「で…この診断で、どんなことがわかるんですか?」
 黒髪の男が、真っ黒な瞳を輝かせながら訊ねてくる。
「わからんな、特には」
「ええぇ〜そんなぁ〜〜」
 言いながら黒髪は大きな口を開けて朗らかに笑っていたが、そんなもので人の心がわかったなら、精神科医も苦労はしないだろう。
「正確には、まだわからんということだ。そもそも人が必ずSかMかのどちらかに属しているなどという考え方自体、不自然だろう?」
 その二者択一のステレオタイプな認識自体は、マスコミなどによる安易な拡散によるところが大きいが、男女の定義すら曖昧な時代だ。性的な趣味嗜好に至ってはもっと複雑で、そう簡単に他者からわからなくて当然だろう。当人ですら気付いていない場合も多々ある。
「封書をハサミを使って開封する者は、性格的に几帳面なところがあり、日頃からビリビリと手で破いている者は、大らかな傾向にある」
 今の問いで朧気ながら浮かび上がってくる事といえば、その程度だろう。ビリビリ破いているからといって、乱暴→Sなどという短絡的なチャートになるわけではない。
 服のたたみ方にしても同じだ。朝きちんとたたんでから出かける者は先々の事まで考える性格で、たたまずに放り投げておくタイプはそういった事には一切こだわりのない、どちらかといえばその場型の考えが強い傾向にある、というだけだ。
「なぁんだー、ビリビリはSじゃないんだ〜?」
「ぇなにその残念そうな言い方〜」
「はははっ、そうじゃないですって!」
 イルカはまた朗らかに笑うと、注がれたワインを一口、旨そうに呑んだ。

「元々人間てのは、SとMの両方の性質を持って生まれついている」
「そうかぁ…じゃあ中にはその比率が、成長と共に変わってくる人がいるってことなんですね?」
 どうやら黒髪のほうは、全体の調和をはかりながら話を進めていくのが上手いらしい。
「そういうことだ」
 S性、M性は国民性によっても多少の違いはあるが、自分が今まで見てきた感じでは、はっきりと自覚するところまで傾いているのは多くても全体の2割程度といったところだ。残りの8割から9割がたはどちらかに大きく傾くことなく、ほぼ五分五分の状態のままではないかとみている。つまり、世が言うところのノーマル。
 S性、M性が発露するきっかけは、それこそ様々だ。世の中は常に様々な啓示に溢れている。本や映画や人間関係など、何かしらの出会いによりそのベクトルは次第にはっきりとしていき、やがて自覚に至る。
 発露する年齢に関しても、個人差が大きい。特にSは、ほんの子供の頃から自覚していたという者も多い。虫や小動物を苛めたりするのは年少期にはよくあることだが、同じように苛めているように見えても、その小さな体の中では他者とは全く違った、大人も驚くほどの加虐のイマジネーションが膨らみだしていたりする。だが子供自身、そんな妄想は良くないことだと薄々気付いてもいて、背徳感からひた隠している場合が殆どだ。
 逆にMはというと、大人になってから他者によって開発され、自覚に至る者も多い。
 いずれにしても、接していてより心地の良いものを、人は決して無視しない。そうやって一度大きく傾いた性嗜好は、まず変わることなく本人の中の奥深くに根を下ろしていく。
「そうは言うけど、そんなの必ずしも先天的なものばかりとも限らないでしょ」
「当然だな」
 『勝手に頭から決めつけないで貰いたい』と言いたげな、ますます納得いかなそうな、明らかに胡散臭いものを見る目でこちらを見ている銀髪男を軽くいなして話を続ける。どうやらこの男、知識は豊富そうだ。

 SとMにはそれぞれ2種類あることが知られている。先天的なものと、後天的なものだ。
 好むと好まざるとにかかわらず、人間が長い社会生活をそこそこ円滑に送り続けるためには、ある時は積極的に、またある時は受け身にと、臨機応変に立ち回れなくてはやっていけない。そのため、何事もなければその比率は、自然と5対5付近に落ち着いていくことになる。
 だが現代社会は無数の強い摩擦に満ちていて、時に否応なく割合変更を迫ってくる。後天的な「社会型」といわれるSやMが生まれるのは、大抵こういう場合だ。これは先天的なS性、M性に関係なく当人に覆い被さっていくため、場合によっては本来持っていた嗜好を変化させたり、他人からは全く見えなくさせたりもしている。
 そのため会社では成果に追われ、年中部下を怒鳴り散らしてSで通っている者が、夜は本来の性…完全なMとして店に通っていたりする。もちろんその逆も然りだ。
 ちなみに、一度傾いた先天的嗜好は一生変わらないのが基本だが、若い頃は気力や体力に溢れて生来のS側に傾いていたものの、年齢を重ねていくうちに、経済的理由や病などがきっかけでMになっていくことはある。
「それらのどちらが本来の自分か、ということじゃない。どちらも自分なんだ」
「―――…」
 俯き加減でじっと押し黙ったままの銀髪男の隣で、黒髪が一つ、ゆっくりと頷いた。

 『はっきりと自覚するところまで傾いているのは、多くても二割』と言ったが、巷で毎日のように耳にする、「ドS」や「ドM」などという表現に当てはまるほど、先天・後天ともに8割以上というような極端な割合の人間は、実は非常に数少ない存在だ。身の回りに溢れている社会の圧力や摩擦にも左右されないほど、強い嗜好を持って生まれているとも言えるからだ。
 ただ、社会生活に大きな支障が出そうなほどにまで一方に大きく傾いた者は、自分の中だけでは上手くバランスが取れなくなってくる。
「そんな彼らがどうやってつり合いを取っていくかというと、真逆の性嗜好を持つ他者と交わったり、自分の中に真逆の部分を作ったりするというわけだ」
「真逆の、部分?」
 酒で頬を赤くしているものの、いまだに目縁だけはくっきりとしている男が返してくる。
「真逆の部分を作ると、より妄想がしやすくなるんだ」
「あぁ…?」
 例えば自分がSだったとしても、Mの部分を作って巧みに被虐者を立ち回らせることが出来れば、より妄想にリアリティが生まれ、快感の度合いもその分高まる。
「要は自己完結出来るようになる、ということだ」
 もちろん本人は、それを意識してやっているわけではない。気付いた時にはもう既にそうなっている。それを良い悪いなどと幾ら他人が言ったところで、誰も止めることなど出来はしない。
「人にもよるけど、パートナーが違っただけで、本人のSとMが変わることだってあるものなのよ」
(ほう)
 彼女の口から改めてそんな台詞を聞くと、(これはいよいよか)と思う。それがまったくもって余計な詮索であることは、重々承知しているが。

「じゃあなに、結局のところ内側でバランスとって完結しちゃってるなら、そのSとかMに、他人にわかるほどの明らかな違いなんて、言うほど現れないんじゃないの」
 どうやら「他人の診断なんて出来るわけない」と言いたいらしい銀髪男が、再び懐疑的な意見を投げてくる。自分達が他人によってどちらかに振り分けられようとしているのがお気に召さないのだろう。
「いいや、あるな」
 今の彼の発言一つとっても、それは次第にはっきりとしてきているといっていい。
「これは今まで、何千という客や愛好家を見てきたからわかることだが…」
 そこで敢えて言葉を切ると、銀髪の向こうの瞳にほんの一瞬一瞥をくれる。
「他者を強く加虐すること、或いはされることで快感を得る者には、そうでない者との間に日頃からある程度の差がある」
 言うと、紅が二人に向けて、至極上機嫌な様子でワイングラスを軽く差し上げながらゆったりと微笑んだ。

「S型とM型は、そのリアクションから「感覚派」と「感情派」に大別することが出来る」
 自分の感覚を信じ、それを肯定されたり褒められたりするのが嬉しいと感じるのが「感覚派のS」。
 それとは異なり、一旦自分のやり方を否定されながらも、同時にアドバイスを受けたり激励されたりするほうが嬉しく、より愛情や快感を覚えるのが「感情派のM」だ。
 SMクラブや関連するコミュニティでもなければ、予め相手の性癖を知っているような状況など皆無だろう。だが付き合っていくうちに、次第にSかMのいずれかに傾いていると感じる相手ならいるはずだ。
 その際、褒めながら伸ばすのか、叱りながら伸ばすのか。
「ひたすら持ち上げながら商談を進めるか、一旦否定してから別の案を提示するか」
「ふふっ――恋人が着てきた洋服をそのまま褒めるか、『オレは昨日の方がより似合ってたと思うぜ』って言ってから、服選びに付き合うか」
「ああ、なるほど…!」
 SもMも人間だ。そこから生まれた考え方は、時として老若男女に当てはまり、使い分けが有効な場合もある。

(しかしお前、そんなにズバリ、真っ正面から聞いちまっていいのか?)
 折角こっちが気を利かせて、こうして『どちらともとれるような』ごく曖昧な質問形式にして、誰もが酒の肴として楽しめる万人向けの説明に終始してやっているというのに。
 カカシという男の、「なにそれ、全然つまんない。それってそんなに面白い話?」とでもいうような素振りも、恐らくは表向きだけだろう。
 ここから先は、ある程度S型の性質を持った者なら少なからず心当たりもあって、言い当てられればカチンときたりもするはず、なのだが――

「S型の人間は、大抵とても合理的だ。無駄を嫌う」
 そして合理的なために、単独での力より、仲間達との力を信じる傾向にあるのも彼らだ。M型の者は仲間と呼べる者はいても、損得や結果の良し悪しを計算せず、単独で行動することが多い。
「あと、Sは結構見栄を張りたがるわね」
(ふ、確かにな)
 大きな事を言って自分を大きく見せたがったり、自身の服装や連れの美醜にまでこだわったりするのは、まず間違いなくSの方だ。基本Mはしない。
 女王様が「実はMよりSの方が普通っぽい人が多いのよ〜」などと、誰もが振り返るような優男の方を見ながら妖艶な笑みを浮かべている。
「あはっ、結構当たってたりしてカカシさ〜ん?」
 だいぶ酔いの回ってきた相方に無邪気に肯定されてしまった男はと言うと、「結構どころか…」とでも言いたげな目の色ながら、それでもプライドからか憮然とした表情をしている。気付いたイルカが慌てて「あの、ごめんなさい、そんなつもりじゃ…」と謝っている。
(ふ、悪ぃな)
 俺達は、加虐するのが日常なんでな。
「あの、じゃあM型の人の、具体的な特徴は…?」
「イルカ、帰るよ」
 と突然、銀髪男が相方の背中を軽く叩いたかと思うと、カウンタのスツールから降りた。
「えっ?! 帰るって…、ゃちょっと! 待って下さいよカカシさん?!」
 相方にすっかり背中を向けるようにしながら、興味津々といった様子でこちらに身を乗り出してきていた男が、慌てた声を上げている。
「もういいでしょ。帰ろ」
「でも…まだ頼んだもの全部来てないですけど…?」
「いらない。ここはオレが払うから。――ほら行くよ、早くコート着て」
(…ああ、一つ言い忘れたことがあったな)
 もう既にこちらを見ようともしない、憮然とした表情の銀髪男を見ていて、ふと思い出したことがあった。
(今言ったところで火に油だろうから、敢えては言わないでおくがな)
 S性の者はプライドが高いことも手伝って、大抵とても嫉妬深い。嫉妬心が強い怒りに変わって復讐へと形を変えるのは、間違いなくSの方だ。
 もちろんM型も同じように嫉妬はする。するがSよりも遙かに我慢強いため、一見しただけではそうは見えない。
 ではMはなぜ、そんなにも耐えられるのか?
 それはもちろん、耐えることが強い快感に通じているためだ。中には罵倒されるだけで快感の余り失神したり、強い肉体的加虐を得られなければ射精できない者もいるほど、耐えることは彼らにとって快感そのものなのだ。
 だからもし、SのパートナーがMであったなら、その嫉妬という名の復讐行為による痛みや苦しみも受け取められるが、全く耐えることの出来ないノーマルやSだった場合は、関係が破綻してしまいかねない。
「ぇ、ゃ、あのっ、カカシさん?」
 イルカはすっかり面食らって、急に態度を硬化させた相方を何とか宥めにかかっている。
 だがそのうち、戸惑いながらも彼に従うであろうことは、もはや誰の目にも明らかだった。





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