「えぇ〜〜、またですかーー?」
「こらカカシ、またって言わない。そんなことを言っていると、任務を割り振られた時にも、いつの間にか言うようになってしまうよ」
「―――…」
 少年は黒い口布の下で、小さな口をきゅっと閉じて俯いた。
 異例の早さで上忍になって半年ほど経つが、このあと特に急ぎでやることがあったわけでも、慣れない片目で読んでいた本の続きが気になっていたわけでもない。でも火影でもある師匠がこれから自分にやらせようとしていることには薄々気がついていて、何となく気がすすまないでいた。
「いいね? この鍋をチョウザさんのところに持っていくんだ」
(うーー今度は鍋か〜)
 小鳥に呼ばれた時から何となく嫌な予感はしていたが、やはりだった。玄関から出てくるや、間髪入れずにホイと調子よく両手鍋を渡されて、内側でこっそり呟く。しかも真新しい銅製の鍋はかなり大きくてピカピカで、目立つことこの上ない。さらに中からは“俺はここにいるぞ”といわんばかりにカレーの匂いがぷんぷん漂ってきている。
(カッコわるぅ…)
 上忍でこんなおつかいごとをしているヤツなんて、木ノ葉の里広しといえども他にはいない。断言できる。
「料理のおつかいなら、リンにやらせればいいじゃない」
 まず撤回は無理なこととは知りつつも、つい最後の抵抗を試みてしまう。だって前回も、前々回のおつかいも、その……何となく………だったから。
「こんな重いもの、リンはそんなに長いこと持てないよ。いいかい、鍋の中のものをこぼしても、食べてもだめだからね。秋道さんの家の場所も教えないから、自分で調べて行きなさい」
(んなの食べないし、知ってるって!)
 たぶん彼の家なら、大人から子供まで、里の誰もが知ってるだろう。
 里でも飛び抜けて大きな門扉に、これまた大きくて分厚い表札が、これ見よがしにかかっている。広い庭では並外れて大きな体の当主が毎朝四股を踏んでいて、派手な地響きを上げている。よく家が倒れないな、いやもうそろそろかな、などと思いながら、派手な朝稽古を横目に見ている人も少なくないはずだ。

(まっ、もし倒れてきたとしても、あのひと一人で十分支えられるだろうけどね)
 結局、大きな寸胴鍋を持って裏路地を急いでいる。誰かに見つかるのが何となく恥ずかしいような気もするから、こうなったら一刻も早く届けてしまうに限ると、目的地に向かってひたすら駆けている。
(ったく、なんなんだよ、先生〜)
 先週から急に自分にだけ「おつかいごと」を命じてくるようになっていて、一体どういうつもりなのか気になり始めている。
 もちろんそれらは、間違っても任務などではない。でも上忍という立場にも少しずつ慣れてきたし、怪我をした左目もほぼ完治して、以前と同じように任務をこなし始めている自分に、なぜか先生はそれとは逆行するようにして、一般人の子供でもできるような、ごくごく簡単な「おつかい」レベルのことを度々命じてくるようになっていた。
 最初に行かされたのは、日向家だ。



     * * *



「こんにちは、火影様からの手紙です」
「なに、ミナトからだと?」
 門前と玄関前でそれぞれ取り次ぎの者に用件を伝えてからたっぷり数分後。
 奥の道場から歩いてきた日向ヒザシに頭を下げると、当主は気持ち乱れた道着の襟をきちんと正したのち、差し出した書状を受け取っていた。
 汚れ一つ無い黒い道着が、すらりとした長身を包んでいる。下忍の頃は、てっきり分家の彼と宗家の当主は同一人物なのだとばかり思っていたが、実は双子の兄弟なのだと聞いて、影分身説を心密かに訂正していた。
 どうやら背中を覆う真っ直ぐな長い黒髪は、代々長く伸ばすよう決められているらしく、その出で立ちから日向一族は大抵すぐに見分けがついた。ただそこには、『どんな正当な理由があろうと、絶対によそからの血は入れない』という、固い意志のようなものが垣間見えているようにも思える。
 正直言うと自分にはその価値観が――他里の女性を、周囲の反対を押し切ってまで奥さんにした先生を近くで見ていたせいかもしれないが――そう、どことなく好きになれないでいた。

 独特の白い大きな瞳が、白い紙の上をじっと見つめている。自分は手紙の中身がなんなのかは聞かされていないが、もちろん中を開いて見ることはしていない。
 ただ、その光に透けるほどの薄紙が、いやに白すぎやしないだろうかと、何とはなしに意識の端で気になりだした頃。
「わかった。――四代目には、そう伝えてくれ」
 ヒザシが三つ折りの紙を畳みながら、一つ小さく頷いた。
「ぁはい、『わかった』ですね。必ずお伝えします」
 これ以外の用はいいつかっていない。大人たちがすれ違いがてら、挨拶か何かのように延々交わしている『セケンバナシ』なんていうものにも興味はない。確認の復唱をしたあと、当主に向かって、「では、失礼します」と早々に頭を下げた時だった。
「はたけ君、道場でも見ていくか?」
「ぇっ?」
 いきなりかけられた言葉に、自分でも恥ずかしくなるような声が出ていた。口布があって良かった、助かった。
「折角来たなら、見ていくといい」
「ゃっ、でも…」
 まさか遣いに行ってそんなことを言われるなんて、想像もしていなかった。ここに来る前に先生から、「日向は木ノ葉の中でも厳格な一族だから、粗相のないようにね」と言われていた。その時は「子供じゃあるまいし。そそうって…」などと内心不満に思っていたが、何やら急に不安になってくる。
「どうした? 他に急ぎの用はないのだろう?」
 しかも彼の言葉の端々に思いのほか強いものがあるようにも感じられて、断るに断れない。こういう時、大人達はどんな言葉で距離を置き、そして埋めていただろう? 彼らの会話の記憶を辿ろうとするも、適当そうなフレーズが思い浮かばない。
「なにか、不都合でもあるのかね?」
「…ぃぇ…特には…」
 頭の隅で、左目の傷が癒えきっていないことを不都合の理由に挙げることをチラとだけ考えたが、すぐにやめていた。
 もうすでにその頃には、「十四才・はたけカカシ」の好奇心の方が、遙かに大きく膨らみだしていた。
「なら、ついて来なさい」
 きっと、君のためになるはずだ。
 当主はそういって、オレに履き物を脱ぐよう促した。


(それにしても、なっがい髪だなー)
 廊下を歩きながら、前を歩く当主の黒髪を眺める。体術を使うとき、邪魔になったりしないんだろうか。
 ふと(オビトだったら「絶対トイレで邪魔になるぜ?」とかこっそり耳打ちしてくるんだろうな)などと思ってしまい、途端にきゅうっと痛んだ胸を一人密かに持て余していた時だった。

「ぅ、わぁ…!」
 道場の板戸がサッと引かれて、目の前で繰り広げられていた十数人からの稽古風景に、あっさり我を忘れた。
(すごい…!)
 肌に直接ぶち当たってくるような熱気と迫力に、左目は使っちゃいけないと頭では分かってはいても、試してみたくてウズウズしてしまう。
 ねぇ先生っ! これって本当に、ただ黙って静かに見てなくちゃダメなものなんですか? どうにかして、許可さえ貰えれば、使っても構わないとか?? 先生〜〜?!


     * * *



 どこか遠くから「はたけ君…」という言葉がかかった気がして、ハッと我に返った。まるでなにかの術から解けたみたいだけど違う。左目がダメならせめて右目で…と見入っているうちに、すっかり「おつかい」の途中であることを忘れてしまっていた。
(あぁっと…もうちょっとだけ…)
 心の中で聞き分けのない声を上げながらも、表向きは「はい」と小さく頷く。だってオレはもう上忍だから。「そそう」がないようにしなくちゃいけないから。
 だが、そのまま玄関へと戻るものとばかり思っていたところ、長い廊下を逆の方向へと曲がっていく後ろ姿に(おや?)と思った。
(? ついていって…いいのか?)
 だが、曲がるときにチラと見た家主の表情はさっきと寸分かわらず、難しそうな厳しい顔をしている。何だか声を掛けるのもはばかられるような空気に、ついついそのままついて行ってしまう。
(ま、ダメならダメって言うだろうし…?)
 出来ればさっきの体術に関する話とか聞けないだろうか。あぁでも一族にしか口伝しないのだったな……
(…って、ん…?)
 何十枚もの障子や襖を通して遠くから響いてきた、ごく微かな人の気配に、殆ど無意識のうちに耳をすました。それは次第に大きくなってきている。

(ぁーやっぱりね)
 やがて通された部屋の中央に置かれたサークルの中で、一人の赤ん坊が今まさにつかまり立ちしようとしているのを見て、自分の五感が正しかったことを確認した。この匂いからすると、もう乳は飲んでない子だ。あぁそれと、これはちょっと言いにくいんだけど…
「あの…おしっこ、してますが」
「おおおぉ〜〜〜そうかそうかぁ〜♪」
(ぇっ?)
 それまでのどこかピリピリとした固い声とは打って変わった、明らかに1トーン高い男の声が部屋に響いて、まじまじと当主の横顔を見つめる。
(?? なんだったんだ、今の声…?)
 どこか芯の抜けた、別人みたいな声だった。でも誰かの変化じゃない。間違いなくヒザシ本人だ。
 なのに側に置いてあったオムツの袋や、着替えが入っているであろうタンスの前で、難しそうな顔をしてすっかり固まってしまっている。
「…奥さん、呼んできましょうか?」
 見かねて横から声を掛けた。表情は全くといっていいほど変わってないけど、多分絶対困ってるんだよねこれ?
「いや、あいにく妻は出掛けていてね」
(ええぇ〜〜〜)



     * * *



「――すまないね、はたけ君。助かったよ」
「ぁ、ぃぇ」
 小さく答えながら、乱れてもいない髪や服装を意味もなく整える。よかった、赤ん坊が泣かなくて。泣きだしたら左目で黙らせるか迷うところだった。
 結局、オレが赤ん坊のオムツを替えていた。下忍の駆け出しの頃、一度だけ子守の任務をしたことがあったのだけれど、その時の記憶がまだ生きていた。多分当主よりは上手くできたのではないかと思う。
(そうそう、決してそそうのないようにっと…)
 髪の長さからてっきり女の子だとばかり思っていた赤ん坊は、男の子だった。印象的な大きな白い瞳が不思議そうにこちらを見上げていて、おむつを替えながらも、こっちまで何だか不思議な気持ちになっていた。
「今月、ようやく一歳なんだ」
 彼のそのしみじみとした言葉の端々には、待ちきれない何かしらの期待や思いがこもっているようだった。

 しかし血継限界というのは、こんな年からもう何かしらの能力が発揮されるものなんだろうか。
「うっぷ!」
 機嫌の良さそうな赤ん坊を抱き上げたものの、顔面にべしべしと小さな平手打ちを連打されている当主の姿に、口布を飛ばす勢いで吹き出しそうになるのを慌てて押し止めた。あぶないあぶない。
 しかも父親がぼやぼやしているうちに、赤ん坊は長い髪の毛をつかんで引っ張りはじめた。更に「一度つかんだものは俺のものだ」といわんばかりに、ぶんぶんと勢いよく振りたくっている。なのに父親は叱ろうともしない。
 それでも耳の前あたりの髪の毛を何十本も容赦なく引っ張られて、あの堅苦しさを絵に描いたような当主の顔が何とも言えずおかしな風に歪んでいるのを見た途端、ついに腹の奥底からこらえきれない笑いが一気に込み上げてきた。
(…くッ、笑っちゃダメだっ、我慢でしょっ!)
 でも笑ってはいけないと思えば思うほど、ほんのちょっとしたことが猛烈に可笑しくなってくる。こうなるともうダメだ。そいつに追い打ちをかけようと、全世界が後押ししているとしか思えない。
 しまいには、当主の顎にきれいにキックを決めた赤ん坊が、つかんでいた髪束をヨダレだらけの口にぐいぐい押し込みだして、俯いたまま笑い声を押し殺すだけで精一杯になってしまう。ああダメだ、もう無理! どうしよう!
 先生っ、ミナト先生っ!
 「そそう」って、一体どのレベルまでをいうんですかっ?!





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