その日は、(ぅーもしかしてオレ、やっちゃった…? いやたぶん、大丈夫…だよね?)などとぐるぐるしながら、日向家を後にしたのだけれど。
「おっかえり〜。ね、ね、どうだったー?」
 玄関で開口一番かけられた先生の言葉に、若干の違和感を感じたのを覚えている。特にこれといった理由もないけれど。なんとなく。
「どうっていうか…、ヒザシさんは『わかった』とのことでした」
「んっ、そう! それで?」
(?? それでって、言われても…?)
 なぜかびっくりするくらい優しい微笑み付きの問いかけに、ますますどう答えていいかわからなくなって、額当ての下でこっそりと眉を寄せる。
 考えた挙げ句「道場で稽古を見せて貰いました」とだけ言った。すると先生は「えーいいないいなぁー、それでそれでー?」と、さらに身を乗り出さんばかりの勢いでしつこく訊ねてくる。なに? なんなの? 他になにが聞きたいわけ?
(さっきから「それで?」ばーっか)
 報告すべき事は全てした。他には特に何もなかったのだ。多分、きっと、「そそう」にあたるようなこともしてないと思う。
 結局、大きな子供みたいな無邪気な師匠の押しに、「いいえ、他には、なにも」と、質問を遮るようにしてそそくさと波風家を後にしていた。
 あの時、なんだかいつもの先生とちょっと違うような気がしたのは、気のせいだったんだろうか?

 まぁでも、そうして日向家に行ったときには、言うほど不審にも思っていなかった。手渡したとき、「片目にも真っ白に見えた」書面だって、日向の血継限界にかかれば、重要な機密情報の塊だったのかもしれないし?

(あぁでも…その次の時は……)
 あれも単なる「おつかい」だったんだろうか?
(そう…なんだよ、な…?)

 すれ違った野良犬が、鍋の匂いを嗅ぎつけてついてこようとしている。このまま秋道家までついてこられたら厄介だ。足をはやめた。


     * * *



「ミコトは、奥の部屋で休んでいるが?」
 ミナト先生に、『当主のフガクさんは、警務部隊の方に詰めていていらっしゃらないかもしれないよ』と聞いていたのだが、その当主本人が真っ先に玄関に出てきて、一気に心拍数を上げながら頭を上げる。
「…そう、ですか。…では、これを。四代目の奥さまからの預かりものです」

 今朝師匠に、「うちは一族の当主の、フガクさんの家におつかいを頼むよ」と言われた時は、一瞬返答に詰まっていた。
「ん、どうしたの?」
「ぁ、ぃぇ…」
「大丈夫だよ。何も心配することはない。それに…カカシだってこのままに何も言わずにいるのは良くないって、心のどこかで思ってたんじゃないのかい?」
(――…)
 先生はとうに気付いていたのだ。
 オレが左目の治療で入院していた時。オビトの親がわりだった親類がわざわざ見舞いに来てくれて、先生を交えながら話はしていたけれど、うちはを束ねている一族の代表とは、退院してひと月近く経つ今も、まだ一度も会っていない。オレはそのことが、ずっと頭の隅に引っかかっていた。
 恐らくはもうすでに先生が、オビトの親戚らを交えて代表と何らかの話はしてくれているとは思う。でもオレ自身は、そこに参加していない。
 そして今、その代表の所に、一人で行ってこいという。
「――はい、わかりました」
 ただし、預かったものはというと、やや大きめの白い箱に水色のリボンがかかった、とても可愛らしいものだったりする。
(? なんだろう?)
「私からだといって、ミコトに渡してね〜。宜しくっ!」
 廊下の奥から、おたまを持ったままの赤毛の女性に元気よく手を振られて、つられるように「はい」と頷いた。



(…よし)
 持ってきたリボン掛けの箱をフガクに手渡した後、いつ切り出そうかとずっと考えていたことを言うべく、一つ小さく胸の中で深呼吸をした時だった。
(?)
 黒髪の少年が一人、早足に廊下を歩いてきたかと思うと、父親の隣りで立ち止まっていて、今にも出かけていた言葉を呑み込んだ。まだ4、5才といった感じだが、とても印象的な目をしている。その瞳と視線があった途端、何かオレに関することを言おうとしていることがすぐにわかった。
「母さんが、『クシナさんのおつかいのひとなら、あがってもらって』って」
(ぇっ、でも…)
 だが、「いいえ、結構です」という、大人が好んで使っているフレーズを思い出して言うより早く、当主の有無を言わせぬ声が響いた。
「いいだろう、来なさい。私も聞きたいことがある」



(聞きたいこと……なんだろう?)
 日向家の格式ある庭園と同じくらい広いけれど、有事の際の多目的スペースになっているためか、ひどくがらんとしている場所を半ば上の空で眺めながら、長い廊下を歩く。父親と共に前を歩く幼い少年の後ろ姿を見ると、すぐにこちらに振り返って、長い睫毛に縁取られた真っ黒な瞳でじっとこちらを見つめ返してくる。多分大人しい子だ。同じうちはの子でも、オビトとはまた全然違う雰囲気の忍になるんだろう。前を歩く父親を見ていると、なんとなくそんな気がした。
 彼からは日向の長と同じ厳格さのようなものは感じるけれど、その底辺に流れているものはかなり違っているんじゃないだろうか?
(でも言わなくちゃ。いいか、思っていることを正直に、落ち着いて伝えるんだ。そうすれば、きっと大丈夫だ)
 胸の奥で何度も繰り返しながら、当主の後に続いた。

 「奥の部屋」と当主が言っていた、その通りの部屋に行き当たって、「失礼します」と敷居を跨ぐ。と、忍の妻にしては随分と緩慢な動作で部屋の片付けをしていた女性が、ゆっくりと振り返った。
(あ、もしかして…?)
「いらっしゃい。あら、あなたはたけさんの所の? まぁ急に大きくなったわねぇ。さぁどうぞ」
 温かみのある優しい声で迎えてくれた女性を見た途端、淡い色のリボンがかかった箱の中身が何だったのか、何となく分かった気がした。

「――あら可愛い! ねぇ見てあなた、これクシナの手刺繍よきっと。丁度欲しいと思ってたの。嬉しいわ」
 箱から取り出した小さなよだれかけや、おくるみのセットを広げるや、隅に小さなうちはのマークが縫い取られているのを見て目を細くしている。
 オレはよくわからないけど、以前先生が何気なく「ミコトさんて、きれいだよね」と奥さんの前で言ったところ、クシナさんと一触即発の大喧嘩になりかけたことがあったから、きれいなんだろう。たぶん。
 ま! オレの母さんの方がびじんだけどね!

(ふうん…それにしても、あのがさつそうな人がねぇ?)
 クシナさんがそんなに器用だったなんて、正直意外だった。と同時に、遠くで何となく嬉しいような気もして、すぐに(なぜだろう?)と思った。自分は箱を持ってきただけで、作ったわけでもないのに。
「イタチ、ほら見て。あなたの新しい弟妹にって、あのお兄ちゃんが」
「やっ、オレじゃないですから!」
 つい気恥ずかしくなって、言わなくてもいいことまで言ってしまい、またきゅうとなる。さらにイタチと呼ばれた子が小さな声で「ありがと」と言うと、何だかますます胸のどこかがきゅうきゅうとなってきて、ついには俯いてしまった。
 のだけれど。
「とても気に入ったわ、本当にありがとう。傷の具合はどう? おつかいに来てくれたってことは、もうすっかりいいの? 少しでも痛むなら、黙ってないで看て貰うのよ?」
 彼女の表裏のない温かないたわりの言葉に、口布の下で弛みかけていた頬がさっと締まっていくのがわかった。そうだ、こんなことにいつまでも浮かれている場合じゃない。
(早く言わないと、また機会を失ってしまうぞ)
 正座している膝の上に乗せていた、両の手指に力を入れる。
「はい、ありがとうございます。…あのっ――オビトの死は、絶対に無駄にしません。約束します!」
 さっきうちは家に向かう際、賑やかな通りを歩きながら、頭の中で大人達がよくやってるみたいに、色んな言葉を次々並べようとしてみた。けれどどう考えてみても、色々は浮かんでこなかった。
 浮かんだのはたった一つだけ。でも不思議とそのことを心許無いとは思わなかった。
 とはいうものの、自分の遙か先をゆく大人達の壁は、とてつもなく高く、厚い。
「ふ…無駄にしない、か。その目はな、うちはが代々血筋を絶やすことなく、守り育ててきた門外不出の宝なんだ。本来なら、本人と消滅を共にすべきもので、うちはとしてはアカの他人でも使えるなどと気やすくアピールして貰いたくないんだがね」
「はい。…それも、わかってます」
 以前、四代目がオビトの両親の前で似たようなことを話していて、(そうか、彼らからすればそうなるんだな)と、ずっと胸の奥に刺さったままになっていた。忘れるわけがない。
「ほう。わかってる、か。それで額当てで隠しているのかね。それは四代目の指示かい」
(え…)
 ぴくんと一度、嫌な感じで心臓が跳ねて、その直後からなぜかうまく体が動かせなくなっていた。しんとした空気が、自分を圧し固めているような感覚。
(ちがう…)
 オレの体は熱くなっているのか、それとも冷えているのか。

(ちがう…っ!)

「ねぇあなた。――もういいんじゃなくて?」
 やがて横から唐突に、でもとても柔らかく入ってきたミコトさんの声に、ハッとした様子の当主が小さく咳払いをしている。
 彼女の声は、聞き分けのない子供をあやすような調子を含んでいて、上忍として第一線で活躍していた時というよりは、明らかにこの家の妻として、息子達の母として話している風だった。
 穏やかな眼差しのたったその一言で、当主の中の固くなっていた何かがふっと解きほぐされたのが、端目にも見てとれていた。もしかすると、二人分の言葉だったからかもしれない。

「誰からも、何も指示はされていません。――これはオレの、自分自身の判断です」
 一度だけそっと息を吸い込み、斜めの額当てに手を掛けた格好で、きっぱりと、正直に言った。
 そうだ、もう二度と先生に迷惑をかけちゃいけない。
 大人がよくやるみたいに「ただ黙って、じっとやり過ごす」という方法もあったのかもしれない。でも言って良かった。すっきりした。
 ミコトさんが、その小さな肩に不似合いな大きなお腹をさすりながら、にっこりしている。そういえば、クシナさんも同じような大きなお腹をして、同じようにさすっていたっけ。
「ねぇカカシ君、もしこの子が将来『アカデミーに行きたい』って言ったら、いつか師匠になってくれるかしら?」
(ぇ、師匠って…)
 途端、脇にいた当主の気配が、再びやや刺々しいものに変わった。顔なんて見なくてもわかる。肌の上を微かに走る、ぴりりとしたもの。
 でもミコトさんは、そんなことなど全く気付いていないみたいに続ける。
「できれば写輪眼を持ってる人と、そうでない人の両方に教えて貰いたいと思ってたの」
 だからその両方を持ってるあなたは、私の理想にぴったりよ、といって優しく微笑んでいる。
 そばに誰がいようが気にしないし、「言いたいならどうぞ仰って」という態度は、最終的にはプライドの高い頭領の気概を削いだみたいだった。やがて部屋がしんと静まり、オレの答えを待っている、気配。
(オレが、教える…?)
 けれど上忍になったにもかかわらず、早々に大切な仲間を失うことになってしまった自分には、誰かに何かを教えることなんてとても無理としか思えない。
「…すみません、まだそんなことは…とても」
「わかった、そうよね。まずは私が、育ててみたいって思って貰えるような子に育てなくちゃね」





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