「そうか…、そう…なんだな…。――あぁいや、でもオレ達はいい。遠慮しておく」
 口元から頬にかけてをほっそりとした白い手指で覆うようにしながら、じっと何事かを考えていた男がゆっくりと首を横に振る。
「なんだ、羨ましいと、顔に書いてあるぞ」
「ふん、勝手に書くな」
「まぁお前が何を聞けばどう答えるかくらい、話す前から全てお見通しなんだがな」
 男の腕に絡まっている時計の針の傾きを見ながら軽くあしらった際、全くの無意識のうちに(そろそろ着地地点を…)と巡らしていた己に気付いて、内心で苦笑いする。まさか自分が、こんな行きずりの男の身の上相談に対してまで、殆ど自動的にプレイの筋書きを立てて立ち回るようになるなどとは思いもしなかった。
 『性欲が人間の本能なら、性癖は宿命だ』などと聞くが、果たして自分は何を背負って歩いているのだろう。

「その施設の成り立ちや、そこに集う者達の性癖については、最終的にはどうでもいいことだ。全てはお前のリードの仕方にかかってるんだからな」
「? オレの?」
 まだその話を続けるのかと、一瞬閉口していた目元が、再び真剣味を帯びてくる。
(いい加減観念して、さっさと己と向き合え)
 でないと、出勤してきた女王様に、本気で痛い目に遭わされるぞ?

 そういった施設には、大抵『覗き部屋』とも『鑑賞部屋』とも呼ばれるような個室が用意されているのだが、そのずらりと並んだ二畳ほどの小さな部屋は、廊下側が全て透明なガラスで仕切られていて、中での行為が余すところなく見えるようになっている。
「自身を見せたい者が居れば、見たい者もまた居るからな」
 その個室には、SM愛好家の他にも、男装の麗人と交わる女装の男性や、自分の年の三倍近い年配者との行為に耽る者など、男女のカップル以外にも様々な関係性で成り立っている者達がセックスに興じている。その部屋のガラスの前には、大抵複数の者が立ち止まり、見入っている。
「ぇなに、ちょっと待って」
「なんだ、ここまできてまだ怖じ気づいてるのか」
「違う、もしかしてなに、オレ達がそこで?」
「いい案だろう?」
「――ゃっ…?!」

(いつまでも往生際の悪い奴だな)
 この話、あの黒髪が同席していたなら、もうとっくに終了しているだろうにと、同類特有の優柔不断さを知っているだけに苛立たしく思う。
「いいか、口答えせずに黙って聞け。――お前は、相方の体を極力傷めない形でS行為が出来ないかを相談に来た。そうだな?」
「っ、…まぁ…」
「更にセックスで可愛がって、とにかく恋人を心身共に満足させてやりたいと思っている」
「あっ…、あぁ…」
「向こうは向こうで、お前に自分の希望を聞いて貰えたうえ、日頃から憧れている恋人に愛されている所を、第三者に視姦されるわけだ」
 こんなに玉虫色の妙案もあるまい。
(お前は持ち前の嫉妬心全開で、いつも以上に興奮するんだろうしな)
 その愛撫という名の責めをひたすら全身で受け止め、耐えることになる相方は、さぞや幸せなことだろう。
「もしこの案にハードルが残されているとしたら、お前のそのちっぽけな体面くらいのものだ」というと、男は満更でもなさそうな様子で苦笑いしながら「ま、確かに」と小さく肩を竦めてみせた。

「まぁ一度、二人でよく話し合ってみるんだな。行く行かないはそれからだ」
 差し出された名刺の裏に幾つかの連絡先を書き出して、男の前へと差し戻すと、男が「わかった」と一つ頷く。
 もしもその館に行き、いつにない強い快楽が得られて、二人の間の絆が一層深まったと感じたなら。
 それはもう、立派なSMプレイだ。

 その施設で自分の望む形のセックスを存分に楽しんだ者達は、気の合った者達と和やかに食事をしたり会話を楽しんだりして、数日中には再び元の暮らしへと戻っていく。その晴々として仲睦まじい様子を見るにつけ、そこに集う人々に、誹られたり蔑まれたりするほどの異常性があるとは到底思えない。
「そんな場所がねぇ…」
「ああ。あるんだ」
 SMが下火になったと言われる今日でさえ、国内各所に何か所も存在している。必要に応じて自然発生的に出来てきたわけだが、その半数近くは個人所有で、アブノーマルを自覚する施主が、自身の楽しみも兼ねて建てたものだったりする。

「ね」
「なんだ、まだ文句があるのか」
「いや違う。さっきアンタが言ってた『イルカが日頃からオレに憧れて云々』て部分だけど」
「それが、どうした」
 何やらすっかり締まりの無くなっている優男のご面相に、俺も随分と甘くなったなと思う。実際に体に当てる当てないは別としても、入荷したての鞭の具合を試すまたとない機会だったはずなのに、いつの間にか話に夢中になってしまい、惜しいことをした。
「お前、気付いてないのか」
「ぇっ、何を?」
 その心底意外そうな様子に、男の中にいまだ残る純粋な部分を垣間見た気がしたが、こっちにとっては全くどうでもいいことだったなと思い直す。
「面倒だ。自分で考えろ」
「ぇちょっ?! なにそれ〜!」

 別に何と言うことはない。Sは子供の頃から相手を責めることで快感を感じてきたわけだが、Mは「強い憧れの対象に」辱められることで快感を覚えている、というだけのことだ。
 ただ単に好きという言葉だけでは到底表現などできない、自分にとって永遠に特別な存在。それがMにとってのパートナーなのだ。
 そんなものになれたというだけでも、銀髪男は己を褒めて認めてやり、コンプレックスごと受け入れれば良いではないかと思うだろう。だが実際には、言うほど簡単な話ではない。
 先にも触れたが、Sは感覚で行動することが多く、直感的に物事を判断して反射的に動いてしまうことから、若いうちは軽率な行動をとってしまうことも少なくない。
 だが相性の良いMと出会い、今後様々な経験を重ねていくことが出来れば、落ち着きのある、懐深い人物になる可能性も残されている。
 恐らくイルカという男は、この男が密かに抱いているコンプレックス以外にも、まだ見ぬ素養や伸びしろまで殆ど無意識レベルで感じ取って、大いなる憧れを抱いているのだろう。
 もう既にあの黒髪は、見栄と合理性だけは人一倍な恋人の足を、わざわざこんな辺境にまで運ばせるだけの力を備えているのだ。
 果たして彼はこの先、どのようにしてこの男を育てていくのか。
 それはそれで、なかなかの見物ではあるのだろう。


「相談料、払うよ」
 腕の上で回っている針の傾きを見て、結構な時間の流れに気付いた銀髪男が立ち上がっている。その低く甘味のある声音は、ここに入って来た時とは別人のようにクリアだ。
「それなら必要ない。もう貰ってる」
「え? なに、それってどういう…、ってまさか?!」
「あぁ違う違う。お前の恋人はここには来てないし、連絡を取ったわけでもない。少し落ち着け」
(まったく…)
 こちらに向かって、本気で怒りのスイッチを入れかけている男をいなしながら、内心で溜息を吐く。
「いいか、この店は加虐を望む者に加虐のサービスをして、それによって彼らが快楽を得ることで、初めて報酬を貰う店だ」
 相手が誰であれ、望まない客に望まないことをして金を貰うつもりなど、毛頭ない。
 しかもだ。
「最初に会った日の夜、お前達が一皿奢ってくれただろうが」
「は……? …あぁ、あれ〜?」

 あのイルカという男が我々に声を掛けてきたのは、本当に酔っていただけの偶然だったのだろうか。今となっては、単にそれだけとも思えなくなっている。
 そんな聡い恋人が、『あなたが与えてくれるものなら、それがどんなものであれ、きっと丸ごと、全部受け止めてみせる』と暗に言ってるのだ。
(受け取ってやれ)
「でなきゃ俺が頂くぞ」というと、銀髪男は今度こそ本気で細い両の眉を一気に吊り上げた。
「あぁもういい。洒落のわからん馬鹿者はさっさと帰れ!」
 そして、恋人とせいぜい確かめ合うがいい。
 顔の前で、片手をぶんとぞんざいに振った。

 イルカという男が真性のMなのか、はたまたどこまでも疑り深い恋人に対して、「例えどんなことをされても、あなただけを愛し続ける」ということを証明したいがために、たまたま手近にあったSMを匂わせただけなのか。それは俺にもわからない。
 だがあの二人なら、それがどんな道のりであれ、辿り着く先はいずれも同じだろう。



(――ったくあの野郎…、惚気るだけ惚気ていきやがって…)
 男が地下室の扉を押して出ていき、届いたばかりの真新しい鞭を改めて箱から取りだしているうち、不本意ながらにわかに舌打ちをしたくなっていた。
 実は今しがたの相談そのものが、彼の訪問の目当て……要は最初から惚気目的だったのでは? と、不意に思い当たったのだ。
(あぁくそ、こりゃまんまとやられたな)
 第一印象で、自分と似たものを持っているはずだから注意しなくてはと思ったにもかかわらず、いつの間にか失念してしまっていた。それこそ似た者同士だったからだろうか。
 彼はこの店内で、俺と話してそれなりの時間を費やしたのだ。
 どのみち、もう会うこともないのだろう。

(やはり『間接調教代』とでも称して、きっちり料金を請求してやれば良かったか)などと巡らせながら、誰も居ない地下室で一人、柄にもなく片笑んだ。





              「お前は俺で出来ている」  了





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