人の心理は複雑で、時に裏腹だ。思っていることと真逆のほうに体が動くこともある。だからこそ、人は面白い。
 酷く不本意そうな表情は隠さないものの、どうしてもその場からは立ち去れないで座り続けている男に、更なる辱めを加えることにする。
「今お前は、アカの他人の俺の前で、恋人とのセックスの悩みを打ち明けたわけだが」
「っ…」
「終始恥ずかしがって、面子を気にしていただろう」
「やっ…、別に…」
「今更何をどう否定したところで無駄だ。少なくとも、『こんな店に出入りしているところを、もしも同僚や取引先の者達に見られたら』――。ここに来る時、お前は心のどこかでそう思っていたな?」
「そっ――、…あぁ…まぁ…」
 Sはよく仕事をするが、同時に体裁を気に掛け、「格好悪いことはしたくない」と思う者が多い。この銀髪についても、恥を忍んでここまでよく喋ったほうだろう。
 正確には『恋人を人質にとって、半ば無理やり吐かせた』というべきかもしれないが。
「だがな、Mといわれる連中は、そういったことには頓着しない者が多いんだ」
「ぇ…」
 と、それまで斜め下の床に視線を落としていた男が、ハッとしたように顔を上げる。
 先にも言ったが、Mは面子や見栄といったものには囚われない。頭がよく、秀才タイプも少なくないが、自分が他人から実際より小さく見られたとしても一向に構わなかったりする。服装や持ち物も全くの自分基準で、ブランドには一切左右されない。そこにはSのような「自らを大きく見せる計算」などというものが働く余地は無い。むしろ自分を小さく見せる方向に神経を使ったりする。概して腰は低い。
「それと、柔軟で協調性があるようにも見えるが、基本的に連中の根っこは個人主義だ。Sは合理的だから、問題は複数で解決しようとするが、Mは難題を抱えても誰にも言わず、周囲にも頼らないまま、自分一人で何とか解決しようとしたりする」
「ぁ…」
 男の瞳が一方向を向いたまま、大きく見開かれているのを視界の端に見留めながら、話を続ける。
「例えば、何らかの経済的事情で、両者がホームレスになったとする――」
 Sならすぐにその状況に耐えきれなくなって、是が非でも抜け出そうと周囲に助けを求めるが、Mはその進退窮まった状況を自発的に続けてしまう可能性がある。
 自分が刻一刻と破滅に向かっていると認識するたび、得も言われぬ快感を感じてしまうためだ。

「っ…、じゃあ、もしも、だ。もしも…その…っ、イルカが…Mだった、場合…」
 男は芯の抜けた声で、何とか先を続けようしている。
「パートナーであるお前は、どうすべきか?」
「――あぁ…」
 だがこれについては前にも言ったように、『これが正解』というものは存在しない。当然Mの望みは人それぞれで、それこそ千差万別だからだ。
 それでも敢えて言うならば、Sの役目とは、『Mが本当に望んでいることを、どんどん先回りしながら叶えてやる』ということか。
「――望んで、いること…?」

 あの飲食店で隣り合って座った夜。
 最初に行った封筒開封や洋服畳みについての問いは、「SかMか」を見分けるものではなかった。
 本当の意味でのSMプレイにおいて、『将来いいSになる、最低限の資質があるかどうか』という部分を見ていたに過ぎない。
 よって小さなことでも面倒がらず、「封筒をハサミで切る」者、「部屋着をきちんと畳む」者がそれに合致するわけだが。
 実はこの国には、真性のM達が心から欲する、本当の意味での「いいS」というのはとても少ないのが実情だ。殆どは自己中心的で、単純な支配欲や加虐心だけの「自称S」のため、そのままではMが心の底から望んでいるようなことは出来ないからだ。

「お前は、SとMでは、まずはどちらが『ありき』だと思う?」
「ありき? どちらって…、そりゃ……50:50じゃ?」
 問われた男が『卵が先か、鶏が先か』と聞かれた時のような、怪訝そうな表情をしている。
「違うな。SとMの関係についていうなら、まずはMありきだ」
 Sがいつ何時も全面的に主導権を握っていられるのは、政情不安などの非日常が常態化している国だけだろう。さらに家長制度も崩壊したこの国では、増えるのはMばかりだ。
 その背景の根底には、決して抗うことの出来ない『絶対者に対する思慕』が見え隠れしている。
「思慕ねぇ…。ま、確かにその方が平和だろうけど?」
「まぁMでない者から見ればその程度の認識だろうな。だがMの当人達にとっては、言うほど簡単な話でもないぞ」
 さっきも言ったが、「Sである」ということが、そのまま「世のMが心底待ち望んでいるような理想のS」かというと、全くそうではないからだ。
「Mだからといって、誰にでも苛められたいわけではないしな」
「ま、だろうね?」
 彼らMが加虐して欲しい相手は、基本ただ一人だけ。想像の中では、不特定多数からの責めで気持ちを昂ぶらせたりすることもあるが、実際には心から信頼できる相手にのみ、『自分が感じるように』苛めて欲しいと願っている。
 SはそんなMに対して、「どれだけ相手の望む快楽を、加虐という形で与えてやれるか」を、常に先回りしながら考え、実行してやれなければ、Mの理想の相手で居続けることはできない。
 実際妄想が膨らんでいきやすいMの客達は、みなある程度自分の中に独自の「設定」を持っていて、こだわりや要求が多く、驚くほど手が掛かる。ただ闇雲に苛めていればいいなど、勘違いも甚だしい。
 いいSは先読みに長けていて、結果から逆算しながら全体の計画を立てることが得意でなくては務まらない。なおかつ常に冷静にそれらを実行でき、更に縄や鞭などの道具を使うなら衛生面にも配慮しなくてはならないことから、器用さや几帳面さも必要になってくる。
「例え自分はその瞬間気持ちよくなかったとしても、相手のためにどれだけ責めてやれるか」
 これが巷で『SはサービスのS』と言われているゆえんだ。
 Sは、ただSに生まれついたというだけでは、Mを満たすことは出来ない。パートナーのMに育てられることで、Mに奉仕する心地よさを知り、「いいSになっていく」というわけだ。

「向こうは、その時なんと言っていた?」
「は?」
「彼の望みだ。その時なにか言っていたか。もし縛って欲しいと言っていたなら、プロのM女を…希望するならM男でもいいが…ここに呼んできて、俺が緊縛の手順や注意事項等のレクチャーをするくらいなら出来るが?」というと、即座に「いや、いい」と首を横に振っている。当人は興味があると言っただけで、具体的には何も言ってなかったらしい。
「そうか」
 恋人が緊縛を好むのか、それともスパンキング(鞭打ち)が感じるのか、はたまた言葉で責められるのがいいのか、もしくはそれ全てか、或いはそれ以外なのか。
 幾ら俺でも、そこまではわからない。
 言葉責め一つとっても、相手の背景や価値観がきちんとわかっていなければ、強い羞恥心を抱かせることができず、プレイそのものが滑ってしまうことになる。緊縛にしても同様だ。縛るたびに相手を肉体的に傷付けて不安しか与えないようでは、信頼関係に亀裂が生じかねない。
 それらは全て、彼がパートナーの様子を注意深く観察しながら、一つ一つ段階を追って慎重に進めていくべきことだ。その過程は試行錯誤の連続で、素人同士では初めは上手くいかないことも多いだろう。それでも常に相手のことを思い、気持ちよくさせてやりたいと本気で思っているSならできるはずだ。
 Sの何よりの悦びとは、『Mが自分の立てた計画に従ってくれ、その先で快楽を得てくれること』なのだから。

「なるほど、そういうことか。じゃあSから見れば自分がシナリオを書いて主役を演じてるように思えるけど、本当は…」
 今までどこか否定的な面持ちだった男が、ようやく納得のいった様子で頷いている。どうやらその「関係」は気に入ったらしい。
「そうだ。Sに自分好みのシナリオを書かせて、その通りに動かしているのは、実はMのほうだ」


 SMとは、互いの想像力を介して、精神と肉体とをフルに使った、非常に創造性に富んだ行為だ。セックスは他の動物も行うが、SMに関しては人しか行わない。
 とはいえ、サービス仲介サイト上などでよく見かける、「好みのシチュエーションを、訪問前に指定する」というようなことは、この店ではやっていない。先が安易に見通せるようでは、妄想の膨らみにも自ずと限度がある。それこそ創造性に欠け、真の興奮や快楽に欠けるというものだ。
「先が余りに知れてるようなジェットコースターじゃ、所詮てことね」
「ああ」
 よってこの店では、「Mの方はNGワードをお知らせ頂ければ、絶対に言いません」などという、半端な生ぬるいサービスもやっていない。
 Mは屈辱に耐えるからこそ快感なのだ。言って欲しくない台詞を本人が予め決めて排除しているようでは話にならない。何を言い、何を言わないようにするかは、その場で我々が判断して決める。
「ごっこ遊びこそ、本気でやれ、か」
「ごっこ? ――ふん、所詮遊びだなどと舐めてかかってると痛い目を見るぞ。さっきからなぜ俺が、お前に厳しく言っているか分かるか?」
「は? ――なぜ、ねぇ…?」
 再び「勿体つけがって…」と言いたげな顔が、小さく首を横に振りながら続きを促している。
「甘いな」
 この男、恐らくSの要素や素質は少なからずあるのだろう。ただ二十数年に渡って身に染みた社会通念や体面、そして純朴で気のよさそうな恋人の手前から、己の性癖をいまだに受け入れきれないで、どうすべきか迷っているのではないだろうか。
「――真性のMが本当の快楽を知って突き詰めていきだすと、必ず「死」に近付いていくからだ」
「死…」
 そう、例え傍目にはどんなに苦痛の少ないプレイに見えたとしても、彼らMだけに見えているその遙か延長線上には、常に薄ぼんやりとではあるものの、「死」がちらついている。だからこそ彼らは興奮するのだ。
 時々、二人でSMプレイを楽しんでいたはずが事故になり、「Mが死んでしまったのは、いきすぎたSのせいだ」などと騒がれることがある。だがそれは往々にして、Mが懇願した挙げ句の事故であることが少なくない。確かに行きすぎた行為をしたのはSなのだが、Mが望まなければ決して行われなかった、という事例は枚挙に暇が無い。
 彼らMにとって最高かつ最上の快楽とは、即ち死なのだ。
 Sは、どんな時もそのことを忘れてはならない。

「………」
「どうした、怖じ気づいたか」
 テーブルの一点を見つめたまま、瞳の奥で何事かをじっと考えている男の、面に出来た陰影を注視する。
「別に…怖くはない」
「そうか、ここでは幾らとぼけても構わんが、後で要らぬ恥を掻くだけだぞ。SMをやってみたいと言ったお前の相方は、そんな下らないプライドには縛られていないはずだが?」
 言うと、落ち窪んだ眼孔の下で瞼がぐっと閉じられて、白い眉間に皺が寄っていく。
「いいか、もう一度聞く。お前の今の本心は――『もしも自分が本格的にSに目覚めて、歯止めが効かなくなってしまったら…』――そうだな?」
「…っ、……あぁ」
「ふん、ごっこ遊びのつもりの初心者が、今からそんな心配をするとは気の早いことだな」
 男曰く「初心者だから心配なんだ」とのことだが、SにしろMにしろ、アカの他人に乗せられ、言い含められた程度で嗜向が発露することはまず滅多にない。
 だが、パートナーに求められた場合は別だ。それがきっかけで目覚めて応じられるようになったなら、お互いそんなに幸せなことはないだろう。
 逆に応じて貰えずに破綻に至った者は、一人空想の世界に身を置くか、或いはこういった店に捌け口を求めるか、さもなくばその者がM男であるなら、M専門の女性が居るソープランドに行くくらいしかしか自分を鎮める手立てはない。
 けれど、あのくっきりとした目縁一杯に情愛を滲ませていた黒髪なら。
(例えこの先何があったとしても、お前の案ずるようなことにはならんだろうよ?)
 SMは、誰もが楽しめるというものではない。だが幸運にもその性に恵まれた者は、想像力をフルに使うことで、互いの絆の強さ、確かさを確かめあい、幾多の不安を共有して乗り越えながら、より信頼を深めていくことができるようになっていく。

 それはとても――、そう、エロティックな関係だ。





        TOP    裏書庫    <<   >>