「四代目が来るまで足止めをかけろ!」
「それまで何とか食い止めるんだ!」
(!)
 九尾の移動と共に集まってきた同胞達が声を限りに叫ぶ指示に、にわかに我に返った。見回せば先程まで逃げ惑っていた人々の姿はなく、一区画挟んだすぐ向こうに、月を覆い隠す程の巨大な影が蠢いている。
「くそっ…!」
 その影を真っ直ぐに睨み付けて、クナイを構えながら低く身構えた時。
「ッ?!」
 凄い勢いで何者かに後ろへと引っ張られて、建物の陰へと倒れ込んだ。
「アンタっ、何やってんですかっ!」
 出し抜けの怒鳴り声に嫌と言うほど耳朶を打たれたが、よく耳に馴染んだ声音に顔を見る前にホッとする。
「カカシ先生!」
「『誰と戦ってみたいか』なんて下らない質問を、いちいち真に受けて実行しないで貰いたいですね!」
 逆手に握っていたクナイを半ば強引に取り上げるや、「こんなもんでどうにかなる相手じゃないって、分かっててやってるところが憎たらしい」と乱暴に腹の前に突き返してくる。
「さっ、帰りますよ」
 よく見れば上忍も随分と憔悴しているようだったが、その声だけはいつもと変わらず、どこか飄々として余裕が感じられる。
「でも…っ!」
「『みんなを置いて一人では逃げ帰れない』って言うんでしょ? けれど落ち着いて考えてみて下さい。イルカ先生はこの時代にもう一人いるんだから、決して逃げてはいないんです」
「――ぁ…」
「大丈夫、あなたはちゃんと向き合ってる。気に病むことは何もないんです。誰が何と言おうと、過去を不用意にいじらないことが、その分未来を信じて行動することこそが、今のオレ達が本当になすべきことなんですから」
「――はい…!」

(あぁ…なんだか、すごいな)
 大きく頷きながら思う。
 この人の言葉一つで、急に一杯の澄んだ清水でも飲んだような気分になっていた。今の自分にとって、その一瞬は何より大切なことに思えてならない。
(良かった…カカシ先生に出会えて、本当に良かった)
 この人を必要としている自分を、今ならはっきりと感じることが出来る。

 そう。だから「さっ、行きましょう」と手を取って立ち上がらせてくれた上忍の指先から、びくっという振動が伝わってきたのも、何かの勘違いだろうと思ったのだ。
(――ぇ?)
 だがそう感じた直後には背筋がぞくりとして凍りつき、更に彼に勢いよく本人の手によって真横に突き飛ばされた衝撃で、置かれた状況を冷静に考えられない。
(?!)
 刹那、鼓膜がすぐ間近で破れんばかりに圧されたかと思うと、背後の建物が爆発するように粉みじんに吹っ飛ぶのが目の端に見えた。
「か……はっ…」
 飛び散った瓦礫が今にも骨身を貫かんと、次々と全身を叩く痛みに暫し呻く。
 風圧で相当な距離を吹き飛ばされ、建物の壁面に叩きつけられて転がった体を、激しく咳き込みながらようやっと起こした時。
 周辺には、到底信じがたい光景が広がっていた。
「な…っ」
 何もなかった。今の今まで二人がいた場所には、建物の外壁と思しき木片が僅かに転がるだけで、他には人の影も、気配すらも見当たらなかった。濛々と舞い上がる土煙の中に、のっぺりとした黒い大地が漠と広がっているだけだ。
 さっき背筋がぞくりとしたのは、とてつもない高密度のチャクラが一気に練られ、発動される気配だった。
「…うそだ…、うそだ……カカシ先生…!」
 嗄れた声を絞って根限りに叫ぶが、呼び掛けに応じて動くものの姿はおろか、気配すらどこにも見当たらない。
「――っ、先生?! カカシ先生ーッ!!」
 余りにも景色が一変してしまったせいで、また上忍と共に別の時代に飛んだのではとまで考えてみたが、妖狐は全く壊し足りないといった様子で、こちらに背を向け別の方角の建物を破壊し続けている。
 間違いない。時間は片時も途切れることなく、残酷なまでに刻々と流れ続けている。
「カカシ、先生…、なんで…なんで……嫌だ…!」
 どこを向いていいか分からず、呆然とその場に立ち尽くしたまま、震える拳を握り締める。
(……一緒に帰るって…一緒に帰るって、約束したじゃないですか…っ!)
 二区画向こうで、同胞らから矢継ぎ早に様々な術が発動されているのが垣間見えているが、効いている様子は全く無い。
「…くっ…そ…っ…、――クソーーッ!」
 それどころか攻撃している者から順に標的になって、次々と倒れ伏していく光景が目に留まると、とてもその場にじっとなどしていられずに、その方向に向かってよろよろと歩き出す。
(カカシ先生…っ、――チクショウ…っ!!)
 かくなるうえは。
 ……俺のやれることを……やれる、うちに……



 ひっきりなしに響き続ける破壊音を聞きながら、ひたすら前へと歩いている途中、ふと何の前ぶれもなく(九尾は里全体を殲滅し尽くすまで、止める気などないだろう)という気がした。そして。
(――やられる前に、来たのか…?)
 熾烈を極めた第三次忍界大戦の最中。他里では尾獣を最終兵器にすべく、次々と人への封印が試みられて成功していた。九体いた尾獣の中で当時人体に封印されていなかったのは、三尾と九尾だけになっていたはずだ。
 九尾がまだ人柱力を有していなかった木ノ葉の里に忽然と現れたのは、決して気紛れや偶然の類ではなく。
(我々忍が引き起こした大戦や、身勝手な封印合戦の果てに、当然の成り行きとして、起こった…?)
 ただひとつ残念なのは、この事実を十六年先に伝えることがもう無理らしいことだ。




 視界が右へ左へと不規則に揺れる。
 新たな戦闘現場に近付くにつれ、巨大な火柱に赤々と照らされた周辺には、目を覆わんばかりの光景が広がりだしていた。
 まるでコンロで焼かれた魚のような、どこの誰とも分からぬ真っ黒な死屍。四肢や頭部のない、もはや人の形をなしていない肉塊。夥しい血に染まりながら、早く殺してくれと喚き散らす者。それすら言えないまま、累々と横たわる人、人、人…。
(なんて、酷い…)
 どんな教訓を学ぶにも、それに見合うだけの代償がいるというが、こんなにも酷い結末と引き替えにしなければ、人とは何も学べない生き物なのだろうか。
 振り仰いだ視界の先で一際長く咆哮した黒い影は、世界中の人々の魂から漏れだした恐怖が具現化したようにも、捌け口を求めて限界まで膨らんだ、愚衆の黒い欲望の化身のようにも見えた。


「ぅ…っ」
 熾烈を極めている戦闘現場をひたすらに目指していたはずの視界が、余力の枯渇と共に一際ぐらりと大きく傾いた時。てっきり地面に倒れ伏すと覚悟していた体が何かにしっかり支えられて、その方向を見やった。
「ッ、四代目…!?」
 夜目にもその双眸は凛として、金色の髪が炎を映し込みながら赤く光り輝いている。意識せず手指が首筋を押さえた。
「ゴメンね、遅くなって。まさか本当に九尾が来るなんて。もっと早く君の言うことに耳を傾けていれば良かった。謝るよ」
「…いえ…っ」
 だがいつまで経っても、壕から逃げ出したことを追求してくる気配はない。それどころか。
「ね、その過去に戻れるという時空間移動忍術を開発した木ノ葉の忍って、誰か訊いてもいいかな?」という問いに、うっと言葉を詰まらせた。
(どうすべきだろう…、言って…いいものか…)
 だが銀髪の上忍の言葉を思い出し、黙っていた方がいいのだろうと思う。
 が。
「もしかして、カカシ?」
(!)
「…あぁ、やっぱりそうなんだ。そんなことを思いつくのはあの子くらいじゃないかとね。――ん…でもまさかあの子がこんな術の開発に、そこまで心血を注ぐことになるなんてね。それもこれも、師である僕の責任だね」
「いえっ、そんな…っ」
 聡い火影は、殆ど一人で話を進めてはまとめていく。もはやこちらは彼の言葉を一言一句聞き逃さぬよう、ひたすらに耳と心を澄ますばかりだ。
「イルカ、元の時代に戻っても、カカシを責めないで欲しいんだ。あの子の父親は…」
「ええ、ええ知っています」
 火影のその先を遮った。恐らく最後まで聞く必要も、言わせる必要もないだろう。
「責めるなんて…。逆に自分は何度あの人に助け…られたか…」
 言いながら、みっともなく語尾が震えているのが自分でも分かった。いけない、ここで動揺してはいけないと、繰り返し自身に言い聞かせる。
「そうなんだ。ね、じゃあカカシに、伝えてくれるかな?」
「――…はい…」
「いつまでも慰霊碑の前に立ってちゃ、ダメだよって」
「――…分かり、ました」
 一区画向こうの背後で激しい爆発音がして、二人の会話を暫し遮る。熱い爆風が彼の羽織っている白いマントを暫し揺らす。

「ね、イルカは、知ってるかな?」
 そのことのほか柔らかな声音に、下がっていた頭が上がる。
「僕ね、もうすぐ子供が生まれるんだ」
「っ?」
「その子のためにも、この里を守らなくちゃね」
(その子って…)
 彼はその愛しい我が子が、その後どんな命運を辿っているのか、今知りたいと、ここで知っておきたいとは思わないのだろうか?
(或いは…わざわざ訊く必要もない、と思っている…?)
 弟子だったカカシのことは、あれほど気に掛けていたのに?
 だが四代目のその表情は、九尾との戦いを前にして、そして五大国の頂点に君臨する火影として烈々としており、その思いの全てを読むことは出来ない。
「あの子達を、お願いね」
「――はい」
 深く、ゆっくりと頷く。
 聞かれないことは何も話さなかった代わりに、最後の返事にはありったけのものを込めたつもりだ。
 そこから彼が何を読み取るかは、彼自身が決めてくれればそれでいい、と思いながら。


「ん。ありがとう――頼んだよ」
 いつも、どんな時でもきりりと上がって揺らぐことの無かった男の目尻が、ほんの一瞬、一本の柔らかな曲線を描いて遠ざかっていく。
 イルカはその後ろ姿が冥夜に消えるまで、ただ真っ直ぐ見上げ続けた。













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