(――今日こそ、絶対に出て行ってやるっ!)
 数日後。
 銀髪の少年は夜半過ぎまで一睡もしないまま、その時が来るのをじりじりと待ち続けていた。
 本当はあの翌晩にも再び決行するつもりだったが、思った以上に無理が祟っていて朝から体中が痛み、ベッドに起き上がることすらままならなくなっていた。
 それにしても、あの夜はよく忍医に見つからずに部屋まで帰って来れたものだと思う。ただ、部屋には戻れたものの最後に自分のベッドに登ることが出来ずに、朝方になって巡回に来たくノ一に叫び声付きで抱き起こされるまで、殆ど気を失うようにして床で眠っていたのだけれど。
「とっ…トイレに、行きたかっただけだ!」
 そう言ってその場は何とか誤魔化したが、そうそう何度もこの手の言い訳が通じるとも思えない。だから今夜出て行くことにした。一旦そう決めて、これでようやくこの四角い檻とおさらば出来るのだと思うと、恐ろしい夢を見て飛び起きても、忍医達に何を言われても、黙って耐えることが出来た。
 寝込んでいた数日間、幾度となく頭の中で繰り返した手はずに従って、少年は夜半をきっかり一刻過ぎた所で、むくりと闇に起き上がった。



 相変わらず思うように動いてくれない体を引きずり、繰り返し水からを叱咤し続けて、忍医達の巡回時間から外れて静まりかえっている薄暗い廊下を懸命に這う。目指すは先日遠くに見つけた非常階段だ。

(……からだ、が…)
 だが以前にも増して、全身がずっしりと重くなっていて焦る。まるで体中の骨という骨が、そっくり鉛にでも置き換わってしまったかのようだ。でもそれも、当然と言えば当然だった。
 いつまで経っても内側から力が沸いてこない理由なら、分かりすぎるくらい分かっている。
 あの夜以降も何も食べず、殆ど水しか口にしていないせいだ。忍医達は代わる代わるやってきては、口々に怒ったり宥めたり、かと思えばあやしたり褒めて持ち上げたりして、何とか「子供のオレに」食事をさせようとする。けれど、どんな言葉を幾ら聞かされ続けても、まるで両手の指の間から水が流れ落ちていくみたいで、そのあと手の中に残るものなど何一つなかった。
 でもその事自体は、さして苦にはならなかった。
(食べなくていい。いや何も食べてはいけない)
 漠然とではあるものの、いつの間にかそう思うようになっていた。
 もしオレが、何か一口でも食べたらその瞬間。
(先生やリンに、会えなくなる)
 そんな気がした。
 大事なことを一つ我慢すれば、その強い思いと引き替えに、別の大事な願いがきっと一つ叶えられるはずだ。




(――ぁ、確か、ここって…?)
 覚えのあるドアの前を、早くも上がりだしている息を押し止めつつ通り過ぎようとした時。
 急にあの夜のことが、脳裏にありありと思い出されていた。そう、偶然逃げ込んだ真っ暗な病室にぽつりといた、黒い影みたいな恐ろしく感じの悪いヤツ。
(…くそっ、何が『かあちゃん』だっ!)
 這うことに使っていた手を、冷たい床の上でぎゅっと握り締める。
(忍のくせに、甘えたこと言いやがって…!)
 今思い出しても、やっぱり腹が立ってくる。
(そういうヤツはね、いつまでたっても上忍にはなれないんだから! 里のためになるようないい働きなんて、絶対出来ないんだから!)
 心の中でぴしゃりと言い渡してみるものの、胸の中のもやもやした灰色のものは晴れていかない。
(やっぱり、直接言ってやりたい!)
 寄り道は当初の脱走計画には入ってなかったけれど、このままではどうしても気が済みそうになかった。


 ノックもしないまま中に入ってドアを閉めると、やはり室内は漆黒の暗闇だった。足元灯もなければ、カーテンからの隙間灯りも殆ど無い。まるでわざとそうしているかのようだ。
(よっぽど夜目の効くヤツなのか?)
 ベッドの方を見ると、真っ暗な中に気配に気付いたらしいあいつがむくりと頭を持ち上げる気配がした。こちらをじっと見ているのを感じ、床に座り込んだ格好のまま、無意識のうちに身構える。
「…とう、ちゃん?」
「―――…」
 その瞬間は、ムカつきの余り咄嗟に声が出なかった。腹の底から苛立ちとも怒りともつかないものがざっと湧き上がってきて、思わず大きく息を吸って体を固くする。理由なんて分からないけれど、体の奥の敏感な部分を突然断りもなく逆撫でされたような気がした。
(くそっ…!)
 そのまま返事もせず、酷い不快感に背中を押されるようにして、真っ直ぐに窓際へと這っていく。
(…とどけ……とどけ…、届け…っ)
 左手を伸ばしてカーテンを掴むと、レールが激しく軋んで大きくたわむのも構わず、全体重を預けて引っ張りながら、窓際で掴まり立ちする。
 すぐにパキン、パキンという音と共に、カーテンがレールから外れだした。と同時に、外の月明かりが室内へと差し込みだして青白くなっていく。それを見ていると、圧がかかって息苦しいほどだった呼吸が、少しずつ楽になっていくような気がした。
 カーテンの殆どが外れて床に垂れ下がる頃には、自分の体も再び床に倒れてしまっていたが、その小さな口元には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
(どう、少しは目が覚めたでしょ?)
 里が大変なこの時期に、一日中真っ暗なこんなところで日がなこっそり隠れて過ごしているなんて、どうかしている。なんて情けないやつだろう、もっと世の中を見ろと言いたい。
 引きちぎったカーテンに手足を取られながら、何とか上半身を起こした。更にこいつを下から見上げている状況は何となく癪にさわるから、残り僅かとなったカーテンに掴まり、レールを軋ませながら、渾身の力でもってもう一度左手一本で立ち上がって、何とか体を真っ直ぐ立てた。
(…?)
 だがベッドの方を見やると、そこから何とも言いようのない奇妙な印象を受けて言葉を呑んだ。細い眉を寄せながら、二、三度瞬きをする。
 そいつは青白く浮かび上がった世界の中でも、肩より長い真っ直ぐな髪だけが真っ黒に抜けていて、俯いた顔の殆どを覆い隠していた。
 生気の失せた白い顔の真ん中には、鼻を跨ぐ一本の大きな刃物傷が垣間見えていて、自分の左目に走るそれはすっかり見慣れているにもかかわらず、何やら異様に映る。
 瞳は長く揃った睫毛や、落ちかかった髪が邪魔をしているせいで、こちらを見ているのかどうかさえよく分からない。しかも視線とか気配といったものが殆ど感じられず、どこか不自然というか、腑に落ちないような気がしてならない。これではまるで人形だ。
 結局その体つきから、ムカつく黒い影の正体は、自分と同い年くらいの男なのだということは分かった。但しその姿に見覚えはない。まぁ自分はかなり早い時期から中忍をやっているから、アカデミー生や下忍になりたてのヤツなんて、名前どころか顔すら知らない者の方が遥かに多いのだけれど。

「父ちゃん? …ふん、ばっかじゃない。忍のクセに、なに寝ぼけたこと言ってんの?」
「――――」
 だが、いつまで経っても向こうが何かを言い返してくる様子はない。それでもこちらは、おかしいほど後から後から言いたいことが湧き上がってきてしまう。
「黙ってれば何でもやり過ごせると思ってるんなら甘いよ。オレはあんたのこと、あれこれ気を利かせて知ろうなんて気、これっぽっちもないんだから。ちゃんと口に出して言わないと伝わらないし」
 さらに(外に出る力が無くなるぞ、止めておけ)と思いながらも、日頃の習慣と好奇心から左目で一瞬だけ見たそいつの体は、予想に反してどこも怪我をしていなかった。
(こいつ…全くの無傷なのに…!)
 病院の個室で、のうのうと寝て暮らしているだと?
 そんなことなど到底許せなかった。一旦は落ち着きかけていた頭の中が、再びカッと熱くなっていく。
「なんだよ! 五体満足でいつでも自由にチャクラが練れる状態なのに、こん…な大事な時に、病院に隠れ…てなんにもしない、…なん、てっ…!」
 だが喋りだすと、すぐに息が上がって視界が回りだした。途中で息継ぎをしないと、苦しくて続けられない。やっぱり左目なんか使うべきではなかったと後悔するが、後の祭りだ。
「――――」
 こっちが真正面からキッと睨みつけて喋っているのに、向こうの目はどこを見ているのかまるで分からなかった。それどころか表情の一つも変えず、置物のようにただいつまでも俯いたまま黙していることに、抑えがたい苛々が募っていく。
 何を言っても手応えがない。
(相手に、されてない…)
 自分が視界にすら入っていない様子に、声が次第に大きくなっていくのを、どうしても押さえることが出来ない。
「『とうちゃん』『かぁちゃん』てなにさ?! 弱虫! 腰抜け! お前それでも木ノ葉の忍?!」
「――――」
 とその時、病室のドアが勢いよく開いた。見覚えのあるくノ一の忍医が、戸口でオレを見るや目を剥いている。
(他のやつらが、認めたってねぇ…)
「…オレは…っ、オレは、ぜったぃ…認めな…から、ね…」
 最後の最後まで耐えていたカーテンの端が、ついにレールから外れる音がして、直後体が大きく傾いてゆく。

(あぁ床に倒れるな…)と遠くで小さく思ったけれど、その後の衝撃を感じることはなかった。









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