『もう何を言っても彼らを引き止めることはできない』と、血が囁いている。

「わざわざ頼ってきてくれたようだが、済まない」
 最早何も話さなくてもいいと思うのに、声を聞くと子供のように胸が震える。
 装備に身を固め、玄関から出てきた二人の横顔が、大きくなりだした火の手に薄赤く染まりだしている。
 あちこちで火の手が上がりだしたことで、高い障壁の内側に風が巻き起こりだし、澱んで溜まっていた熱い中秋の空気を、煙と異臭が押し出しながら急速に広がり始めている。その不穏な匂いにはっきりと覚えのある体は、意志とは何ら関係なく背筋を震わせようとしてくる。

「不思議だな、君を見たら何だか安心したよ」
 言われてうんうんと、ただ繰り返し小さく頷く。こちらを見つめる四つの瞳は、自分のそれと同じく真っ黒だ。
「誘導は、任せたぞ」
「はい。――分かりました」
 周囲の道を、人々が口々に何ごとかを叫びながら行き交っている。余力は少なく、どこまでもつか心許ないが、他でもないこの人達に任されたからには、最後の最後まで精一杯やろうと心に誓う。

「その鼻の傷、まだ残ってるのね?」
「えっ…えぇ、…はい」
 先程とは打って変わった女性の優しい声に、つい鼻梁を触ってしまう。
 この傷は中忍試験に備えて一人で修行を始めた頃に、誤って付けてしまったものだ。彼女が「男っぷりが上がったわね」などと笑いながらよく薬を付けてくれたが、当時はまだ生傷に近かったように思う。
 そんな、彼ら二人にとっては真新しいはずの記憶も、その後歩む道が分かたれた自分には、遠い思い出に変わっている。


「これで、心置きなく行けるよ」
「元気でね」
 現場に向かって駆け出していくその後ろ姿に、自分は一体何と答えれば良かったのだろう。
 結局は一言も言葉に出来ないまま、身じろぎもせず見つめ続けるのが精一杯だった。


 彼らが消えていった方角からは、着の身着のままの人々が、慌てふためきながら次々と走ってきている。唯一の脱出口である阿吽の門は、更なる未知の敵襲に備えて真っ先に閉ざされているに違いない。皆行くあてもなく、口々に不確かな噂を声高に連呼しながら、そびえ立つ障壁の内側を右往左往している。
(今の自分が、やれることを…!)
 家主の居なくなったことでしんと静まりかえった家を一度だけ振り仰ぐと、すぐさま背を向けた。








(……く…ッ…!)
 倒れたまま言うことを聞こうとしない重い体を、人混みの中で無理矢理に起こす。ここに来る途中もずっと叫び続けていたことで既に嗄れだしている声は、地鳴りのような咆哮と燃焼音の中では、既に無音にも等しい。
 誤算だった。余力のない状態で、パニックに陥って四方に逃げ惑う群衆を制御することが、これほど難しいものだとは思ってもみなかった。
(ながれが……流れが、速すぎる…!)
 怯え惑う人々を引きつけ、導く力が出せないでいるちっぽけな自分の周りを、堰を切った巨大な奔流が渦を巻きながら流れ下っていくイメージばかりが、しきりと脳裏を過ぎる。
(くそっ…!)
 九尾ならまだしも、己が守るべきはずの里の民に翻弄されていいわけがない。
(任されたんだろ?)
 やりますと応えたのは嘘か?
(ここで投げ出してどうする)
 何の役にも立っていないなどと歯噛みしたところで、何が始まる?

 苦労しながら再び立ち上がり、泣き叫ぶ少女を連れた全身煤まみれの母親に向かって「顔岩の下に…っ、待避壕が、あります…急いで…!」と途切れ途切れに言った時だった。
「?!」
 群衆の中に、見覚えのある姿を認めた気がして、息を呑んだ。
(――ぇ…)
 背後で子供を抱き上げた母親が頭を下げながら何ごとかを言った気がするが、もう何も聞こえない。その間にも周囲では真っ赤な火柱が黒天に駆け上がり、人々が長い時間をかけて築いてきた建造物が草木のように薙ぎ払われていくが、ぶつかられ、よろけながらもそのシルエットから目が離せない。
(――まさか…)
 痩せた華奢な体、高く括った黒い髪。
 当時気に入りで毎日のように着ていた白の上下。
 そして顔の真ん中にくっきりと刻まれた傷…。
(――もしや…)
 おかしなことに、肉親を認めるよりも、己自身を認める事のほうが、遥かに時間を要していた。時折自分で自分の気持ちが分からなくなる時があるが、どこかその感覚にも似て、果たして目の前のそれを信じていいのか何度もためらう。
 しかしその少年は、月夜に九本の尾を振りかざしながら、まるで見せ付けるかのように次々と高い建物を薙ぎ払っている九尾に向かって、夢中で人混みをかき分けながら進もうとしている。
(――あぁ…)
 それはまさに、悪い夢を見ているとしか思えない光景だった。そう、俺はこの場面を、十六年の間に一体何度繰り返し見ただろう。
 『これは、本当は夢なのではないか?』という思いが完全に捨てきれないまま、一歩、また一歩と少年に近付いていく。
 激流と化した群衆に真正面から逆行しようとしている小さな体は、なかなか前に進むことが出来ないまま、尚も死に物狂いになっている。
(……そうだ、諦めないで、――前に…進め…!)
 誰かとぶつかり、何度突き転がされてもその度に立ち上がり、またがむしゃらに人の波をかき分けているちっぽけな背中が、次第にぼやけて滲んでくる。
(…いいぞ……頑張れ…!)
 だが彼のすぐ側まで近寄り、もう手が届くと思った時だった。嫌というほど真正面からぶつかった見ず知らずの男に、「ダメだ、そっちは危険だ!」と激しい剣幕で怒鳴られたかと思うと、少年は見る間に細い腕を掴まれ、脇に抱えられるようにして逆方向へと引きずられだした。
「はなせー!!」
 彼の咽一杯の鋭い叫びが、いつの間にか己の頭や目や耳をすっぽりと覆ってしまっていた、目に見えない薄い膜のようなものを突き破る。
(…あ…!)
 その声に、己の中の記憶が即座に反応して共鳴しだした。

 ――とーちゃんと、かーちゃんが!
 ――まだ戦ってんだ!!


 赤黒い闇の中。少年がその小柄な体を懸命にばたつかせながら消えていくのを、ぐっと奥歯を噛み締めながら見届ける。
(…いいんだ…。――これで…、これで…良かったんだ…)

 他の誰でもない、この俺がそう思わなくてどうする。




 出し抜けにすぐ側で響いた、木と石で出来た大きな建物が一気に瓦礫の山と化していく轟音に、息を詰めながら顔を上げる。
(九尾…!!)
 いつの間にか随分と距離が縮まっていた。改めて近くから見上げるも、その途方もない大きさは視界を遥かに凌駕していて、全体を把握出来ない。
 莫大な量のチャクラが全く制御されることなく、無意味に撒き散らされている。まるで我々をからかい、見せ付けて楽しむかのように。
 天にも届きそうな九本の長い尾が、一つ一つ別の意志でも持ったようにしなり、咽の奥で低い唸りが響くと、木も家も人も、そこにあった形あるもの全てが一瞬にして轟音と共に薙ぎ払われ、一塊の瓦礫へと変わっていく。
 紅色の火柱が何本も踊り狂い腰を振りながら、逆立った体毛や剥き出された牙を赤々と照らしだす様は、まるでその行為を讃えているかのようだった。

「――なんで…」
 深いところから押し出されるようにして、乾いた震える唇から声が漏れる。
「…こんな…こと…」
 これが本当に人の世で起こる様なのだろうか。
 この世界に来る直前、銀髪の上忍が「行く先は地獄かもしれない」と言っていたことを今更のように思い出した。












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