きっちりと分厚い防音シールドを施した、一枚目の外扉を押して誰かが入ってこようとしている気配に、ついさっき届いたばかりの段ボール箱を開いて中身を眺めていた森野イビキは顔を上げた。
 箱の中にはデザインに定評のある海外メーカーの鞭が数本、注文通りに入っていた。鞭と一口に言っても、色形は様々だ。今回はバラ鞭と呼ばれる、比較的痛みの少ないものの中から、先が9本に別れている九尾鞭と、一般的に一本鞭と呼ばれる編み上げ鞭を購入していた。
 取り寄せ先の欧州は、ウィッピング(鞭打ち)の歴史が長い土地柄ゆえ、そのデザインには日本人に真似の出来ない濃厚な色気が滲んでいると思う。流石牧羊民族だなと、その独特の意匠に感心していたところだった。
(誰だ…?)
 この雑居ビルの地下に店を構えて以来、ずっと紹介制をとってきている。これまで幾つかの店を渡り歩き、ついに一昨年自分の店と呼べるものを持ったが、その時から飛び込みの客は受けていない。ただ予約を受けている客が来るにしても、時間までまだだいぶあった。もしその者だとすれば、つい最近出入りするようになった客…勿論Mの男性客だが、そんなに早く来られても、お目当ての女王は当然不在だ。自分も時間外に相手をする気はない。
 最近どうも我が儘な客が多くて困る。もちろん契約で結ばれた、同意の上での我が儘なら幾らでも聞くのだが、その辺を履き違えた子供の客が多すぎる。
 本来SMプレイは、成熟した大人のためのものだ。金儲けだけが目的のよその店は知らないが、少なくともこの店でその意向に添えない者は、どんなに払いが良くても早々に退場願っている。
 加虐趣味と被虐趣味に、サディズムとマゾヒズムという名前がそれぞれ付けられて150年が経つらしいが、自分がこの世界に本格的に足を踏み入れてからの十年間だけでも、SMは随分と変容してきている。80年代を境に下火になりだし、メディアに乗って大衆化しだした途端、元の輪郭が分からないほどライトになった。
 そんな中、自分は、その流れに背中を向けるようにしてこの店を開いた。
 この国でのみ独自に発展した「緊縛」から始まり、必要に応じて生み出されてきたおおよそ全ての加虐プレイを、それらが盛んな欧米の各地を回って見聞し、会得してきた。
 けれど己の本分は、必ずしもそれを実行することにあるのではない。
 そういった技術的なこと以上に、何より訪れた客の心理を当人より早い段階で見抜くため、そこにいるのだと思っている。

「こんばんわ。この間は、どうも」
「? …あぁ、なんだ、あんたか」
 だが二枚目の防音扉を押して入ってきた、すらりとした長身の男を見て、下ろしたままでいようと思っていた腰をゆっくりと上げた。
「今、大丈夫ですか」
 男とは面識があった。が、初対面の折に思った通り、こういった店とは縁が無いらしい。照明を落とした暗い室内に置かれてある大小様々な道具を目のあたりにするや、眼孔のすぐ上にある細い眉を顰めている。それらは素人には使い方がわからないものから、ひと目見ただけでどう使うかがある程度想像できてしまうものまで様々だ。
「ああ。まさか、本当に来るとはな」
「お忙しい、ようなら」
 それでも以前渡した名刺や会話の内容から、ある程度想像はついていたとみえ、男は思いのほか落ち着いた声で喋っている。
「いいや」
 首を振ることなく答えた。口でこそ突き放すように言ったが、ただ単に「わかったか、ここは正真正銘、そういう所だ。帰るなら今だぜ」ということを、今一度この者に確かめておきたかったにすぎない。
 手にしていた鞭を箱に戻すと、小さなスポットライトの下で脱いだコートをきちんと片手に掛けて立っている男に、腰掛けるよう促した。



     * * *



 彼…いや彼ら二人と知り合ったのは、一週間ほど前のことだった。
 自分が雇っている唯一のスタッフ……紅と二人で、遅い晩飯を食べに出ていた。その日、どういうわけか予約をしてきていた客が相次いでキャンセルになり、ならたまにはということになっていた。普段はお互いどこで何を食べているか、何が好物かすら知らないが、そういった類の話をすることは、知り合った五年前から今に至るまで殆どない。
 ただ彼女との数年に及ぶ「仕事」を通して、自分と紅は、根本の部分でかなり近いタイプの人間であることはよく自覚していた。見た目は真逆もいいところで、自他共に認める美女と野獣だが、核をなしている部分は同じなのだから、どこまでいっても交わることがない。交わろうとも考えない。ある意味好都合な仕事仲間といえた。

 煌びやかなネオンが交錯する繁華街を歩きながら、鼻の効く彼女が無数の扉の中からチョイスした店は、確かにいい店だった。が、いかんせん週末の店内は予想以上に混み合っていて、店員に勧められた席は、ずらりとディスプレイされたワインボトルが並ぶカウンタ席だった。とりたてて呑みながらゆっくり話したいことがあったわけでもなかった我々は、店員に促されるがままそこに座った。
 だがその、自分が腰を下ろしたすぐ隣りに座っていた先客が、いま目の前にいる男…畑カカシの連れだった。
「あ、すみません! 失礼しました」
 ガラスが固いものに当たる音がして、唐突に謝りだした黒髪の男が言うには、「話に夢中になる余り、うっかりコップを倒してこちらの皿の上に零してしまった」のだという。見れば確かにビール漬けになっている料理皿がある。
「ああ、いいのよそんなこと。もう殆ど残ってないんだし、この人が紛らわしい置き方をしただけだから気にしないで」
 言ってゆったりと微笑んだ紅も、そして自分も、薄赤くなった顔で謝っている男とカカシを見た途端、二人が同僚や知人以上の関係であろうことはすぐに気付いていた。紅に至っては、もうその地点で『付き合いだしてから一年程度は経っている』ということも見抜いていたというが、傍目にはごくごく普通の若いサラリーマンといった出で立ちだった。

「あの、これ如何ですか? さっき食べたら旨かったんで」
 その後黒髪の男は、自ら注文した別の新しい皿をこちらに差し出してきた。如何にも朗らかで真面目そうだが、会話や笑顔の端々にはどこか奔放な匂いも漂わせている。
(そして時に、頑固で譲らない一面もある…か)
 そしてその隣りにいる銀髪の男はというと、こちらの雰囲気にただならぬものを感じているらしく、話しだしてもしばらくは警戒の視線をくれていた。実はカこのウンターに通された時から、彼は我々二人を横目でチラチラと見ていた。珍しく聡いヤツがいるなと思っていたら案の定だった。
(ほう、気が付いたのか)
 もちろんオレ達の素性に気付いたといっても、風俗業の何か、というような具体的なものではなく、恐らくは『何となくだが、自分と同じような匂いのする、(だからこそ)油断のならない者』というような、漠然とした認識だっただろうが。
 ちなみに自分と紅は、普段は一切本業の匂いをさせていない。自分は着替えること自体ないが、紅については当然のことながら、店内で身に付けるような服装で外に出ることもなければ、それを遠くにでも匂わすようなファッションや行動をとることもない。風俗業はおろか、水商売のカラーさえ消えかかっていることから、最近では我々の素性を知っている同業者ですら、街ですれ違っても「一瞬わからなかった」と言うくらい、駆け出しの頃から比べてもその気配は陰をひそめだしている。
 自分も紅も、外見はどう見ても地味とはいえないほうだろう。けれど時を重ねるにつれ、「その気配」は確実に内へ内へと向かいだして、表には出ないようになってきている。
 
「お二人とも、今日はもうお仕事は終わりなんですか?」
 だが敏感な恋人の警戒心など知る由もなく、連れの方は無邪気に訊ねてくる。酒が入らなくても、日頃から陽気で人見知りしない性格なのだろう。そんな男が、見知らぬ者との間にある壁を程良く下げて、こちらの出方を待っている。
 その黒髪の男…イルカというらしい彼は、紅が「風俗業」という言葉を出しても、大仰に驚いてみせたり、我々を偏見や好奇の目で見るようなことはなかった。そのビストロが、風俗店の多い界隈から幾らも離れていなかったせいもあったろうが、如何にも人好きのするビジネスマンといった感じで、色々なことを屈託無く訊ねてくる。そしてその万人を惹き付ける嫌味の無い話し方は、珍しいことに紅のガードをも緩めてしまったらしかった。
 もしくは彼ら二人の関係に、何かしらの興味を抱いたか。
 そんな彼女に否応なく引っ張られながら、素直で好奇心旺盛な男を間に挟んで受け答えしているうち、自分達がSMを生業としているということを話しだすのに、そう長い時間はかからなかった。
(やれやれ…)
 紅が自身の仕事について話しだすのを黙認したものの、SMは心底欲している者が自ら扉を叩く類もので、手当たり次第に営業などしたところでどうにかなるものではない。もしも調子よく乗ってきた場合でも、大抵が自己中心的な欲望の塊でしかない、我が儘で短絡的なだけの「自称S」であることは、彼女も重々承知しているはずだ。なのに、なぜここで…?
(紅お前……誰かと付き合ってるな?)
 もちろんそれは、長い鎖で繋がった奴隷達を指しているのではなく、恋愛を介した対等な関係。
 あくまでも勘、でしかないが。
 もちろんその事を、どうこう言う気も毛頭ないが。
 だがその思わぬ展開と唐突な気付きに、(ならば少しくらい、彼らに話を合わせてみてもいいか)という気になっていた。
 紅本人に直接真意を訊ねるより、こうして無関係の第三者を交えて喋らせたほうが、より正確に考えを推し測れる場合もある。
(よく似ているものを持っているとはいえ…)
 やはり紅も他人だったかと、目の奥で苦笑いしながら話に加わった。

「――なら聞くが、例えば自分宛に封書が届いた時、あんたらはいつもどうやってそれを開封している?」
 何の予備知識もない者に、いきなりSMの歴史から講釈を垂れたところで眠いだけだろう。まずは酒の席でありがちな話から切り出してみる。つまりはサディストかマゾヒストかという分類だが、この手の酒の肴にしか見えない軽い問いも、導入としてはあながち馬鹿にしたものでもない。
(やりようによっては、だが)
「え? 封筒? はぁ、どうって…こう…横から指を入れて、びりびりっとかな。カカシさんは?」
「ま、ペーパーナイフ? なければ、ハサミでしょ」
 途端「ええー毎回そんなまだるっこしいことやってんですか〜」と言われて、「いや手でビリビリはないでしょー」となどと言い合っているが、なるほどこの二人、実は思っていた以上にいい組み合わせなのかもしれない。
 あくまで、SMという視点から見ただけの第一印象だが。
「じゃあ私からも一つ質問ね。朝出かけるとき、着ていた部屋着をどうしてる?」
(なるほど)
 長い付き合いになる同僚の問いに、そういう訊き方もあったかと思う。
「部屋着〜? そりゃまぁー…あはは〜〜脱いだらその辺にぽーんと〜?」
 言いながら黒髪を括った後頭部をバツが悪そうに掻いている。ここまでくると、カカシとかいう男の方はもう言わなくても大方予想が付くが、一応視線で水を向けると。
「オレは畳むけど。でベッドの枕の辺りに重ねて置く」
(だろうな)
 「それが? 何なわけ」と、どうやらいまだに我々を警戒してこの会話に乗り気でないらしい銀髪男の視線を受け流すと、皆の前にある空いたグラスへと目線を移す。
 通りかかった店員をつかまえて、ワインの追加を人数分頼んだ。
 今夜は、長くなりそうだ。





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