「――独りが、だいぶ堪えたみたいだね?」

「…!」
 鉄扉の開く気配など微塵もないまま、漆黒の空間に出し抜けに響いた柔らかな声音に、糸の切れた人形のように力なく地に伏していたイルカは、その体をびくりと強張らせた。
 もう何百回「眠ってはいけない」と自身を叱咤し続けているか分からないが、ふと気付けば意識の沈下と浮上を繰り返してしまっている。もはや時間の感覚はない。今が昼なのか夜なのかすらも全く分からなくなっていた。
「どう? 洗いざらい話す気になった?」
 壁際で随分と短くなった蝋燭に火を灯すと、金髪の男が音もなく歩み寄ってくる。
「…………」
「ね、もしかして君は…木ノ葉の忍?」
 屈み込んできた男に、いきなり問われてハッとなる。
「…?! ぃぇ、その…っ、どうかそれだけは、訊かないで…下さい…」
「困ったな、あれからまた僕なりに考えてみたんだけどね。確かに辻褄の合わない話は山ほどあるけど、それを一度思い切って取っ払って、とても演技には見えない君のその真剣な口調とか表情なんかを一つ一つ思い返してみるとね、僕にはもはやそうとしか思えないんだよ」
(火影、様…)
「イルカ、そろそろ何もかも話してくれないかな? もし君が本当に木ノ葉の忍だとしたら、これ以上同胞を無闇に痛い目に合わせるのは、火影としても僕個人としても避けたいんだよ。――分かるね?」
 とその時、火影の掛けてくる穏やかな声にどこかぼんやりとしていたイルカが、突然カッと目を見開いた。まるで遠くを浮遊していた彼の魂が、勢いよく胸に飛び込んだような表情に、火影の青い瞳を縁取っていた睫毛が僅かに動く。
「――ッ、そうだっ、今日は、何月何日ですか?! 今はっ、いまは何時っ?」
「イルカ、落ち着いて」
 里長の宥めるような声にも、その降って沸いたような動揺はおさまる気配がない。屈み込んできた男に肩を押さえつけられながらも、イルカは食いつくように伸び上がった。
「時間がっ、もう幾らも時間がないはずなんです!」
「大丈夫だ、外は静かだよ。他里の忍なんて、気配どころか影もない」
「当然です! 災いをもたらすのは忍じゃない!」
「ぇっ? じゃあ…?」
「九尾…なんですっ!」
「――なん、だって?!」
 彼にとっては余りにも突拍子もない、意外な答えだったらしい。だがそれも無理もないことだ。今でこそ戦の最終兵器として奪い奪われるまでになった尾獣だが、十六年前の当時は存在こそ知られてはいたものの、どちらかと言えば疫病や天災に近い存在だった。

「なぜこの里に突然九尾が襲来したのか、その理由は俺にも全く分かりません。どうして十月十日なのかさえも未だに分からない。でもこの里を壊滅させにやってくる事だけは……それだけは間違いないんです。俺はその分からない部分…出現の理由を調べるために、この時代のこの日に送られてきたんです」
「ね、ちょっと待って。それって本当に今年の十月十日なの?」
 四代目がまだ信じられないと言いたげな顔で話を遮ってくる。
「ええ、はい。それだけは」
 どうしようもない現実なのだと、己の中に深く刻み込まれた記憶が叫んでいる。
「ん…そうなんだ…」
 だが、イルカの瞳の奥をじっと見つめていた男は、一つ大きく息を吸うと、意外にもしゃんとした張りのある声をあげた。
「さてと、じゃあどうするかな…――ははっ、でも不思議だよね。どうして初対面の君の突拍子もない言葉をこんなに馬鹿正直に受け入れようとしてるのか、自分でもいまだに理解に苦しむよ。ただもうここまでくると、信じようって気にさせられるとしか言いようがないんだけどね」
 そう言うと、男はまだ十代の面影が残る口元をふっと綻ばせた。
「ねぇイルカ、君は誰? 本当は何者なの? 知っているようで知らない、届きそうなのに届かない。なんだか気になってたまらないから早く全部知りたいのに、何となく辛い目には遭わせちゃいけないような気もするし。――んー参った、降参だよ」
 里長はきゅっと両肩を竦めたかと思うと、おどけたように片手の平を上に向け、小首を傾げた。
「すっ、すみません。俺もどうしたらいいのかずっと判断に迷ってて…。でも今はとにかく時間がないんです。お願いします、教えて下さい。今日は、何日なんですか?」
「――その、十月、十日だよ」
「!!」
 思わず息を詰め体を強張らせるその様子を、向かいの男がじっと見つめている。
「時間は……あぁ午後五時を回ったところだね。もう幾らもしないうちにきれいな満月が昇り始めるはずだよ」
 男は懐から取り出した銀色の懐中時計にチラと視線を落とした。その声音は相変わらず月明かりのように穏やかだ。
「なッ…?!」
 その先の言葉が出ない。己が無意味に費やしてしまった空虚な黒い時間に、頭が真っ白になっていく。
「…嘘…だ…」
「嘘じゃない。今さらそんな下らない嘘で引っ掛けて対抗しようなんて思ってないよ。今この時は、十月十日の夕刻という紛れもない現実だ」
 男は銀色の鎖を指に掛けた格好で、時計の白い盤面をイルカの方へ向けて見せた。その細い針は、確かに十二と五を指すべく、刻一刻と動き続けている。
「――分かり、ました。…なら……ならこれで、私の言うことを全てを信じて、今すぐに動いて下さいますか?」
(ままよ…!)
 覚悟を決めたイルカは、後ろに手を回したままの格好でくっと顎を引いた。薄く目を閉じると、この数日間持てる余力を刻一刻と削りながら、いついかなる時も維持し続けていたチャクラを断つ。
 やがてそこに現れた支給服姿の男に、咄嗟に身構えていた里長が詰まったような声を上げた。
「っ…君、は…っ?!」
 見る間に里長の真っ青な瞳が、大きく見開かれていく。
「驚いたな…。まさか君、――うみの、さん…?」
「――の息子の、イルカです」
「イル……あぁでも確かにその顔の傷は…、でも…あぁしかしイルカは確かまだ……、いや信じられないな、そんなことが本当に可能なのかい?」
 今度は火影の方が慌てる番だった。
「はい。詳しいお話しは出来ませんが」
「じゃあ、九尾は本当にこの里に来ると思って、いいんだね?」
「ええ、はい。まず間違いなく」
 言うと、火影は小さな顎に指を当ててじっと考え込んでいたものの、暫くしてすっと顔を上げた。
「まだにわかには信じられない部分もあるけど……でも、君がうみの君の息子だというなら、今まで君が話していた色んな事との辻褄は確かに合ってくるしね。――そう、君がおかしなくらい真っ直ぐで、笑っちゃうくらい不器用で頑固なところとかも」
 こんな非常事態だというのに、言いながら口をへの字に曲げて、浮かんでくる笑いを噛み殺している。どうやらその辺には大いに心当たりがあるらしい。
「信じて、下さいますか」
 区切った言葉に、力と思いを込めた。今の彼の表情を見たことで、これでようやく自分という「あり得ない存在」が受け入れられたのだと確信する。
「そうだね、ひとまず君の言うことを全面的に信じることにしよう。もし違っていたとしても、備えあれば何とやらだしね。…ただここから出すわけにはいかないよ。僕は今から邸に戻って万一の時のための策を講じておきたいから、替わりの者に見張っていて貰う」
(なッ?!)
「そんなっ…待って! ――…っ!」
 駆け寄ろうと後ろ手に縛られたまま膝を立てた時、目の前に濃い白煙が濛々と湧き上がって、その勢いに身動きが出来なくなる。
「パックン、急ぎの用が出来たよ」
「なんじゃ」
「大至急カカシを探して、ここに来るように伝えてくれる? 中にいる者を見張れ、とね。『もっと他に何か情報はないのか』と言うかもしれないけれど、知らないと言っておいて」
「待ってッ!! 待って下さい! それだけは…っ!」
「承知した!」
 小さな犬は、四代目の開けた鉄の扉の隙間から、茶色い飛礫となって飛び出していった。
「イルカ、君が本当に木ノ葉のうみのイルカなら、分かってるとは思うけど、念のために言っておく」
 里長が目の前で膝を突くなり、口早に切り出す。
「何があっても、絶対にカカシの前でおかしなことを考えるんじゃないよ? あの子はとても賢いけれど、この一連の事情を知らない以上は、見ず知らずの大人の君が何をどう言ったところで、まず同胞だとは信じないだろうからね? 間違っても写輪眼に対抗しようなんて考えちゃ…」
「分かってますっ、分かってますから! ならこれをっ、せめてこれを解いて下さい! お願いします! お心には決して背きません、約束しますっ!」
 背中で一つにまとめられた両腕を差し出すようにして、上半身を動かす。
「ごめんね、イルカ。君を信用してない訳じゃないけど、多分その枷が君を守るはずなんだ。そうしてる限り、カカシは絶対に君を傷付けたりしないはずだから。いいね、イルカは何も心配しないでいいよ、また後で必ず来る!」
「待って! 待って下さいッ!!」
 だが追いすがろうと一歩前に出たかどうかという時には、もう金髪男の姿はおろか、気配すらそこになかった。

(――一生のっ、お願い…だから…っ…)
 見る間に余力僅かとなった足がもつれだし、その場に肩口からどうと倒れ伏す。
(…頼むから…置いてっ、いかないでくれ…)
 まるで遥かな遠路を過酷な祈りを捧げながら這い進む巡礼者のような格好のまま、歯を食いしばってこみ上げてくるものに堪える。
(おれは…俺は……何をしに、ここに来たのだ…!)
 どうしようもない無力感に、胸が潰されそうだった。
 いつもは消されていた蝋燭の火が、今もそのまま灯され続けていることには、夜目が利くという実利の他にも彼の心境の変化の一端を垣間見たような気がして心強くはあるものの、これで「やるべきことは果たしたと迷い無く言えるか?」と問われれば、否としか言いようがない。

 やがてまだイルカの嗚咽が止まぬうち、壁際で揺れていた小さな灯火さえもが、その役目を終えて立ち消えていった。












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