「――なに、泣いてんの」
「ッ――」
 闇の中から出し抜けに声が飛んできて、ギョッとしたイルカは息を詰めた。
(…そう、か。…もう、来たのか…)
 その声は遥か以前にも、そしてつい最近も聞いた覚えがある。耳の奥深くにまで心地よく馴染んだ優しい響きだ。まだ少し高めで軽い所があるのは、体が出来上がってないからだろう。当時十四才だったはずの彼の姿を目にすることは殆ど無かったが、たまに見かけた彼の体格はまだ華奢といってよく、一つ年上なのにもかかわらず自分と殆ど変わらなかった印象がある。
 声のした方にちらりと意識を向けると、案の定漆黒の闇の一角に、緋色の丸い珠が一つ、ぽうと浮かんでいた。
(――やはり、な…)
 魅入られるような鮮やかな色についじっと注視してしまいたくなるが、その危さは百も承知だ。望まない出会いに天を仰ぎたくなる衝動を抑え、地面に這いつくばったまま目を閉じる。
 変化はしない。両手を拘束されているし、やれるだけの余力が残っていないせいもあるが、どのみちしても意味がない。チャクラを練った瞬間に看破してしまう瞳を持つ者に、自分が講じる策などあろうはずが無い。
(確かもう、上忍のはずだな)
 六歳で中忍になったと聞いた。六歳と言えば、自分などようやくアカデミーに入ろうかという時期で、走っていて転んだら間髪入れず泣いていたような年頃だ。そんな頃からもう既に実戦に出ていたなんて、信じられない。
(そして今こんな所で、上忍になったばかりのあなたに会うなんて)
 もしかしたら、この世界で終わる事になるであろう自分を哀れに思った『見えざる力』が、当時知ることの出来なかった思い人のかつての姿を見せてくれようとしているのかもしれないな、などと思う。
(そうだな…そういう最期も、悪くない…か)
 ただ、何も知らないまま大人の俺と関わってしまい、そのせいで未来にいるあの人の人生までが掻き乱されてしまうのは本意ではない。いや、それだけは何としても避けなければ。
 やはり別人のふりをするのが一番だと、最終的には顔を伏せた。


「そこのあんた、名前は?」
 最初こそこちらの様子を慎重に伺っていたものの、掛けられた問いを無視して口を噤んでいると、幾らもしないうちに焦れたらしい声が続く。
「ねぇ、なんで黙ってんの? あんたが起きてるのは知ってるよ。なんかいいなよ」
 上手いこと「喋る気がないんだな」と諦めてくれればいいのだが、意外と物怖じしない様子に(そりゃあれほどの実力が備わっていれば当然か)などと巡らす。
「…変なやつ」
 ついにはムッとしたらしい気配にも、(へぇ相手にされずに拗ねてる所なんて、まだまだ子供だな)などと微笑ましく思った時だった。

「――ねぇったら。顔、見せてよ」
 突然、すぐ目と鼻の先で声がして肝が冷えた。
「…っ、やめ…っ」
 そこからはもう取っ組み合いだ。いやこっちは両手が効かないのだから、実際はただひたすら顔を見られないようにと、声を殺して芋虫のように藻掻くだけなのだけれど。

 勝敗は呆気ないほど一瞬でついていた。所詮余力がなく、両手の使えない者が幾ら抵抗したところで、上忍相手では勝ち目など無い。地面に倒れたまま、まだ幾分小さな両手で勢いよく顎を持ち上げられたところで観念した。
「――ふうん…?」
 目の前の少年が、まじまじ、しげしげとこちらを見ている気配がする。
「…っ、離せっ、見るなっ…」
「なんで? ――オレじゃ、不満ですか?」
「?!」
 突然、怖いくらい耳に優しい低い声が身体の芯を走り抜けて、背筋が震えた。
「――カカ…シ、せん…っ?!」
 全部言い終わらないうちに生温かいものに唇を塞がれて、色んな意味で目眩がして意識が遠のく。
「…ん……っ…?!」
 何がどうなってこうなっているのか、全く分からない。強引に口の中をまさぐられ、忙しなく舌を吸われるうち体に刻まれた感覚を無理矢理呼び起こされて、これが夢なのか現実なのかも曖昧になってくる。
「――っ、ふ…」
 暗闇に発光しそうなくらい全身が熱い。
「…よかった…。どれだけオレが…逢いたかったか…」
 あなた分かりますか? こっちは今にも頭がおかしくなりそうだったよというような、まるでうわごとのような上忍の声を遠くに聞いたような気がするが定かではない。


「――九尾出現までもう一時間もないって分かってはいたんだけど、見張りに付いてた暗部を眠らせるのに思った以上に時間がかかってね。ごめんね」
 話の合間にも繰り返し唇を重ねてくる上忍に、理性を総動員したイルカがその手を払うようにして首を振り振り状況を手短に説明すると、両手の自由を奪っていた鉄線がようやく取り除かれた。

 ずっと同じ格好を強いられていたことで、冷えて強張った手指をイルカがぎこちなく撫でさすっている。 
 その色の悪くなった肌の上を無数の傷が覆っているのを見た上忍は、深く下ろした額当ての下から見えるほどまで、その形のよい眉を寄せた。
「えッ? ちょっ…しかもなんですかこれっ?! こんなものまで付けられてっ!」
 勢いよくイルカのアンダーシャツの襟を引き下げた男が、首筋を触りながら暗がりで忌々しげにぶつぶつと呟いている。少年の姿に変化していたのは、万が一誰かに見つかった場合に不審に思われないための策だったらしいが、何やら中身まで子供っぽくなっているような気がするのは気のせいだろうか。
「すみません、俺が軽率なことをしたばっかりに…」
「まったくね。ちょっと目を離したらこれだから…あぁいや、話は帰ってから聞こう。大丈夫、もう過ぎたことだ」
 その言葉に改めて申し訳ない気持ちになるが、もう一度抱き寄せられて耳元に掛けられた言葉に胸を衝かれた。
「行って」
「ぇ…」
「あなたがここに居たら、ますますややこしいことになる。その首の印を辿っていつ四代目が来るかも分からないでしょ。オレ、いつだったか『四代目と戦ってみたい』なんて言った気もするけど、今はそんなことしてる場合じゃないからね。――早く、行って」
「でもっ…もうすぐここに、子供の頃のあなたがっ」
「オレのことなら心配しなくていい。もう…何て顔してんですか。このオレが、上忍になったばかりの自分如きに負けるわけないでしょ?」
 暗すぎて殆ど何も見えないけれど、彼が今どんな顔をしているか、可笑しいくらい容易に想像出来る。
「…そう、ですね」
 暗闇の中、眩しいものを見るような目で小さく頷いた。

「ね…その前にもう一度だけ。――キスしていい?」
「…っ……」
 そんな時黙っているのはイエスの意味だと、暗黙の了解になったのはいつの頃からだったろう。
 以前からなぜわざわざ伺いを立てる必要があるのかとずっと訝っていたけれど、上忍の体裁より中忍の意志を尊重している姿勢を疑問に感じる自分の考え自体を改める必要があるのかもな…、と遠くで思う。
「…ありがと」

 図らずも束の間訪れた穏やかな時間に、いつになく胸を締め付けられた。


 まだ名残惜しそうな上忍から離れたイルカが扉の前で振り返り、真っ直ぐ男を見つめる。
「なに、どうかした?」
「いえ、そのっ………向こうで必ず、会えますよね?」
 まさかとは思うが、この先進退窮まった時に、変な気を起こしたりしないだろうかと、急に予感めいた不安が内側を過ぎっていた。今の今まで自身も似たようなことを考えていたことも忘れ、男に念を押す。
「あぁ。一緒に帰ろう。後できっと迎えに行く――でもくれぐれも…」
「誰にも会わないように、ですね」
「約束して」
「――――…」
「出来ないなら、行かせない」
 その声音には、今までにない本気が滲んでいた。彼の一つしかない本心をそこに見た気がして、思わず声を押し出す。
「……約束、します…」

 上忍に手伝って貰いながら重い鉄の扉を押し開け、体の通る隙間が開いた瞬間、イルカは素堀の長い廊下へと飛び出した。彼の視線を痛いほど背中に感じても、一度も振り向かなかった。

(…カカシ先生……ご無事で…!)
 もし彼が自分を連れ戻しにやって来ただけなら、そのまま一緒に外へ出たはずだ。だが彼は、俺がどこに行って何をしたがっているか、薄々勘付いていたのではないだろうか。
 とてつもなく大きなリスクを背負いながらも、他でもない俺のために今暫くの時間稼ぎをしてくれようとしていた。
(…ごめんなさい…)
 そんな最中、彼に対して初めてついた嘘がどうしようもなく後ろめたくて、とても振り返ることが出来なかったけれど。
(――ありがとう、ございます)
 与えられた時間は決して無駄にしない、と固く誓った。





(――もつ、だろうか…)
 走り始めてから幾らもしないうちに、足の重さに堪えかねた俺は、ポケットにあった兵糧丸を一粒口にしていた。しかしこいつは、効くのも早ければ消えるのも早い。
(急げ、今のうちだ)
 もうすぐ瓦礫の山になることなど知るはずもない、軒先のきれいに連なった、胸を掻きむしられるような懐かしい里の光景が目の前に広がりだすと、当時の記憶が体の奥から一気に湧き上がってくる。
(頼む、間に合ってくれ…!)

 夜の帳が降り始めた里は、何も知らないまま、静かにあの時を迎えようとしている。
 九尾襲来のあの日。
 当時まだ十三やそこらだった俺は、初めての中忍試験に備えて、毎日演習場に通って一人で修行をしていた。そしてそのせいで、今日もまた帰宅が遅くなっているはずだ。
(――一目で、いいんだ…)
 ただ諦めてひたすら堪えるしかなかったものに、ふと一筋の希望の光が垣間見えたとき。
 それを手繰ろうとする力は限りなくただ一点へと向かいだし、誰にも止めようのない大きな力となって廻りだす。

(遠くからでいい。ほんの一目だけ…)
 二度と動かなくなった過去という名の時間は、その対価として、今もその場で渾身の輝きを放ち続けている。

(あいたい…!)
 一言も交わせぬまま別れた、あの人達に。

 会いたい。
 逢いたい。
 優しい声を聴きたい。

 もう一度だけ。












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