(ぁ…?)
 瞼の裏から続く、すぐ近くとも遥かに遠いとも言える暗がりから耳慣れた男の声が聞こえた気がして、そちらに意識を向ける。

「――参ったな…、やっぱりオレ、あなたのことを、どんどん会うたびに、好きになってる」
「…ぇ?」

 その男の隣で歩きながら一頻り笑っていた俺は、殆ど布で覆われた彼の顔を、半ば笑った顔のままぽかんとして見つめた。

 その時の話題は確か、「もし可能なら誰と戦ってみたいか?」というような他愛ないものだったはずだ。俺は冗談めかしながら「う〜ん? 九尾、ですかね?」と答え、あの人は「オレはやっぱり四代目かな。でも間違ってもあなたとは戦いたくないですね、とても勝てる気がしない」などと、互いに馬鹿なことを言いあっていた。
 だから、あの人が急に思わぬことを切り出してきた時も、てっきり冗談の続きじゃないかと思ったのだ。

「ねぇイルカ先生、今さら迷惑かな。その…忍びじゃなく、一人の人間として、あなたのことをもっと知りたくてたまらない――…なーんて、言われても」
「は?――やっ…? え…っと…? ちょっと…カカシ先生? あのっ、待って…?」
「んー…そうね、待つよ。もう四年も待ててるんだから、このままあなたの返事を待つことくらい、何でもない」
(よっ、四年って?! …そんな急に何を……カカシ、先生…?)


 けれどその夜、ベッドに倒れるように転がってから丸一晩かけて散々悩み疲れたことで、ようやっと胸の鼓動がおさまってきていたのも束の間で。
 翌日にはもう、彼の気持ちは変わっていたっけ…。



「あのね、イルカ先生。昨日の…返事待ちのことだけど」
「うぁっ、えとその、はィっ…?!」
「夕べは偉そうなこと言ってごめんなさい。その――やっぱりオレ、あんまり待てそうになくて。何というか…気になっちゃって、眠れなくて。アハハ…」
 薄青い瞳のまわりを心持ち赤くした男が、気持ちのまま真摯に話している。
(カカシ、さん…)
 その姿を向かいで目にした途端、頭の中から胸の辺りにかけてをすっとひとまとまりの心地よい風が抜けていったように感じた。その時になって初めて、(あぁ自分の中の風通しは、いつの間にか悪くなっていたんだな)とも思う。
「いえっ俺の方こそ、すぐに返事が出来なくてすみませんでした。――おっ俺は、ここっ…このままでっ!」
「ぇ…」
「はい! ですから、このまま…その…その…」
「――あぁ……そぅ…」
 その時、上忍の肩が目に見えて下がったことで、あれおかしいぞと思った。安堵して下がったのとは違うようなそれ。
「あの、カカシ、先生…?」
「……はぃ」
「俺、こういうのがちょっとそのっ、あんまり得意じゃなくて…なんか言い方良くなかったですか? …えぇと、俺はその…このままカカシ先生と、あぁそうだ、ずっと一緒に居られたら、と。――アハッ、だって幾ら考えてみても、そもそもカカシ先生のいない日常っていうのが、俺にはもう想像もつかなくなってるっていうか…」
 なぜだろう。その時の上忍の表情だけは、今でもはっきりと思い出せる。まだ色淡かった早春の景色が、こぞって彼の背後にぐうっと寄り集まっているように見えた。

「やっ――ぁ……あぁよかった…。ほんとうによかった…! いや今ね、勝手に変な穴掘って、一人で落っこちてた。ハハハ〜わけ分かんないでしょ。いいのいいの、何でもない。――本当に、嬉しい」
 あの人は震えるような大きな溜息を、奥の方から一つついた。そして人気のない木立の陰で俺の右手を取ってから肩を抱き、そろそろと胸を合わせてくると、やがて両腕でもって存在を確認でもするかのように強く抱き締めてきた。
「…ありがとう……ありがとう、イルカ先生」
 互いのベストの胸ポケットに入っている固い忍具がたてる音が、二人の間からいやに大きく聞こえてくる。
「――ぃっ、いぇ…」
 何の照れもない上忍に、その分照れた。








(…冷えて、きたな…)
 冷たい剥き出しの岩肌が右半身に不規則に当たっているのを感じ、不快な痛みと寒さで目が醒めたことに気付く。
(先生――今頃、どうしてるだろう…)
 暗部の見張りが付いて軟禁…いや事実上の監禁状態に置かれているはずの男を思う。
(カカシ、先生…)
 目を閉じるとなぜか正面ではなく、遠くを静かに見つめているような横顔ばかりが後から後から浮かんでくる。思えば顔を付き合わせて向き合っている時間より、風上に向かって二人並んで歩いていることを意識出来るような、そんなふとした瞬間が好きだった。

 一度たりとも口に出さないまま、でも決して怠ることの無かったたゆまぬ自己研鑽の末、ついにあの人が遥かに過ぎ去った過去をもその左目で一望出来るようになったのも、思えばごく自然の流れだったのかもしれない。
 そしてその流れの先で、他でもないこの俺が、斥候としてこの災禍の日に向かうことも。

 自分がいつか、何らかの取引の材料にされるかもしれないということは、上忍であるあの人と親密な関係になりだした頃から薄々感じていた。彼に備わった他に類を見ない傑出した能力が、過ぎた権力の下に利用されても何らおかしくないということは、ナルトが辿ってきた道のりを見ても明らかだった。
 だが当の本人は、自分自身が直接脅されることはあっても、そこに俺が介在するなどとは思ってもみなかったらしい。いや、敢えて考えないようにしていたのかもしれないが、まさか身内の、しかも最上層部によって俺が盾に取られるとは思ってなかったようだ。
 ご意見番に入れと言われ、俺が姿を見せたときの彼の取り乱しようは……思い出すだに胸が痛む。

『――カカシには人並み以上に苦労をかけてきた。そろそろ奴が持って生まれた特質を生かしながら、休ませてやる時期に来ておる。イルカ、お前なら分かるじゃろう? 有力大名の娘の元に入れば命の危険に晒されることもなく、一生安泰な静かな余生を送れるんじゃ…』
 昨日の午後、アカデミーに出向いた俺を呼び出した長老達は、押し黙ったまま立っている中忍に訥々と、やがて次々と畳みかけてきた。
(もし仮にそうだとしても、あの人がそんな道を選ぶとも思えない)
(俺がそんな道を勧めたとして、あの人が心の底から喜ぶだろうか?)
 じっと爪先を見つめながら、一方では確かにそう思う。
 なのに、平行したその裏側では、全く逆のことも同時に思い巡らしていた。まるで己の真ん中に、歪んだ鏡でも立っているかのようだ。
 自分は、いつからそんな器用な男になったのだろう?

『今あるこの世界を、覆してはいけない』
 分かっている。そう、はっきり分かっているはずだ。
 なのに、控えの間でカカシ先生と長老達の激しいやりとりを耳にしているうち、子供の頃に目の前を過ぎ去ったはずの九尾の一件が、己の中で殆ど風化してないことにも我が事ながら驚いていた。
 この十六年間というもの、あえて自らの手であの日の記憶の蓋をこじ開けて、掘り返すようなことをしなかったせいか、そもそもこの身が灰になるまで風化などしようもない、天命の焼印なのかは分からない。
 だが彼らの話を聞き進むにつれ、まるで昨日のことのようにありありと肌の下に甦ってきた焦燥感のようなものに、内心言いようのないショックを受けていたのも確かだった。
 そう言う意味では、自分はやはり不器用な男なのだと言うほかない。

 とにかく一旦(あの日に戻れるかもしれない)と思った途端、最早いてもたってもいられなくなっていた。あの人が繰り返し言っていた「過去を変えることの危うさ」は、自分の中で大きな意味を持っているようでいて、その実何も結んではいなかったということになる。
 ここ最近波立つこともなくなっていた、冷たく薄暗い淵の底に、突然思いもよらない強い光が当てられたことで、その周辺のものはより一層暗く沈んで見えなくなっていた。



 冷たく固い岩の上で、一度だけ寝返りをうつ。地についている方の半身から、寒さがひたひたと押し寄せてきているのが分かる。
 目は、閉じたままの方が遥かに辛くない。

(カカシ…先生…)
 もし次に誰かがこの部屋に入ってきた時。
『己を生かし続けているのは、今でも俺自身だ』と揺るぎなく信じていられるだろうか。

(カカシ、先生…――…おれ…は…)

 紡がれかかった答えを、再び黒い闇が端から塗り潰していった。












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