「ぁ――」 
 家の中から微かに成人男性の明るい笑い声が聞こえてきて、今まさに中庭に向かって踏みだそうとしていた足が止まった。
 ここに来るまではひたすら「二人の顔が見たい、助けたい」と思っていたはずだ。だが実際に記憶のままの…いや、記憶より遥かに鮮明な光景を目の当たりにした途端、なぜか足が止まっていた。
 十六年前、九尾と戦った両親が亡くなったことで、中忍試験を前に明るい希望を抱いていた当時の俺は、失ったものの余りの大きさから、暫くの間「生きた骸」のようになった。もちろんその間も死なない程度の食事はしたはずだし、周囲の者達と会話も交わしたはずなのだが、今その時のことを思い出そうとしても、周囲の世界だけが自分を残して勝手に回っていたかのような、ひどく朧気で曖昧なイメージ的なものしか浮かんでこない。
 もしもあの時受けた傷が、自分の中のどこかにまだひっそりと、癒えきることなく残っているとして、今ここで、中にいる人物に声を掛けることが出来たなら。
 そんな辛い記憶は全て昇華され、何もかもきれいに消え去っていくのだろうか?
 今ここで中にいる人物に声を掛けて、未曾有の惨事を避けられたなら。
 同じような境遇を否応なく背負わされたことで、たった一人の幼い少年にその捌け口を求めた里の者達の心の傷も、払拭されて全て無かったことになる?
 それを、自分は本当に心の底から喜べる……のか?
「…………」
 たった数歩の距離が、こんなにも遠い。
(後悔しないのは…)
 一体どちらだというのか。



   * * *



(思わぬことに、時間を食ったな…)
 余力が残り少ないぞとひっきりなしに警告してくる、まるで他人のような重い体のまま、カカシは心当たりの場所へと急ぐ。
 頼りの兵糧丸は、さっきイルカに一つ残らず渡してしまっていて、回復の手段はもうない。持久戦になる前にと、一か八かで眠らせた少年の胸ポケットも念のために探ってみたものの、案の定そんな薬は入っていなかった。
(ま、当たり前か…)
 この頃の自分は左目の使い方もまだほんの一部しか分かっておらず、雷切以外の大技も無かったせいで、体力の限界を感じることなど滅多になかった。兵糧丸など持って無くて当然だ。
(たく…、帰ったら崖登りの行から出直しだな)
 ちなみに今の「自分との」戦いで一番消耗したのは、全力を傾けて発動した幻術などではなく、当時の己の姿そのものだった気がする。
 華奢なうえ移植したばかりの左目もまだ完治していないというのに気持ちだけが無闇に昂ぶり先走っている、その脆いくせに尖っている様は、毎日枕元の写真立ての中に見ていたはずのそれともまた違っていた。
 しかもその姿は、己の奥深くで時と共に癒えだしていた傷口に直接触れる鍵でもあったらしい。一気に押し広げるや否や、目の前に次々と生々しい記憶を蘇らせてくれていた。

 ――見殺しにした仲間、遠ざけた少女。
 ――救えなかった師匠。
 ――身内に置いて行かれた自分。

 時と共に遠ざかりだしていたはずの苦い後悔の味が、生のまま内側にじわりと広がっている。

(ぁー参ったねぇどうも…。まさか自分自身が一番タチの悪い敵だったとは…)
 嗤うに嗤えない。






(……会いに行くか、……このまま戻るか)
 今この瞬間にも、どちらか一方を独断で決めなくてはならないその重さから、イルカがほんの束の間迷った時だった。
(――なッ?!)
 全身の肌という肌を見えない何かで圧されたような、かつて感じたことのない異様な気配に、勢いよく振り返った。
(しまった!)
 体中の血が音を立てて逆巻き、肌という肌が一気に粟立っていく。
 里の中心部の方角に、茶色い小山のようなものが忽然と現れていた。皎々と輝く月明かりにくっきりと照らされたそれは、まるで己の存在を誇示するかのように、言いようのない堪え難い不快な気配を大気に放っている。
(九尾…!)
 イルカがそちらに視線を向けるや、小山のようだったものはゆっくりと動きだし『見つけたぞ、今の気配はお前だな』とでもいうように、くるりと頭だけをこちらに振り向けた。どす黒い両の口唇がめくれ上がり、そこから巨大な鋭い歯が見えると、『貴様が先の未来で受けた命令も、辿ってきた経緯も、そしてお前がこの先どうなるかも全てお見通しだ』と嗤ったように見えた。
「!!」
 耳で聞こえそうなほど内側で猛烈に逆巻いていたはずの血が、瞬時に凍りついていた。足はまだ動けるはずだが、まるで頭がどこか高いところにクナイで留め置かれて、ぶらりと磔にでもなったかのように力が入らない。
 続いて妖狐が勝ち誇ったように腹の底から放った咆哮は、耳の奥深くを鋭く尖ったもので突かれたようだった。
「つッ…!」
 お陰で自分を留め置いていたものからは逃れられたが、直後に室内から縁側へと飛び出してきた二人の人影と、幾らも離れていない場所で対峙してしまっていた。もう否も応もない。悩んでいる暇など無い。
 ぐっしょりと嫌な汗に濡れ、乱れる息を詰めたまま、二つの横顔を食い入るように見つめる。
「なんだ、何があった!」
「なっ、なんなのあれ?!」
 二人は背の低い生け垣の向こうで半ば呆然と立ち尽くして、既にこちらに背を向けてしまった妖狐を見上げている。
「ぁ…」
(――あぁ…)
 あの日を境に止まってしまっていた時間が、再び確かな血肉と温もりをもって刻々と刻みだしているのを、はっきりと感じる。
(本当に、あの日のまま…)
 ようやくそのことを抱き締めるように実感する。
 最も恐れていた事態が始まったというのに、青白い月の光に照らされたその懐かしい二人の顔を、最早見るなという方が無理だった。

「火影邸の方角だ、行くぞ!」
 すぐ近くにいるのに、どこか遠くから響いてきたようにも感じる懐かしい声にハッとして、思わず制止の声が上がる。
「待って!」
 何も知らない二人に、一体なんと言ってこの事態を説明しよう? どう説明すれば、彼らに自分の言動を信じて動いて貰える?
 あの四代目ですら、本来の姿を見せてもまだ半信半疑で、完全には事態を説得しきれなかったのだ。もう変化はしていないとはいえ……いや変化をしていないからこそ、余計に理解が得られないのでは…? という気がしていた。
 だがここに辿り着くまでの間ずっと考え続けていたにもかかわらず、全く解決の糸口など見えなかったはずのそれに、思い掛けず、ほんの一瞬で解が与えられていた。
「! お前は…」
 室内に向かって踵を返そうとしていた黒髪の男の目が、こちらの姿を視界に入れた一拍後、何かに気付いたように、大きく見開かれていく。
(いける…!)
 何の根拠もなかったが、瞬間『繋がった』と思った。

「――はい」
 その問いに応えるようにゆっくり頷きながら、こちらも真っ直ぐ見つめ返すと、男の隣にいた女性もあっと声を上げて息を呑み、その視線が食い入るものになっていく。
 深く濃い血の繋がりは、十六年という時の流れなどものともせず、軽々と跳び越えられるものだった。例えそれが常識では説明出来ない事であろうとなかろうと、己の中の『血が教える』という事が確かにあるのだと、身をもって実感する。
『目の前にいる者の中に、愛する女と自分自身を見た』らしい男は、先程の動揺から一転、少しも波だったところのない穏やかな、そしてしっかりとした声で、「いいから、そんな所に立ってないで。こっちへ来なさい」と言った。


「…はい」
 周囲がかつてない異常な事態に包まれていたからこそ受け入れられたのかもしれないが、まるで眩しいものでも見るような目元の二人に呼ばれるがまま、中庭へと入っていく。
 恐らく今ここで「実は自分は十六年後の未来から来ました。理由は…」などとやおら説明を始めたところで、逆に混乱を招いて貴重な時間を浪費するだけだろう。
 もう血のレベルでは受け入れているのだろうけれど、まだ言葉では何と言っていいか分からずに少し戸惑っている二人の目の前まで進むと、イルカは万感の思いを込めてただ一言「会いたかったです」とだけ告げた。
 だが向かいの二人はその言葉が聞こえているのかいないのか、縁側に膝を突いて黙ったまま、しげしげとこちらを見つめている。もう手を伸ばせばしっかりと触れられる距離だ。記憶より幾分小さくなった感のある二人の体にこの両腕を回すことは、きっととても簡単だろう。
「お二人に、お願いがあって来ました。大至急、里の人達を安全な場所に避難させて頂きたくて。――お願いします」
 しかし頭を下げたまさにその時。
 背後で大きな地響きがして、何か巨大なものが倒れ、更に勢いよく踏みつけるような音がビリビリと空気を振るわせた。
(っ?!)
 振り向くと、幾重かの建物の向こうでガラスの割れる音や無数の怒号や叫び声が、夜空に向かって一斉に上がりだした。早くもチラチラと赤い炎が垣間見えている。
「!」
 一旦は収まりだしていた焦りが、再び否応なく募りはじめた。もうはや九尾の破壊行為が始まっている、一刻の猶予もない。
「急いで! このままではこの里は壊滅的な打撃を被ります。皆に火影岩の裏の壕に避難するよう、大至急指示を出して下さい!」
 彼らの指示なら、こんな非常事態でも皆耳を貸すだろう。子供心にも、彼らが里の人々に信頼されていたらしいことは、それなりに分かっていたつもりだ。
 けれど、神経を逆撫でするような凄まじい破壊音を耳にして我に返ったらしい男は、一瞬で焦点の合った険しい顔付きへと変わった。
「待て。あれは尾獣だな? しかも九尾狐なんじゃないのか?」
「そうです。ですから一刻も早くお二人に誘導を」
「悪いけど、それは出来ないわ」
(な…っ)
 背筋がぞくりとした。その静かなのに怖いくらいきっぱりとした彼女の声音は、当時自分が本当に悪いことをした時くらいしか耳にすることのなかったものだ。
「避難の誘導は他の者でも出来るはずだ。今は負傷者が多くてまともに戦える者が限られている。我々は、我々にしか出来ないことを果たさなくては」
 そう言い切った男の袖口や女の首元からも、白い包帯が見えている。
「ぃゃ、ちが…、待って…話を…っ!」
 固い意志に貫かれた声を遮り、何とか状況を覆そうとするものの、背後から建物の崩壊していく大音響が被さってきて端からそれを掻き消していく。
(…話を…っ)
 この事態の行く先を唯一知っているはずの自分が肝心の流れに乗れてないらしいことに、焦りばかりが掻き立てられる。
 そうこうする間にも、二人は素早く目配せをしたかと思うと一度だけ頷きあい、ほぼ同時に立ち上がった。
(――あぁ、そうだった…)
 この二人は普段は割とよく喋る方だったのに、いざとなると一言も会話を交わさずとも相手が今何を思っているかを驚くほど子細に分かり合えていることがあって、子供心にも常々不思議に思っていたのだった。
 そのぴったりと寄り添い合うような呼吸を見て、引き止めようと伸びていた手がふらりと下がる。

(――そう、か…)
 当時の俺はその二人が心底羨ましく、何とか早くそこに仲間入りしたくて仕方なかった。でも出来なかった。
 けれど気付けばいつのまにか、こうして分かるようになっている。












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