大気が動いていない。
 異様なほどのこの無風状態は、ことのほか残暑の厳しかったあの当時によくあった現象か、はたまた怯えが生み出す錯覚か。

(ったく…)
 長時間の変化と拘束ですっかり消耗したうえ、体の節々が痛むらしく、精一杯気を張っていることが容易に伺える足取りで一度も振り向くことなく遠ざかっていく男の後ろ姿を、カカシは分厚い扉の前で黙って見送る。
(流石に…やってくれる)
 当時の四代目火影という男は、常識に囚われない柔軟な考えの持ち主で、無益な殺しもしない代わりに、必要な責め苦とあらば何の迷いも慈悲もなく、それこそ「朝起きたから顔を洗う」という習慣と同レベルで実行出来る男だった。
 しかもその凛として整った風貌からか、或いは一切の無駄がない手際の良さからか、はたまたその自在な人柄からか、彼は相手に相当手荒なことを強いても、第三者の目にはさしてそうとも映らないという、そんなところまでも統率者たるに相応しい、最良の特質を兼ね備えていた。
 精神的苦痛を最大限利用した尋問もその一つだ。人心を掴むのがことのほか上手かった彼は、別段何らかの術を使うこともなく、言葉だけで相手を追い詰めて屈服させる天才だった。
 思えば、当時まだ幼い部分の色濃く残る我々弟子達に対しても、一度も隠すことの無かったその「非道もまた正道である」という教えは、確かに今もオレの腹の奥で無表情に息づいている。だが、そいつが他でもない己の思い人に向けられたとなると、思いは複雑だ。
 女子供に対してはもちろんのこと、一旦里の仲間だと認識した者には、とかく防御の壁が薄くなりがちなイルカのことだ。他でもないあの四代目を前にして、黙秘と無抵抗を貫きながら何日も板挟みになったとなると、どれほどその骨身をすり減らしたかは想像に難くない。
(オレの顔も、ロクに見えてなかった…)
 随分と消耗していたらしく、夜目が全く効かないまま言動や気配だけでオレだと認識していたようだが、そんな状態のまま行かせてしまって本当に良かったのだろうか。
 不安は去らない。

 暗部に囲まれて軟禁されていたこの三日間。来るべき時のために可能な限りチャクラを温存し、慎重に脱出の機会を狙いながら考え続けていた。
 寝返りや成り済ましなどが何ら珍しくない忍の世とはいえ、ご意見番の起こした一連の謀反のせいで、イルカを除く全ての味方が一瞬で敵へと変わってしまっている。しかも彼らに対しては安易に手出し出来ないばかりか、過去の世界に至っては正体を知られることすら何が起こるか分からないだけに、双方単なる敵より遥かに始末が悪いときている。
 付き合いの長い気心の知れた上忍連中は、折り悪く出払っていて里にいない者も多く、居る者とてまだこの事態に気付いてはいないだろう。誰もが皆「まさか」という名の地平の上で、今も変わらぬ日々を送っているはずだ。
 そんな中、「根」の頭である鷹派のダンゾウにだけは「昨今の木ノ葉はぬるい」と事ある毎に言わしめていたのだが、今まさにその甘さ加減を露呈する一大事へと発展してしまっていた。
 彼らはナルトの中にある『兵器』にことのほか興味を抱き、万一の有事の際に効率よく活用するための情報を、咽から手が出るほど欲しがっている。特に暁討伐からこちらは、尚のことその傾向が強い。連中達の双眸には、『九尾を宿したナルト』ではなく、『人柱力の中にいる九尾』が映っている。
(多少なりとも陽の当たる所で暮らす者は、とかく日陰の存在を忘れがち、か…)
 逆に暗い土の下からは、陽光に向かって少々縦横に広げすぎた感のある、今や巨木となった枝葉の隅々までが、さぞかしよく見えていたことだろう。
 最早頼れる者はいない、いや頼ってはならない。少なくとも根の者が気付いて余計な動きを始める前に、己で何とかしなくては。
 ちなみに、イルカが九尾に関しての何らかの重要な情報を得て戻ったとしても、喜ぶのは根の連中や老い先の短い者達だけで、彼自身の手の中には一つとして美果は残らない。
 なぜなら彼は、その報酬としてオレとの交際が認められようとなかろうと、そんなことにはさして興味がないだろうから。
(あの人はただ、彼無しでいられなくなってしまった、どうしようもない上忍の歩調に合わせてくれようとしているだけ…)
 そうだ、分かってる。
 だからオレは、もう二度とないであろうこの好機に、他には何一つ願うことなどなかった無欲な男が初めて望んだ願い――「再会」を叶える。


 片手でゆっくりと分厚い鉄の扉を閉めると、同時に息が詰まるような漆黒の閉鎖空間が生まれて、その想像以上の重さに(なるほど、これは堪えそうだな)と口布の下で頬が片方上がる。
 今回自分の上に突然ふりかかってきたこの一件が、一体何に対する罰なのかは知らないけれど。
(ま、心当たりならごまんとあるから受けてやる)
 結果としてあの人が少しでも満たされるなら安いものだ。
(イルカ……、分かってるか…)
 今頃どの辺を走っているだろう。辛うじて倒壊を免れたことで、後に夥しい数の遺体安置所と化すアカデミーの辺りか。それとも完全に倒壊して、基礎から再建することになる火影官邸か。

(いいか? 例えどこで、何を見たとしても絶対に……迷うなよ)
 オレ達はもう、同じ地獄を一度見ている。




(――来たな…)
 やがてイルカの気配が消えていった地下通路に、ごく微かだが新たな気配を感じて、気殺しながら壕の奥へとゆっくりバックする。
 さっきまで居たあの未来の世界と同じく、ここもまた『味方が味方でない』世界だ。ここでは例えそれが己自身であったとしても、心を許してはならない。

(さーて、気が強いだけの鼻持ちならないガキにどうお引き取り願おうか)
 幸か不幸か、己を軟禁していた暗部達を幻術で制圧し、無茶を承知でこの時代へと飛んだことで、大量のチャクラを消費してしまっている。己そのものや、その身に起きた“全てを無かったことにする”絶好の機会と分かってはいても、一思いに消せるほどの余力は無い。

(ふ、どこまでも生き汚い奴だな…)
 小さく嗤いながら、部屋の隅で右目を閉じた。



       * * *



(――なんて、なんて懐かしい…)
 こうして夜の帳が下りだした町並みを実際に目の当たりにすると、十六年という歳月が過ぎる間に、随分と自身の記憶の端々が風化してきていたことを思い知らされる。
(こんなにも穏やかなのに…どうして…)
 目に映る何もかもが、胸に痛いほど迫ってくるのを感じながら、イルカは先を急ぐ。
 いや、実際のところ駆けているのは気持ちだけで、足は思ったようには動いていない。子供の頃は高い障壁に囲まれた里をもっとずっと広く感じていたはずなのだが、年を経るにつれその物差しは縮んでいき、ついに今では「里は狭い」という認識に変わっている。
(くそ…っ、足が…)
 兵糧丸の効きの悪さに焦りが募る。この分では手持ちを全て飲んだとしても、果たしてどれほどの働きが出来るか酷く心許ない。まさか余力が残り少なくなってきたことで、もう一度当時の頃のような「里の広さ」を感じることになろうとは、思ってもみなかった。
(まだだ…。まだ、来るな…!)
 ついさっき半信半疑で出て行ったばかりの四代目が、どこまで対策を講じることが出来ているかは分からない。でもこちらでも相応の力を持った者達に応援を頼むことが出来れば、そこから避難誘導の道が開けるはずだ。
(壊したくない……壊せない…)
 最初のうちこそ、「個人的な感情から、過去の世界を変えてはいけない」と思っていたが、それはあの時代に生きる者の建前であって、今まさに災厄が訪れようとしているこの世界に身を置いた者の本音とは、次第に乖離しだしていた。
(そうだ、誰も死んではいけない。死んでいいはずがない。死んだら…)
 そこで一切は途切れ、終わってしまう。




『――じゃあ約束だよ! 中忍試験に受かったら…』
 懐かしい景色に引っ張られるようにして、当時己が発した言葉の数々が昨日のことのように耳元に甦ってきて、イルカは(ああ、そうだったな)と胸を熱くする。
 確かその夜は、父が『イルカ、お前が中忍試験に受かったら、お祝いをしなくちゃな』と言いだして、側で洗濯物を畳んでいた母が「イルカは何が食べたいの?」と言ったのだ。
 それで俺は薄い掛け布団を勢いよくはね上げながら、即座に「一楽のラーメン!」と、数日前に初めて父に連れて行って貰ったばかりの店名を挙げたのだった。
 当時両親は任務で負傷することも珍しくなく、補償を受けながらも生活は決して豊かな方ではなかったはずだが、一つ屋根の下で暮らしていた俺がそれを意識したことは一度もなかった。
 ただそれまではテーブル席や座敷にしか座ったことがなく、生まれて初めて父と二人でカウンタというものに座った俺は、味はもとより、店主との対面式の設えや足の付かない高い椅子に、何やら父と一対一の大人の関係になったようで、すっかり気に入っていたのだった。
「…なっ?! ラーメン? ラーメンて…ラーメンか?」
「もう〜、ラーメンなんていつだって行けるじゃない。折角なんだから、もっと違うものにすれば?」
 心底意外そうな顔をする父の隣で、母が小さく噴き出す。
「ハハハ、ラーメンか〜。こないだ連れて行ったのがそんなに良かったか、イルカ?」
「うんうんっ! ねえ、いいから母ちゃんも食べてみてよ。ほんとーにウマイんだって!」
「はいーはい、分かったわ。そんなに美味しいものなら、そうそう何度も男二人だけに楽しませておく手もないものね」
 そう言いながら笑った母は、畳み終わった洗濯物を年季の入った箪笥にしまっている。
「よし、じゃあイルカが中忍試験に受かったら、三人で一楽にラーメンを食べに行くか!」
「やったぁ! ね、俺、ぜんぶ乗せでおかわりしていい?」
「あぁ、いいぞ。合格すれば父ちゃん達と同じ階級になるんだからな、遠慮するな」
「うわぁ〜やったー! よーしっ、絶対頑張るぞぉ!」
 母が床に入ったのを見届けてから、身を捩りたいような気持ちのまま再び半身を布団に横たえる。と、畳まれていた洗濯物からと思しき太陽の香りがまだ辺りに微かに残っていることに気付く。
 父の長い腕が枕元の明かりを消すと、俺はその匂いを胸一杯に吸い込んで目を閉じた。





「――…っ、はぁっ…!」
 体を折り曲げ、両手を膝の上に乗せた格好で、上がったままの息を何とか鎮めようと試みる。
(これで、最後か…)
 ポケットを探って、別れ際に上忍に貰った兵糧丸を取り出すと、渇ききった咽で苦労して飲み下す。するとほんの僅かばかり奥底に力が戻ってきたようにも感じるが、果たしてそれが薬のお陰なのか、或いは気のせいなのかは判然としない。
 目の前には月明かりの下、一段と目に馴染む小さく古びた木造の家屋がぽつんと佇んでいる。庭には当時そこの家主が育てていた秋桜が揺らいで、開け放った縁側からは、橙色の明かりが漏れていた。
(あぁそうだ、確かに……確かにこうだった…)
 その光景は余りにもあの日のままで、かえって現実とは思えない程だった。











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