(――ぁ……、また……ここか…)

 薄く右目を開いた銀髪の少年は、何の感覚もなくぴくりとも動かない体の奥でぼんやりと思った。この吐き気を伴った気持ち悪さなら、もう幾度となく体験して知っている。
(麻酔…切れかかってるな…)
 何度味わっても決して慣れることはないだろうけど、もう以前のように無闇に不安になることはなくなったその不快感。
 少年は、薄青に濃い灰色を溶かし込んだような右の瞳を、ごくゆっくりと左右に動かした。部屋には自分の他は誰もいない。
 強い薬の臭いに満ちた、のっぺりと白くて四角い部屋とその不快感は、いつもセットになって記憶されていた。
 間違いない。自分はまた、あの病院に来てしまっている。
「…………」
 そう思っただけで、重い体の中で、何かが音もなくぐったりと力を失っていくのが分かる。
(?!)
 が、その静寂を遮るように、突然耳の奥に巨大な獣の咆哮が甦ってきて、少年はその禍々しい記憶の断片にびくりと細い身を竦めた。
「――っ?!」
 同時に奴の吐いた背筋のよだつような生臭い息をすぐ間近で嗅いだ気がして、布団の下で小さく息を呑む。
(そうだ…っ!)
 少年は、自身の容態などよりももっとずっと大事なことを唐突に思い出して、それまでぴたりと閉じていた左の赤色の瞳までカッと見開いた。
「……っ…」
 ゴクリと喉を鳴らすと、早鐘を打ち出した心臓に向かって、カラカラに乾いた喉からあるか無きかの唾液が一筋、嫌な感じで落ちていくのが分かる。
 そうだ、自分はこんな所で呑気に寝ている場合ではない。
(行かなくては…!)
 だが暫くの間必死になって藻掻いてみたものの、どうしても起き上がれない。ならばチャクラを練ろうと集中してみたものの、内側はしんと静まりかえって何の反応も起こらない。それどころかすぐ枕元にあるはずの呼び出しブザーにさえ手が届かず、指一本、そして首すらも殆ど動かせない。
 おかしい、ここまで徹底して動かないことなど今まで一度もなかったのに、自分は一体どうなってしまったというのだ?
 急速に迫り上がってくる焦りを懸命に押し止めながら(それなら声がある)と咄嗟に思った。とにかく真っ先に呼びたいのは、もう何年もの間組んでいた仲間達の名だ。例え面会謝絶で廊下にいたとしても、すぐに自分の声だと聞きつけて入ってきてくれる。いつもそうなのだ。現場で無茶をしすぎてチャクラが切れ、動けなくなってしまった時でも、自分が目覚めるのをみんなこんな風にしてよく待っていてくれた。
(ねぇ、起きたよ! 誰か、誰かきて…!)
「…せ…」
 精一杯声を出したつもりだったが、どういうわけか何年間もの間眠っていたかのように上手く声が出ない。まるで喉の奥に何かが詰まっているような感じに、焦りばかりが募っていく。
「…リ…!」
(早く、早く来て! 二人ともそこにいるんでしょ?! みんなあの妖狐に気取られないように、気配を消してるだけなんだよね?!)
 そうだ、あれはたちの悪い悪夢でも、本の中の怪奇物語でもない。出来ることなら信じたくはないけれど、確かに現実に起こった恐ろしい出来事なのだ。
 そしてまだ新米とはいえ、上忍である自分は、真っ先にこの非常事態に対応せねばならない。
(みんな、みんなそこにいる、よね…?!)
「……ん、せ…! ――リ……! ――せ…ん…せぃ…!」

(――大丈夫…だよ、ね…?!)





   
白 揺 −しらゆり−






「――チクショウ!! なんだこの足ッ! こんなのオレの足じゃない! 手だって何でいつまでも感覚ないわけ?! こんなのウソだ! リンを呼んでよ、リンに診てもらう!」
 ベッドに不安定な格好で端座したまま、『絶対に立ち上がれるから』と無理矢理持ってこさせた二本の松葉杖を、銀髪の少年が薙ぎ払うようにして倒しながら叫んだ。
 倒したのは左手だが、右手の方は体の横にだらりと重く垂れ下がったままで、先程から指先の一本すら動いていない。
「…ね、はたけ君? 焦る気持ちはよく分かるけど、幾ら君でもその体では無理よ。歩行訓練はもう少し…そうね、あと三日だけ眠って、体力を回復させてから始めよう、ね?」
 松葉杖が倒れた際の耳障りな固い残響が消えると、巡回で来ていた担当の忍医が穏やかな声で語りかけた。
 だがその容貌は、突如として通常の数十倍という数に膨らんだ重軽傷患者を、不眠不休でひと月以上もの間支え続けているがために、酷く憔悴している。
「嘘ばっかり! 三日前にも同じ事言ってたよね。何でいつまで経っても『もう少し、もう少し』なわけ?! ちゃんと筋道立てて説明してよ! オレこう見えても上忍なんだよ。四代目火影の弟子なんだよ! どんな難しい説明だって大人並みに理解出来るんだから、そんな子供騙しみたいな言葉でいつまでも誤魔化さないでよ!」
「――――」
「黙るなんて卑怯だ! 仲間内の情報は、共有してこそ価値があるものなのに!」

 少年が日増しに疑心暗鬼になっていくのも無理はなかった。彼が長い昏睡から目覚めてからここ二週間のうちに、決して広くはないこの個室へと、一体何人の患者が運ばれて来られ、そして無言のうちに出て行っただろう。
 その間、入れ替わり立ち替わり個室に出入りしてくる忍医達に、「先生はっ、四代目はどこ?! オレがここに居るって伝えてくれた? ねぇリンは? オレと同じ14才、茶色いショートカットの子、中忍だよ! 今すぐ調べて! そういう子は入院はしてないんでしょっ?! ね、どっち?!」と幾ら勢い込んで訊ねようとも、片時も休むことなく忙しなく働き続ける忍医達からは、具体的な返事は何一つ返ってこない。
 そして何より、かつてなく自分の体が思うように動いてくれないことが、彼の苛立ちを何倍にも増幅させていた。こんなことは6歳で中忍に昇格してから今日までの8年間、何十という戦闘と消耗を繰り返してきた中でも初めての経験だった。
 二週間かけて何とか動かせるようになったのは、利き手ではない方の左腕のみ。残る右腕と両の足は石のように重く、ただ自分に付いているというだけで、何日経ってもまるで自分の物という気がしてこない。
 とうの昔に苛立ちが頂点に達している少年を見かねて、忍医が口を開く。
「はたけ君、あなたはね、内臓まで傷付いたかなり酷い状態だったのに、それに耐えるだけの力を全部使い切ってしまってたせいで、回復に少し手間取ってるの。でも内臓は元の場所に戻したし、あちこち複雑に折れていた骨も腱も全てきちんと繋いでおいたから、あとは自分の力で神経や筋肉を繋げて増やしていって、元通りにして欲しいの」
「――――」
「ごめんね、今怪我をしてる人の数が余りにも多すぎて、とても全員を完治までしてあげられないの。許してね」
「――――」
「それと食事。もうずっと摂ってないみたいだけど、食べないと肝心のリハビリが始められないわよ? 少しずつでも食べていくようにしよ?」
「食べたくない」
 少年は俯いたまま吐き捨てるように言った。ここに運ばれてきた当時、彼が付けていた黒い口布は、応急治療の際に切り裂かれて処分されてしまっている。今その青白い顔を覆うものは何もない。
 ひと月ほど前まではまだふっくらとして、幼さも残していたであろう頬の肉がすっかり削げ落ちてしまっているのを見るにつけ、忍医は内心で暗い気持ちになる。
「いらない。誰か他の人にあげればいいでしょ」
「一流の上忍らしくない答えね」
「うるさいッ! ねぇ先生とリンは?! お願い、早くっ、早くここに呼んでよ!」
「はたけ君、君もあの現場にいたなら分かるはずよ。みんなこの非常事態の後始末で手が放せないの。どうしても行きたければ頑張ってリハビリをして、自分の足で歩いて行くことね。それがあなたにとっても、上忍であるあなたを待つ仲間達にとっても、一番大事なことのはずよ」
 くノ一の忍医はそう言うと、扉の向こうへと消えていった。

「――…ッ」
 少年は辛うじて動く左手で、手元のシーツをぎゅっと握り締めた。









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