「ふうん。――SMねぇ〜」
 ここにきて、急に満更でもなさそうな表情で白い頬を撫で回している男に、警告の意味を込めて、今一度釘を刺しておくことにする。
「俺はさっき、『Sは心のどこかに、必ず劣等感を抱いている』と言ったが」
「ぁ、あぁ…?」
「では、Mが怖いものとは、何だと思う」
「Mが…?」
 どうやら実在の人物に置き換えて考えているらしい男が、うーんと考え込んでいる。が、幾らもしないうちに「ダメだ、わかんない。そもそもあの人に怖いものなんてあるわけ?」と白旗を上げている。
「ああ。突き詰めていけば、な」
 彼らが恐れるもの。それは、『自分自身』なのではないだろうか。
 自分の元を訪れる幾多のMを見ているうち、いつしかそう思うようになっている。
「自分、自身…」
「ああ。もっと言うなら、『自由な自分』が怖い」
 「何でもお前の好きにしていい」と言われ、自由にされてばかりいると、何をするかわからない自分が怖い。
 だから心の底から信頼できる絶対者に、エスカレートしていく妄想ごと強く強く束縛して貰い、激しく責め立てて貰うことで、彼らはその都度無意識のうちにも確認をし、心の底で安堵する。
「――そうか…」
「イルカがどのように考えているはわからない。だがその思考回路については、あながち分からなくもない」と男は言った。
「とはいえ、Mは一度強い関係を結べば、Sと違って浮気はしないがな」
 どんな辛いことがあっても、例えそれがSの一方的な浮気や裏切り行為だったとしても、「ひたすらそれをじっと耐え忍ぶこと」が、強い快感に繋がっているからだ。
「まっ、それについてはね、知ってた」
 急に満更でも無さそうな、得意気な表情で自信ありげに頷いて見せている。『自分が恋人に見限られることなどあり得ない』と言いたいらしい。
「嘘をつけ。さっきまで思春期の中学生並みに狼狽えていただろうが。無様だったぞ」
「知ってたって〜」
 ここにきて、だんだんと減らず口が滑らかに回り出した男に、またそろそろ虐げ時かと思惑を巡らす。
 さあて、どこから責めようか。

「Mは心から信頼できる一人の相手にのみ愛されたいと思う者が殆どだ。そしてその一人にのみ、一生尽くしたいと考える」
「あ〜、わかるねぇそれ〜」
 テーブルに片肘をついた優男が、上機嫌といった様子で続きを促している。
「だがお前も、否応なく次第に老いていく。そのうち恋人を悦ばせるだけの体力や気力や経済力も無くなってくるだろうな。当然思わぬ病や事故で、それら全てをいっぺんに失うことだってあり得る」
「なっ…?」
「或いはお前が、男の恋人を夜ごと調教していることが会社に知られて、それまで築き上げてきた地位が危うくなる可能性も、全く無いとは言えないぞ」
「っ…やめろっ!」
 みるみるうちに男の目の色が変わり、白い頬が固く強張っていくのを、注意深く観察する。
 だがもし本当にそうなったとしても、一途なMは相方の美醜や財力や肩書きなどには囚われないのだ。そもそもMにとって窮地という状況は「耐えるに値する快感」なのだから、実はSが思うほど心配することもなかったりする。そういう意味では、SとMという関係は良く出来ていると言えるのだろう。
(ったく…あれだけ何度も繰り返し説明してやってるのに…)
 人の話を聞いてないからだぞ。馬鹿者が。
 そう。良くも悪くも、Mより遙かに体面を気にするSは、大抵の場合そうは考えないのが普通なのだ。
「お前がそんな惨めな状況になって、『もう自分は、これまでのように恋人を悦ばせてやれない』となった場合、相方はMとして開発された体を持て余してしまう。そんな時、お前ならどうする?」
「どうするも…こうするも…っ」
 薄く滑らかな肌のすぐ下で、言葉に尽くせない葛藤が渦巻き、心身を掻き毟っている様をじっと窺う。
「ふん、なら口先だけでどうにも出来ないまま、ただ途方に暮れているだけの無策で情けないお前のために、一ついい方法を教えてやろうか」
「………」
 内心では明らかにその『方法』に不信の念を抱いて訝しんでいるが、それに代わるだけの良策をいまだ思いつかないでいる男が、結果として先を促している。いいだろう。
「この国では年に数回程度、『奴隷市場』というのが開催されていてな。全国から奴隷を買いたい者、売りたい者が集まってきて、M女、M男の交換会を行う」
「やめろ! オレはそんな話に興味は無い!」
「無責任極まりないお前の興味など聞いてない。お前の伴侶の幸せについて訊ねてるんだ」
「っ…!」

 奴隷市場では、様々な事情から奴隷を手放すことになった者達が、全国から集まってくる。もちろん買い手もそれ以上の数が集まって値踏みが始まる中、Mは主人の命により自らの手で一枚、また一枚と裸になっていく。Mは当然売られたくなどない。ずっと主人一人に仕えていたいのに、命令されると従わざるをえない。
 例え初めて出会ったときはイーブンな恋愛関係だったとしても、その後SMプレイに熱中して長く続けていると、次第に主従の関係に傾いてくるものだ。するとMは、『恋人を愛しく思う』というのとは少し違ってきて、ただ黙ってひたすらご主人様の命ずるまま動くようになってくる。
「そんなの嫌だ、何か違う。イルカも望んでない!」
「どうだろうな? Sのお前は望んでいない、というだけでは?」
「ちがう…っ!」
 やがて壇上に立った主人は、長年可愛がってきたMへの最後の手向けとばかりに、衆人の前に露わにされた性器を竹鞭で指し示しながら、新しいご主人様にどのようにお仕えできるかを、当人自身に事細かく喋らせたりする。
 そしてMは最後に、『どうか宜しくお願いいたします。新しいご主人様に今ひとつ、値を弾んで頂きたく思います』などと言わされるのだ。
 だがそれら一連の行為を誹ることは、誰にもできはしない。
 Mにとってその絶望のどん底ともいえる状況は、これ以上ない苦痛であると同時に、気絶しそうなほどの快楽なのだから。

「くそっ、オレは絶対にイルカを手放したりしない! 例えイルカが別れてくれと言ったって絶対だ! 絶対に別れない!」
「ほう?」
 ついさっきまでリラックスして片肘をついていた手が、テーブルの上で白くなるほど固く握り締められている。殺伐としたビジネスシーンにおいても、恐らくここまでの屈辱を味わったことはないのではないだろうか。
「いつまでも自分を隠すな。隠しているから苛立つんだ」
 SMは、己を解放しきった者だけが楽しめる、大脳をフルに使ったコミュニケーションだ。彼らの行為を見て眉を顰め、声高に誹り、白眼視する者は、全てを余すところなくさらけ出すことは即ち悪として、自身に枷をはめてしまっている者だろう。
 ちなみに、そういった人々に『異常者』と呼ばれている者は、昼間はそのレッテルを貼った者達以上に背筋の伸びた、立派な紳士・淑女で通っていることが殆どだ。

「いいか、自分をさらけ出すことを恐れて、いつまでも同じ場所に留まっているようでは、あの腹の据わった恋人とも本当の意味では楽しめないぞ」
「そっ、それは…っ、――とにかく! オレはイルカと主従なんて関係にはならない! なりたくない!」
「ふん、それでも恋人の望みは叶えてやりたいと思っていて、お前も少なからず興味はあると?」
「っ…」
「また随分と厚かましい望みだな」
 それでも、最初はただひたすらに頑なで通していた男も、どうやらここにきて、ようやく何かしらの変化が必要なことには気付きだしたらしい。
(さて、どこまで勇気を出せるか)
 お前の言う「愛しさ」とかいうものが一体どれほどのものか、もう暫く見てやるとしよう。
 
「そうだな。方法は――全くないわけでもない」
 すると、こちらから視線を逸らしてばかりだった男と、正面から視線が合った。
「そこなら、二人の望みを同時に叶えることも出来るかもしれない。――全ては、お前次第だがな」
(優男の顰め面を見るのも、そろそろ飽きてきたしな)
 いい加減、腹を決めろ。

「全国には、ノーマルお断りの『アブノーマルの館』とでもいうような宿泊施設が、十数軒ほど存在するんだが――」
 しかしそこまで言うや否や、もうはや男の細い眉がぴくりと動いて不快感を示している。とかく理性とは異なる、感覚の部分で物事を即断しがちなSは、一旦昂ぶりだすとMのような冷静さに欠けるため、話がしづらくていけない。
「いいから落ち着け。――その施設は殆どが会員制になっていて、解放を求める者達の貴重な出会いの場になっている」
 都心からもほど近い山中に、近年建てられた大型の山荘を例に挙げると、内部は建設当初からスワッピング専用に設計されていて、吹き抜けになっている二階や三階から、一階の大広間で繰り広げられる行為を見学出来るようになっている。
「スワッピング…?!」
「あぁ。でも俗に言われてるような乱交パーティーなどと訳すな。パートナー交換だ」
「くそっ、やめろ、しつこいぞ。何回言わせるんだ。イルカを誰かと交換だなんて、絶対に断る!」
「そうか? それは本人がいいと、言ってもか?」
「言わないし、言ってもダメだ!」
 それこそ柱に縛り付けてでも行かせるものか、という勢いで息巻いている。
 もちろん彼が嫌がるとはなから分かっていて話しているわけだが、自分の恋人には例え誰であれ、指一本すら触らせたくないと言いたげなその口ぶりは、そのまま男ののめり込みの深さを現してはいるのだろう。簡単には一途になりにくいSには珍しいことだ。
「会場に行って誘いを断るのは自由だが、今の否定の感じからすると、お前はパートナー交換というものに偏見を持ってるようだから、話のついでに言っておくがな」
「そ…?! 当たり前だろう?!」
「当たり前? そういった施設に連れだってやってくるカップルの殆どが、希に見る強い絆で結ばれていてもか?」
「ぇ…?」
 でなければ、最初から会場になど行かない。己の気持ちに自信が持てないからだ。或いは『未来の自分とその暮らしに責任が持てないから』ともいえる。
「それら一切の不安を乗り越えてその施設にやって来た者達だが、長年連れ添った伴侶が、自分以外の異性と抱きあっているのを目の前で見ると、どうなると思う」
「ゃどうなるって…」
「わかりきったことを聞くな」とでも言いたげな、けれどどこか完全にはそう思い切れてない、不安定に揺らぐ目元を黙視する。この男、己に対する自信のなさから出た嫉妬深さが邪魔をして、素直なものの見方が出来なくなっているようだが、その枷さえ外れれば、案外早くいいところまでいくのかもしれない。
「気をつけろ。お前の思い込みは、相方にまで無用の枷をはめることになるぞ」
「な…っ、どういう…」
「まず、妻がよその男に抱かれているのを見た、夫の方だが」
 実はそれまで以上に、妻を可愛く愛おしい存在と感じるようになる。そしてよその女性を抱いている夫を間近で見た妻の側にも、「やはりあの人は私でなくては」という確信にも似た思いが生まれて、行為が終わった後はそれまで以上に仲睦まじくなって帰っていくカップルが殆どなのだ。
「ぇ…」
「ふん、一体どんな魔法を使ったのかって顔をしてるな。別に種も仕掛けもない。その二人の間に、それまでは存在しなかった軽い屈辱感や嫉妬心といった感情が芽生えるからだ。敢えて自分達の間に他人を介することで、新たないい刺激を貰うというわけだ」
 もちろん一口に他人といっても、同じ価値観を持った、信頼できる他人を選ぶ必要があることは言うまでも無いが、そういう意味では屈辱や嫉妬といった、一般的にはマイナスとされている感情も、使い方次第なのだろう。全ては本人次第なのだ。
 愛好家達の間では親しみを込めて、「夫婦交際」と呼び慣わしたりもしているが、長年に渡って擦り込まれた道徳心より、今目の前にいる伴侶との仲を選んだ彼らが得るものは、リスクなど遙かに上回る大切なものに違いない。





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