「――行っちゃったわね」
「ああ」
「これからが面白いところだったのに。つまんないわ」
 紅が、その唇とほぼ同じ色のワインを傾けている。
 イルカは銀髪男に引っ張られながらもこちらを振り返り振り返り、何度も申し訳なさそうに頭を下げながら出ていった。
「少し急ぎすぎたな」
 我々も自分達と同じ匂いをあの銀髪男に嗅いでいたのだから、同じ話すにしてももっとセーブすべきだった。Sは複数で行動することも多いが、仲間意識の無いS同士は、あまり相性が良くないことが多い。
「ふふっ、でも意外と効いてたりして」
「どうだろうな」
 さっき俺は、「世の中は様々なきっかけに溢れている」と言った。彼ら二人にとって、今夜の偶然の出会いが何かしらのきっかけにならないとも限らない。
 あのイルカという男は、明るく朗らかで、あまり物事に執着しないように見えて、敏感にその辺を嗅いで我々に声を掛けたきたのではないかと思えなくもない。
 そしてカカシという男は、彼と同じかそれを上回る鋭敏さで、恋人の『惹かれる気配』を察知して我々を警戒し、牽制していたのだろう。残念ながら無邪気な恋人の飽くなき好奇心の前では、上手く立ち回れなかったようだが。
 あの様子からすると、今頃あのカカシのほうは、何かと認識の甘かった自分自身に激しい苛立ちを募らせているのではないだろうか。恋人に対して、他人からあれこれ性的な入れ知恵をされて平気なタイプには見えない。
 だが先にも言ったように、啓示は至る所に溢れている。今後もその全てを払いのけ、触れずに生きていくことなど出来るはずもない。
「来るかしら」
「さあな」
 店名なら最初のうちに告げていた。
 必要なら、どうあっても調べて来るだろう。


     * * *


「――で、何の用だ?」
 促されるまま、椅子に腰掛けた銀髪男に訊ねる。先日は「金輪際、もう二度と会うものか」とでも言いたげな表情で我々の前から立ち去っていたはずが、その後どういう経緯でここに来ることになったのか。
 全く予想がつかないわけでもないが、この男の口から直接、洗いざらいを根こそぎ引きずり出す過程は楽しめそうだ。
 どうやら本当にあの夜の偶然が、何かしらのきっかけになったようだが、あとでこの話を聞いた際の、紅の悔しそうな表情が目に浮かぶ。きっと「なぜ連絡しなかったのか」と歯噛みするに違いない。それはそれでなかなかに愉快だ。
「ここは主にMの客向けのSMクラブだぜ」
 不特定多数の客に、演出付きのプレイを見せるショータイプの店ではないが、希望するならMの気分を味わってみることなら出来る。或いはカップルで来て、Mの方がパートナー以外のSに責められるのを(結果的にはカップル同士で)楽しむのもよし。
「いや、そうじゃなく」
「だろうな」
 そう言うと思っていながらわざと聞く。いつもの習慣だ。
 でも残念ながらこの店は都内でも数少ない、Sのスタッフしかいない店なのだ。俺も紅も、客がどれほど盛り上がった挙げ句に熱望したとしても、Mへのロールチェンジなどという「ご褒美」は一切受け付けていない。また客が興奮と陶酔の果てに達する分には一向に構わないが(当然それも更なる加虐の口実になるわけだが)、我々自身は本番行為はもちろんのこと、それに類する性的なサービスについても一切行っていない。よって客も、その事を知っているMしか訪れない。或いは、Sに連れられてきたMか。
 巷でSMクラブと称して営業している所は、ほぼ98%までが多かれ少なかれ、サービスの中にセックスの要素が入っている男性向けの店だ。一般的にはサイト上の顔写真などで好みの女性とコースを選び、指定されたホテルにて道具一式を持ってきたスタッフとおち会う。けれどこの店はそういった事を行わない、業界の中でも特殊な――ある意味ごく真っ当な、今も正統派を貫く国内でも数少なくなった店だ。
 そんな店に需要などあるはずがないと、前出のような店に通う自称Sの男達は思うのだろう。だがセックス抜きのプレイを望む者は、Mの女性を中心に意外と多い。そもそもセックスとSMは似て非なるものだ。双方をミックスさせることで楽しむのは当人達の自由だが、この店に限っては「本番行為はむしろ萎える」というMのみが集う店になっている。
 そんな場所で、この男が満足するようなサービスなど、あるとも思えないのだが。
 窓のない地下室のため、外の様子はわからないが、まだ気持ち明るい時間帯だろう。きっちりと仕立てのいいスーツを着ているところを見ると、休みを取ってきたとも思えない。
「仕事中か」
「いいや、今日はもう終わりにした」
「紅なら暫くは来ないぞ」
 どちらに用があるのか知らないが、女王様は忙しい。恐らく昼間は全く別の顔だ。
「いや、アンタでいい。大したことじゃない」
「そうか。で?」
「…………」
「なんだ、まさか広告の営業じゃないんだろう」
 実際、飛び込みで営業が来ることがあるのだが、ここは紹介制の店だ。広告は必要ない。オープン当初の客についても、紅がよその店から十数人まとめて連れてきていた。紅クラスの超一級の女王様ともなると、「月100万払ってもいいから、身の回りの世話をさせて欲しい」という奴隷希望者が、常に複数いるのが普通だ。長い鎖に繋がれたM男達が彼女の帰りを待ち侘び、掃除や洗濯、炊事など、各自に割り当てられた家事で「お仕え」するわけだが、その手際は鮮やかで、普段の職種が何なのか想像もつかない細やかさだ。ただ現在のところは、誰の申し出も受けてはいないようだが。
「―――…」
「どうした、黙ってちゃわからんぞ」
「―――…」
 それでも男は、目の奥で何事かをじっと考えながら逡巡している。
「喋れないようなら、楽に喋れるようにしてやることも出来るが?」
 言って暗いホールの方にぶら下がっている、滑車の付いた吊し上げ用のロープに視線を向けると、「悪趣味だな」と鼻で嗤っている。
「その悪趣味な店に、わざわざ仕事を切り上げてまで足を運んできたのは誰だ」
「―――…」
「心配するな、ここはそういう店なんだ。お前が何をどう切り出そうが俺は驚かん。お前達二人が単なる知り合いじゃないことくらい、隣りに座った時からわかってたしな」
 わざわざそこまで言ってやったところで、男はようやく観念したらしかった。
 いや、楽になったというべきか。
「実は、あの後…」
 一つ胸の奥で溜息を吐いたと思しき銀髪男が、俯き加減で喋りだしている。
 二人は彼…カカシの家で呑みなおし、その後セックスに及んだのだという。
「…でも、なんか変だった。イルカは決して嫌がってたわけじゃないし、どこがって言われてもわからない…。けど、いつもとは何かが違うっていうか、時々…上の空というか…」
 その時の記憶を手繰りながら、慎重に言葉を選んでいるらしい男の細長い手指が、無意識のうちに鼻や口元を触っている様をじっと伺う。
「それは――ただ単に、お前があの店での苛々を引きずっていただけでは?」
 こっちはあの後、嫉妬深い男が気のいい恋人を苛立ちに任せて痛めつけてはいないかと案じていた。何の知識も無い素人が逆上して行う、「SMまがい」の行為くらい危ないものはない。「まがい」なのだから本来のSMなどでは決してないのに、そういう輩のお陰で「SM=危険行為」とみなされて、こっちは大いに迷惑しているのだ。
「いや違う。逆だ。アンタらに影響されたなんて絶対思われたくなかったから、そんなことおくびにも出さなかった」
(ふ、絶対、か…)
 結局その夜、我々との一件は最後まで話題にしなかったという。恋人もその雰囲気を察したのか、一言も触れてこなかったことから、この話はその夜だけのこととしてバスルームの排水溝へと流れていった。
 はずだった。

 だが、そんなことがあった数日後の昨夜。
 再び会って行為に没頭した後、ベッドで抱き合ってうとうとしていたところ、愛しい恋人が彼の耳元でごく遠慮がちに、「こないだあの人達が言ってたSMプレイって、少し興味があるんだけど、どんなものだと思う? カカシさんは? 知ってる?」と切り出してきたらしい。
「ほう」
 この場に女王様がいないことを残念に思いながら、空気で続きを促す。居たらきっと、彼の鉄壁のプライドを一瞬で踏み潰す勢いで、高らかに笑い飛ばしてくれただろう。惜しいことをした。
「あの人は…イルカは、本当に、本気でそんなことがしたいって思って言ってるのか?」
「今までそんな素振りなんて、一度もなかったのに…」と、まるで自問自答しているかのような男の頬が、心なしかその白さを増しているように見える。
「お前がそう思うなら、単なる冗談で片づければいいだろう」
 今の台詞を、もしもお仕事モードの女王様が聞いたなら、「この腑抜け野郎め!」の一喝と共に、金蹴りか一本鞭が飛んでいるところだ。紅は昨年、この界隈で行われた『罵倒コンテスト』なるもので、ただ一人、連れてきたM奴隷を言葉だけで失神させた逸話を持つ。
(そういう意味では、俺を相談相手に選んで正解だったな)
 俺は、もう少しは優しい。
 いや、「いたぶりにはじっくりと時間をかけるタイプ」というべきか。

「それが…、冗談でしょって、聞き返したけど」
 恋人はいつものように朗らかに笑いながら、はっきり違うと言ったのだという。
「イルカは、いつもオレのことを気に掛けて、優先してくれようとするんだ」
 どことなく遠くで言い訳のようにも聞こえる言の葉を、一言一句慎重になぞっていく。
「いつもお前を優先する? それは、要するにこういうことか? ――お前が内心でSMプレイをやりたがってるんじゃないかと、わざわざ向こうが気を回して訊ねてくれた、と?」
「ぁっ…、……ああ」
「なら簡単だろう。お前が興味がないならない、やりたいならやりたいと、言ってやればいいだけのことだ」
「―――…」
 不安定な沈黙。どうやら今の回答は、彼が腹の底から欲していた答えではなかったらしい。
 そして、プレイは想定通りに進んでいる。

 体に合った仕立てのいいスーツ、ブランドらしきネクタイと、磨き抜かれた革靴。高級腕時計…。普段は自信に溢れ、社会的に成功しているらしい彼も、恋人の前では裸同然のただの男だ。
「一つ、いいか」
 予め彼に聞いておきたいことがあった。これは最初に会った時から気になっていたことでもある。
「なに」
「お前はもう既に、パートナーに対してSまがいの行為をしているんじゃないのか?」
「ぇっ…?」
 途端男の細い眉がぐっと顰められ、やがて心外そうな表情になっていく。
「体の関係が始まったばかりだと、相手の方は何となくそれらしき雰囲気に薄々気が付いていたとしても、上手く言い出せなくて黙っていることがままある」
 またやっている当人も、それがS的行為だと自覚しないままエスカレートしていくというのはよくある話だ。
「いや、絶対にやってない」
「どうかな。それはお前の主観だろう」
 実際相手がどう感じているかなど、自身のことすらまだよく分かっていないような者に、わかるわけもない。
 ただ、そんな風にして少しずつSのパートナーに開発されていくことにより、加虐されている本人の側にもそれまで自覚していなかったM性が芽生えていく例は少なくない。
 もしもそうであるならば、今後も円満にいく可能性は残されているのだろう。
「但し、お前は彼の過去を全て知っているわけじゃない。その恋人のM性を最初に開発したのは、必ずしもお前だとは限らないわけだ。――違うか?」
「っ…! 違う…っ!」
 薄い頬の内側で、奥歯がぐっと噛み締められている様に満足する。普段とり澄ましている者を言葉だけで虐げることなどわけもないが、ここまで独占欲が強いということは、まだ心のどこかで己に自信を持てていないことの裏返しとも考えられる。
 イルカという男は素直で自分を飾らず、傍目にもおおらかで明るい性格だったが、ぎりぎりの状況では腹が据わるタイプのように見えた。
(そんな恋人とは対照的な自分に、無意識のうちにコンプレックスを抱いている…?)
 どうやら俺が楽しむ余地は、まだまだあるらしい。





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