広げるようにしながら、繰り返し大きく胸を上下させる。
(…な…っ?)

 歪んだ天井――揺れる白熱灯――柔らかな寝具――覗き込む人――とても見覚えのある男――燃えるような緋と灰青色の瞬き。

(…ぁ…あ…)
 漠としていた空間が確かに埋まり、「今」が刻まれている。間違いない。
 ふと(いつだったか自分は、この男に首を絞められたのではなかったか?)という既視感のようなものが過ぎるが、それすらもはっきりとしない。何となく真新しい感じのする記憶なのに、いやに遠くにあるように思えるのはなぜだろう。
(――夢…?)
 ならばなぜ、こんなにも悩んでいるのか。

「――っ?! …もしかして…俺――自失…してましたか…っ」
 だとしたらどのくらいだろう? とてつもなく長いようにも、逆にほんの瞬刻にも思える事が妙に気にかかって、焦燥感が胸を焼く。

「それは……オレには分かりません」
 銀髪の男は安堵の溜息を吐きながらも、不可思議な返答をした。



   * * * 



 自身の軸足の置き場が分からず、自分と他人、今と過去などの境目をすっかり見失って、「結局、全ては夢だったのか…?」とそのまま体内回帰でもしていこうとするかのようなうみのイルカの目がようやっとはっきり醒め、置かれた状況を正しく認識出来たのは、それから暫く後だった。

「――そうだ、あぁそうだカカシ先生! 良かった、良かった無事で!本当に良かった…、俺…俺てっきり…」と勢い込んで言われた上忍は、何度も頷いてからゆっくりと経緯を話し出す。と幾らもしないうちに、中忍の真っ黒な瞳が大きく見開かれていく。

「――なっ…、影、分身…?!」
「ええ。オレの見張りについていた暗部の連中を眠らせた後、二人に別れて分身の方をあの日に送りました。でもチャクラを均等に分散してしまったんで、向こうで動ける時間も力も限られてて焦りましたよ。ま、でもそのお陰であなたをこちらに回収するタイミングも大体分かったんで、結果的には多少無理してでも行って良かったんですけどね」
 穏やかで微塵の揺らぎも澱みもない上忍の言葉に、どこかまだぼんやりとしていたイルカの瞳がみるみる焦点を結んでいく。
「――っ、そうか…! …あぁいや、そうですよね…」
 確かにそうでなければ、幾ら彼でも自分一人だけであの時代に飛べる訳がない。そんな簡単なことにも思い及ばす、彼が死んだと思い込んですっかり動揺しきっていた自分に、思わず自嘲の混じった溜息が出る。
「良かった、笑う元気がある」
「からかって」
「あらら、そんな風に見えますか」
「ぁ…ぃぇ……、すみません」
 自分の手の上にそっと乗せられた男の体温が、黒い革手袋越しに感じられてじんとする。
「あんな状況下から、よく戻ってきてくれました」
「―――…」
 すぐ側からじっと見つめられて少し俯くと、何となく首周りに違和感を感じて、指先で咽の辺りを触る。と、それを見ていた向かいの男が「ごめんなさい、まだ痛む?」と言ったことで、ようやく「飛んだ日」のことも思い出した。
(そうだった、いきなりキスしてきたカカシ先生が俺の首を…)
 甦ってきた記憶に、苦しかったこともすっかり忘れて、今更のように顔を熱くする。
「でもオレね、あの時結構本気でしたよ。あんな所にあなたを一人で行かせるくらいなら、いっそって」
「だっ…だとしても、明らかに手加減して下さってた。自失すればそれだけ時間が稼げますから。…俺にはっ、分かりますっ!」
 だがカカシは、そんな中忍の声が聞こえているのかも怪しいような、まるで何もない空間でも見るような顔付きになり。
「や〜、一人残されることにも、いい加減飽きちゃったしね〜」と、垂れ気味の目尻を下げた。


「そうだ、四代目からカカシ先生に伝言があります」
 男の目元を何も言わずに見つめていたイルカの言葉に、上忍が目を丸くする。
「オレに?」
「ええ。こちらに口寄せされる少し前に、宜しくと言づてされました。『いつまでも、慰霊碑の前に立ってちゃダメだよ』…と」
「―――…」
 直後、ほんの一瞬だけ色違いの瞳を大きく見開いた男の口布の向こうから「そう」という声が小さく漏れる。
「…ふふ、参ったな。あんな遠くにいる人にまで行動を読まれてちゃ、忍失格だーね」
 上忍は、体のどこかでも痛いような顔つきで笑った。


「ぁ…っと、そういえば…」
 旧に何ごとかを思い出したらしいイルカが、利き手を伸ばして再び首元の辺りを触る。
「大丈夫、消えてますよ」
 すぐに意図を察した上忍が教えてやると、中忍は「そう、ですか」とだけ答えた。

(そうか――やはり…)
 最初にあの時代へと飛んだ際、時間の急激な遡りに堪えられずに懐中時計が壊れたのと同じように、首の標はその役目を失って消え去っていた。
(…これでいいん、ですよね…?)
 標の付いていたところを掌でぎゅっと抑えると、脳裏を金色の光が一条、煌めきながら消えていく。
「まっ…まさかあなた、あの標が消えたのを残念に思ってません?!」
 上忍の不満げな声に、中忍は苦笑いしながら首を横に振った。


(良かった、特に変わったところはない…か…)
 カカシは内心で安堵の溜息を吐く。
 無事元の時代に戻れたとしても、何より気掛かりだったのは、我々が過去に戻って昔の自分に関わり、多少なりとも当初と違った体験をさせてしまったことだった。
 要するにほんの僅かながら自分史を書き替えたわけだが、幸いなことに二人に目立った変化はない。恐らくはオレ達が、両方の時代の記憶を有しているせいだろうが。
(あぁいや、もうとっくに書き換わっていて、そのことに気付いてないだけなのかもしれないけどね)
 それでもいい。もう何も望むまい。
 この人が無事生きて戻ってきてくれたことに勝るものなど、何もないはずだ。

「どうか、しましたか?」
 だが束の間和やかな空気が満ちた中、ベッドに座ったまま、じっと何事かを巡らしているらしい中忍にカカシが声を掛ける。
「ぃぇ、別に」
「なにか、気になることでも?」
「いいえ、特には」
「誤魔化してもダメですよ。顔に書いてある」
 指摘されて、思わず自身の顔を触ったり顰めてみたりしている男の様子を上忍が一頻り楽しんだ頃、ようやく観念したらしいイルカが切り出す。
「…そのっ…九尾の封印のことなんですが…」
「――どうぞ、話して?」
 周囲に人の気配が無いことを素早く確認した上忍が、軽く促す。
「ぁはい。確か…四代目が発動した術は、以前に三代目が大蛇丸を道連れにしようとした時のものと、全く同じ封印術だったのですよね?」
 どこか言いにくそうにしながらも、ゆったりと静かに頷かれたことで安心したらしく、ぽつりぽつりと喋り出す。
「ああ、そうだね。それが、どうか?」
 木ノ葉崩しの際、結界の外で両者の戦いを見ていた暗部達が、「里を救った英雄」の一部始終として伝えたところでは、三代目が発動したのは、四代目のそれと同じ禁術の『屍鬼封尽』――己の魂と引き替えに、死神の中に相手を道連れにする術――だったと聞いている。
「ということは、四代目はやろうと思えば、自身の魂と共に九尾を冥界へ連れていくことも出来たはずなのに、どうしてやらなかったんでしょう? なぜ生まれたばかりの赤子の中に、なんて…」
 イルカが俯く。その眉はぐっと眉間に寄せられたままだ。
「あぁ…」
 上忍は空いている方の指先で、眉間をぎゅっとつまんだ。
「それはあの人が、不幸にも木ノ葉の里長だったから、なんでしょうね」
 もちろんそう考えているのはオレだけではない。恐らく四代目と近しい関係にあって事情を知る者は、皆そう思っているだろう。或いはそう思いながら、死んでいっただろう。
「究極の破壊神でしかないあの九尾でさえも、この争いの絶えない世の中には必要不可欠だと考えたんでしょう」
 そう、人柱力にして将来その無尽蔵の力を活用出来るなら、忍の里としてこれ以上効率の良い選択肢は無いのだ。
 昔はどこの里も、こぞって尾獣を軍事力にしようと試みていた。ただ人智を遥かに越えたその存在に、運良く人柱力に出来たとしても、どの里も殆ど行使は出来ず、かといって放棄も出来ずに、保有していただけというのが現実だったが。
 そんな勢力図が描かれつつあった中、九尾襲来のあの日、たまたま彼は里を守る立場の里長であり、たまたまそこに生まれたばかりの身内がいた。
(残念だが…それだけだ)
 どれほどの偉才であれ、その場の偶然ともいえる巡り合わせが、その者の命運を決めていく。
(だからオレは、そんな些細な事で大局を左右されないための術を開発したはず、なんだけどね…)
 ちなみに――弟子として余りにも近くにいたせいで、四代目火影に対する正しいピントがいまだに合いにくいと感じる時もあるのだが――、あれがもし他人の赤子だったとしても、彼は果たして九尾を封印しただろうか?

(…まっ)
 その答えは、彼が居るという冥界とやらに行った時に訊けばいい。












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