「――うぁッ!」
 四角い暗がりの中で、少年の引きつった悲鳴が上がる。

(…くそっ……また…か…)
 少年は、ぐっしょりと濡れた病衣が嫌な感じに肌に張り付くのを感じながら、まるで溺れる者のような荒い息を吐く。胸は今にも破れんばかりで、その奥にあるものがドクドクとうるさく耳元で鳴り響いている。
 強大な狐の化け物に心臓を直接鷲掴まれ、引きずり出されていた。その瞬間は確かに「痛い」と思ったほど、全ては生々しく、怖ろしくリアルだった。心臓が青白い月光の下で握り潰されそうになり、逃げだそうと藻掻いた瞬間、目が覚めていた。
 だが自分では勢いよく跳ね起きたつもりだったが、実際には手も足も微動だにしていなかった。四肢は毛布の下に横たわったまま、しんと静まりかえっている。壊れそうな勢いで動いているのは心臓だけで、そのことが一層悔しく、腹立たしかった。

 暫くの間、橙色の足元灯がついただけの朧な世界で、ひとり肩を上下させ続ける。
 やがて呼吸が幾分か落ち着いてくると(ダメだ、オレはもうこんなところに一秒だっていられない!)と思った。
(なんと、か…しないと…っ…)
 忍医が置いたままにしていた松葉杖を、左手を一杯に伸ばして引き寄せる。松葉杖に関しては、過去にもチャクラ切れして体に力が入らなくなるたびに使っていたから、コツは体がすっかり覚えている。二本を上手に使ってバランスさえ取れれば大丈夫だ。何とかなる。

(待ってて、先生…!)
 倒れながら最後に見た金髪の恩師の後ろ姿は、今まで見たいつの時よりも雄々しく、堂々として見えて、今でも脳裏にありありと思い出すことが出来る。
 きっと今、里は酷い有様なのだろう。里長でもある先生は、すぐ近くで戦っていた元弟子である自分のことを頭の隅では案じながらも、今頃は里の復旧を最優先にして不眠不休で全神経を注いでいるに違いない。
(だからせめて、オレの方から無事であることだけは伝えておかなくちゃ…!)
 ぐっしょりと濡れた体のままのろのろと起きあがり、ようやくベッドに端座すると、左手を使って左右の脇の下に松葉杖を入れる。
「――ぁっ!!」
 だがベッドから慎重に一歩踏みだそうとした途端、糸の切れた人形のように、床に向かってぐしゃりと倒れ伏していた。
 リノリウムの床に、嫌と言うほど打ち付けた半身の疼痛に(杖を交互に動かして前に進めばいいだけだ)などと安易に考えていた己の甘さを思い知らされる。
「…ぅ…つっ…ぅぅ…っ…」
 打った所の痛みに加えて、塞がれたばかりの腹までがキリキリと痛み、体を折り曲げたまま暫し呻いた。右手と両足に感覚がなく、チャクラが全く練れないと、己の体はここまで言うことを聞かないものなのかと愕然となる。
 それでもベッドに戻る気にはなれなかった。戻ったら、この何倍も苦しみそうな気がした。
 今の自分には、あのドアから外に出て行く以外に道はない。
(伝えに…行かなくちゃ…、早く…!)
 磨かれた冷たい床に横座りし、唯一動かせる左手を使って、少しずつ少しずつ、虫が這うようにしながら前に進む。
(――誰も、いないな…)
 ドアを細く開けて、廊下の様子を伺った。くノ一の忍医達が、突き当たりの一室で一日中交替で詰めているのは知っている。素早くは動けないけれど、彼女らにさえ見つからなければ何とかなる気がした。
 見えない糸を手繰るように、少年はしんと静まりかえった薄暗い廊下へと這い出した。




(…階段、まだっ…?!)
 苛々しながら、上半身を精一杯持ち上げて遠くを見る。
 まだほんの数分しか這ってないはずだが、薄い病衣を纏っただけの両の素足は、すっかり冷え切ってしまっている。かなり苦労して体を動かしているにもかかわらず、上がっていくのは息ばかりで、寝汗に熱を奪われ続ける体が温まっていく気配はない。
 幾つかの病室を通過して、(あの角を曲がれば階段があるはずだ)と思った時だった。
(?! やばっ)
 突き当たりの詰め所で人の立ち上がる気配がして、咄嗟に隠れ場所を探した。幸いにもすぐ背後にドアがある。開いていることを祈りながら左でドアノブを回すと、くるりと回った。
 銀髪の少年は、痩せこけた体を白い扉に精一杯預けた。





(――…助かった…)
 少年は、必死で閉じた扉の向こう側を人の気配が過ぎていくのを確認すると、ほっと小さな溜息を吐いた。続いて足元灯すらついていない真っ暗な室内を探る。
(誰も…いなかったのか…?)
 多分部屋の色や形は、自分の所と全く同じだ。ただ大きく違うのは、一つだけあるベッドが室内の壁際付近ではなく、窓際からも離れた部屋のほぼ中央に置かれているということだ。サイドテーブルにぼんやり見えるのは、コップやタオルといった生活雑貨らしい。どうやらこの部屋には、自分の所のように他の患者が頻繁に出入りすることはなく、ずっと個室として使われ続けているらしい。
(誰なんだろう?)
 ひょっとして、リンや先生だったりはしないだろうか?
 そんな思いが脳裏を過ぎると、もう居てもたっても居られなかった。何としても確認したくて、真っ暗な中をベッドに向かってずるずると這い進む。夜はすっかり更けており、もう夜半をすぎてからかなり経っているはずだ。流石の少年も『ベッドに横になっている者は弱って眠っているんだから、気配は消さないと』と出来る限り気配を断とうと試みる。が、肝心の夜目もろくに効いていないのだ。気殺もどこまで出来ているのか甚だ怪しい気がした。

「――かぁ…ちゃん?」
「?!」
 唐突に暗がりから小さな声がして、ギョッとして体を強張らせた。
(しまった、まさかこんなに早く気付かれるとは…!)
 普段から開いている右目を動かして、チラリと声の方向を見やる。と、漆黒の闇の中に、何者かが僅かに起き上がる気配がした。けれどどんなに出て行きたくても、とてもすぐになど出来ない。うすのろで歯痒い己の体を、内心で一頻り呪う。
(でも…待てよ?)
 今のは子供の声だ。少なくとも大人じゃない。なら真夜中に無断で忍び込んだのを怒られて、忍医に通報されることはないだろう。耳慣れたリンや先生の声でないことに、一方で酷く落胆しながらも、短く返事を返す。
「ちがう」
 名乗ろうか迷ったが、後で病室を抜け出していたことがこの者からバレないとも限らない。黙っておくことにする。
(ん…? なんだ?)
 だが返事を返した途端、急にベッドに居た者の気配が消えたような気がして、敏感な少年は暗がりで訝しんだ。そう言えばこの部屋に入ったときも、まるで人の気配がしなかった。眠り込んでいて気殺をしてないなら、気配はすぐにも感じ取れるはずなのに、なぜか声を掛けられるまで気付かなかった。
(でも…)
 もし真夜中に、こんな風に床を這いずる何者かが、突然自分の病室内に忍び込んできたとしたら? そしていつまでもその正体を明かそうとしなかったら?
 自分だったらまず間違いなく敵だと判断して、即座に防御及び攻撃の態勢に入るだろう。例えそこが病院と言えども油断は禁物なのだ。何かを考えるより早く、日頃から枕の下に忍ばせているクナイに手を伸ばすに違いない。
 なのにこの者は、自分が入ってきた事に気付いても特に何の行動も起こさなかった。唯一掛けてきた言葉は「かぁちゃん?」などという間抜けな一言だけで、恐がる様子もなければ見極めようとするでもない。とにかく異様なはずの侵入者に、何の興味も示そうとしなかった。
(なんだ、こいつ…?)
 少年はベッドに横たわる者に対して、急に興味を覚えた。声からすると、自分と同じくらいの子供ではないだろうか? 近くで顔を見たくなって、更にベッドへと這うようにして近付いていく。それでも相手は、声ひとつ掛けてこない。
「…っ」
 疲れ切って痺れだしている左手だけでベッド柵に掴まり、登り棒によじ登るようにして体を引き上げる。両の足には感覚はないものの、手で真っ直ぐ立ててやれば、突っ張り棒くらいになることはわかった。
「…へ、へへ…立った…」
 散々苦労しながら両脇の下にベッド柵を入れ、全体重を支えた。何ヶ月ぶりかで立位の姿勢を保ったことになる。直後に両足は「役目は果たしたぞ」と言わんばかりに力を失って、ぐんにゃりと妙な方向に傾いてしまったが、それでも満足だった。
(どうだ、今の見たか? 片腕一本だけで起き上がったぜ)と得意気にベッド上の住人を見やったものの。
(なっ…?!)
 すっかりこちらに背を向けて横になってしまっている人影に、思わずムッとなった。
(こっ、こいつ…!)
 『かぁちゃん?』なんて言ってたクセに、怖がって布団を頭から被るでもなく、怯えて震えるでも身構えるでもなく。影はただ、ふいと向こうを向いてしまっていた。薄い病衣に包まれた肩幅の狭さ、頭の小ささからして、さして自分と変わらない年格好に見えるが、誰とも知れない不審者に剥き出しの背を向けるなど、随分と度胸のあるヤツだ。
(オレがまともに動けないからって…バカにしてっ…)
 しかし、その枕元に散ったものに目が留まって、怒りの矛先がふらりと揺らいだ。
(…おんな…?)
 暗闇よりも更に深い色の黒髪が、随分と長い。てっきり男だとばかり思っていたのだが違うのか?
「おい」
 声を掛けたが、影が振り向く気配はない。
「オイ、お前だよ」
 動かせる左手を出して、目の前の無防備極まりない背中を思い切りつっついてやりたい衝動に駆られる。けれど今それをやると、途端に体重を支えきれなくなって、すぐに体が床へと滑っていってしまうために出来ない。
「ちょっ…聞こえてんでしょっ? 何で無視するわけ!?」
 こんなムカつく応対をされたのは生まれて初めてだ。昔から他の子より何でも早く確実に出来る自分に、不可能な事なんてなかった。みんなが常に自分を見ていてくれたし、実際頼りにもしてくれた。そしてオレ自身だって、その期待に常に応えてきたはずだ。
 なのに「あの夜」を境に、突然誰一人として自分の方を向いてくれなくなってしまっていた。
 確かに病室にやって来る白衣の者達の目は、オレの方を見てはいるのだろう。
 けれど彼女たちの心は、皆違う方を向いている。

(なんでっ…、どうしてだよ…っ!)
 いよいよ力尽きて、脇だけで体を支えていられなくなり、ずるずると床に倒れていく。ゆっくりと横倒しになっていく視界には、のっぺりとして冷えた暗がりしか広がっていない。

(…っ…くそっ…、チクショウ…っ!!)

 あれも、これも。みんな、みんな、何もかも。
 全てはこの動かない体のせいだと思った。









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