「?!…っ」
 漆黒の暗がりで誰かがいきなり側に立った気配に、息を呑みながら起き上がった。
 夜目というのはほんの僅かでも明かりがあるところなら利かせられるが、ここまで一点の光もない場所では、幾ら目を凝らしたところですぐには何も見えてこない。全身の神経を張り詰めながら、ひたすら気配を探る。
「――僕だよ、イルカ」
 だが岩壁に響いた明るく柔らかな声に、どっと肩の力が抜けていく。
「よっぽど部下の目で君の正体を見極めて貰おうと思ったんだけど、まだ目の具合があまり良くなくてね。あまり無理をさせるわけにもいかないから」
 蝋燭に橙色の小さな明かりが一つだけ灯されて、その朧な光に黄金色の髪が浮かび上がったのを見ると、思わず安堵の溜息が唇を衝いて漏れた。
(よ、かった…)
 暫しの猶予を貰った事に、まだやれると思いを新たにする。

「実は、あれからも随分長いことあれこれ考えてはみたんだけど、どうしても答えが出なくてね。もう何日かこのまま放っておこうとも思ったんだけど、どうしてかな。君の事が気になって仕方なくて」
「随分て…あのっ、今日は…今は、何日の何時ですかっ?!」
 もう長いこと一睡もしてなかった事から、ついうとうととしてしまい、情けないことにあれからどのくらいの時間が過ぎたのかがはっきりとしなくなってしまっていた。いても立ってもいられない不安から慌てて訊ねる。
「悪いけどそれは言えないな。君がどこの誰か教えてくれたら別だけど」
「それ…はっ、それだけは……言えません。でも時間がっ、もうあまり時間がないはずなんです! お願いします、どうか何も訊かずに、俺の話を、聞いて下さい!」
「んー、そうだね。…じゃあいいよ、話してみて。信じる信じないはまた別の話だけど」
 里長は両腕を胸の前で組み、反対側の岩壁に凭れたリラックスした姿勢を崩さずに見下ろしてくる。
「近いうちに、里で大きな災いが起こります」
「――ん…なるほど、確かにそれは困るけど。災いというのは、また戦があるってこと?」
 すぐに質問を返してくる火影に、動じている様子は微塵もない。
「被害の規模としては、先日の大戦を遥かに凌ぎます」
「――――」
「嘘じゃありません。気が狂ってる訳でもありません」
「じゃあ百歩譲って、君が狂ってないと仮定するけど――なぜそんなことが分かるのかな。そこのところを説明してくれないと、誰も信じる気になれないってことは、君も分かるよね?」
「やっ…それはそのっ…、なぜかというと…、私が…………みっ―――未来から、来たからです」
 一瞬、岩に囲まれた空間に、居たたまれないような静寂が満ちた。
「――未来、から…? ――ぷっ…それはまた、随分と突拍子もない話だね。物事の予知に関しては、今のところ三代目の水晶でも無理ってことは知ってる? あぁ僕を煙に巻こうっていう事なら、時間の無駄だよ?」
 四代目の口元が可笑しさを含んだへの字に曲がっている。幾ら天才の名を欲しいままにしてきた火影といえど、その反応は当然と言えば当然なのだろう。だが受け入れには程遠いその様子に、焦りばかりが掻き立てられる。
「ん…未来ねぇ? ――君の言うその未来っていうのが、一体いつ頃なのかは知らないけど、つまりはその時代にはそんなことが出来る忍が居るってことなのかな」
「――はい」
 深く、ゆっくりと頷く。
「ふっ…ならそんなことを考える未来って時代は、随分と見通しが暗いんだね?」
「っ…!」
 何もそんな質問にまで迂闊に言及してしまう必要はないのだが、咄嗟に何と言うべきかが分からず、押し黙ってしまう。

「じゃあ質問を変えようか。君にひとつ聞いてみたい事があるんだけど、いいかな?」
「ぁ…はい」
 内容によってはまた沈黙することになるかもしれないが、何の歩み寄りもないままでは、信頼を得る事が出来ないのもまた確かだ。内心で身構えながらも一つ頷く。
「最初に杉林で賊を見つけた時、どうしてそのままにしておかなかったの? 未来から来たというのなら、その先どうなるかも分かってたんじゃない? あの場もそのまま何もせずに通り過ぎるか、或いはただ黙って見ていれば良かったんじゃないの?」
 火影の視線は相変わらず真っ直ぐだが、その向こうで慎重にこちらの出方を窺いながら、子細に観察しているのは明らかだ。嘘や誤魔化しなどは決して通用しないと腹を括る。
「……それすらも全て定め、だったんですよ。きっと」
「どういうこと?」
「仰る通り結末は知ってました。あの時だって、ただ黙って樹上で待っていれば良かった。――でも…」
 何もない剥き出しの地面を見下ろしたまま、言葉を探す。
「――続けて?」
「でもっ、俺はやらずにはいられなかった。あの場に居合わせた巡り合わせが全くの偶然でも、遥か昔から定められていた必然だったとしても、あの時の俺にはそんなことは関係なかったんです。正直、どうでも…よかったとしか…」
「そう」
「結局自分はあの時、誰かと関わりを持たずにはいられなかったんだと、今ではそう思います。なにしろ俺は、今のこの世界には決して存在し得ない、居ないはずの人間だから……だから、尚さら…」
 自分で言いながら、(この計画を事ある毎に失敗へと導いてしまっているのは自分なのだ)と改めて認識して、堪らない気持ちになる、が。
「――居ないはず、か。本当にそうなのかな。僕にはそうは見えないけど?」
「え…?」
 里長の言葉に、垂れていた頭が上がった。
「特殊な目なんて持って無くても、僕だってそれくらいは分かるよ。君は確かにそこに居る。幻術でも幽霊でもなく、ちゃんとあたたかな血肉を持って、そこにね」
「ぁ…」
「安心した?」
 四代目火影は、男にしては少し小さめの口を綻ばせた。

「君は本当に面白い男だね。言ってることは目茶苦茶としか思えないのに、何だか放っておけない。どういう訳か他人のような気がしないんだ」
 金髪の男はふっと小さく笑って、凭れていた岩肌から離れた。そして真っ直ぐこちらに向かって歩いてくると片膝を折り、まるで俺の目の奥のそのまた奥までを覗き込むような瞳で言った。
「ところでこの辺で一つ、肝心なことを訊いておきたいんだけど?」
「――はい」
 こくり、と咽が鳴る。
「君の言う、『この間の戦より遥かに規模の大きな災い』というのが本当だと言うのなら、どこの国が、どうやって起こすのかな?」
「…そ…れは…っ…」
 後で振り返った時、これに答えたことで被害をより拡大させてしまう結果になるのか、それとも未然に防く事が出来るのかが、正直自分にはまだはっきりと分かっていない。今自分が、とてつもなく重要かつ危険な分岐点にさしかかっていることを、否応なく感じる。
「そのっ…――すみま、せん…」
 思わず深く俯いてしまう。
「どう考えても、今はどこの里も、もちろん国自体だって疲弊しきってる。そんな中で、仮にも五大国いち大きな里を攻められるような戦力を持っている里があるとは思えないんだけどな。そりゃあこの間まで戦ってた岩なら、木ノ葉が壊滅すれば有り難いとは思ってるだろうけど、あそこだって神無毘橋周辺の戦いだけとっても相当のダメージを被ってるはずだからね。今木ノ葉を壊滅させられるような戦力を持った里なんて、現実には無いはずなんだけど?」
「…………」
 なまじ現状の把握に優れている火影だけあって、生半可な説明では説得力がないのだと分かる。
「恐らく…疲弊、しきってるから…」
「ん?」
 イルカがぽつりと切り出すと、すぐに四代目が探るような視線を寄越す。
「弱り切っているからこそ、狙い目だと思ったんじゃないですか?」
「…なんだって?」
 ずっと穏やかだった里長の声のトーンがにわかに凄みを帯びたかと思うと、アンダーシャツの袖に半分隠れた手が伸び、イルカの顎をぐいと勢いよく持ち上げた。
「狂言癖のある、ただの道化かなと今まで半信半疑だったけど、どうやら違うみたいだね」
「…ようやく…分かって下さいましたか…」
 逸らすことなく真っ直ぐに見上げたイルカの瞳と、四代目のそれが、途中の空間でぶつかり合う。
(よかった…これでようやく、本腰を入れて話を聞いて貰える…)
 多少誤解されている面もあるだろうが、今は細かいことに構っている場合ではない。この時をずっと待っていたのだ。
「――そうだな…もう少し、ここで頭を冷やして貰うよ」
「なっ…?!」
 イルカが息を呑んだのと、火影が立ち上がったのはほぼ同時だった。
「イルカ、悪いけど僕は今、あまり長いことここで油を売っている訳にもいかないんだ。僕が邸にいない間は三代目が補佐として入ってくれてるけど、いま里は二人がかりでも手一杯な状況でね」
「わかりますっ、分かっています! でもっ、だからっ!」
 叫びながら、今の自分の不用意で半端な発言が、彼に『この里に攻め込もうとしている他里の忍び』というレッテルを貼らせてしまったのだと気付く。例え不世出の天才四代目火影であっても、九尾などという選択肢は持ち合わせていないのだ。
「火影である僕に、何をどこまで話すのが自分の身のためになるか、もう一度ここで静かに考えてみるといい。――また、来るよ」
「四代目!! 待って! どうか今暫くだけ話をっ、俺の話を聞いて下さいッ!」
 後ろ手に縛られたまま立ち上がり、長の後を追って駆け出す。が、その後ろ姿は追いつく間もなく、目の前で闇に解けて消えていく。

 脇の壁に灯っていた蝋燭の火が、目に見えない力によってすっと吹き消されると、闇に佇んでいたイルカはがっくりと両膝を付いて頭を垂れた。
「――お願いっ……です…!」
 自分は今、何をどう答えればよかったというのか?
(俺はっ、俺は……どうしたら…っ…)
 時間と闇が作りだした巨大なすり鉢状の底へ向かって、自身が一人で落ちていくイメージが一旦生まれると、それが繰り返し己を苛もうと忍び寄ってくる。
「…っ……くっ…くそっ…!」
 そいつを何とかして掻き消したくて、冷えきった固い岩の上を、土虫のようにただ右へ左へと無意味に転がり回った。
 後ろで一つにまとめられた手指が岩と体の間でどんどん傷付いていくが、そんな痛みでさえあったほうがまだ遥かにマシに思えた。
(誰かっ、誰か教えてくれ…!)
 やがて暴れるだけの精魂が尽き果てると、今度は横倒しの体を丸めた格好のまま、いつ終わるとも分からない果てのない時間の壁と向き合い続ける。
(誰か…!)
 こんな一筋の灯りさえ届かない地の底にさえ、決して自分には覆すことの出来ない理が横たわっている。












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