ふっと意識が浮上してきて、薄く目を開ける。
(――また……ここか…)
 心底がっかりした。
 自分で勝手に抜け出した挙げ句、精根尽き果てて舞い戻ってきてしまっているだけなのだけれど、「お前なんかいらない。ずっとそこに居ればいい」と里の全員から言われているような気持ちになる。
 
「あら、目が覚めたのね? どう、丸二日眠り続けた気分は?」
 側で部屋のカーテンを開けていたくノ一が、明るい声で喋っている。白い部屋に射し込んでくる朝の光は、普段なら何でもないものの、今の自分にとっては目の奥に痛いほどだ。
(…ぁ……カーテン…)
 思わず光から顔を背けると、すぐに一番上にあった真新しい記憶が手元までたぐり寄せられてきた。
「ねえ、はたけ君。あなたこの間の夜、あの子の部屋で何してたの? 大きな声で何か言ってたみたいだったけど?」
 まるで頭の中を覗かれたような問いに、少年は即座に小さな鼻をふんと鳴らす。
「何でもない。あんなヤツ、どこの誰かだって知らない。名前も聞きたくない」
 思い出しただけで、自然と唇がへの字に曲がっていく。
「あの子の事、そんなに嫌いなの?」
「あぁ嫌いだよ。だいっきらいさ。だって自由に動けるクセに、病気のフリして毎日寝て過ごしてるなんて信じられないね。みんな何アイツばっか甘やかしてんの? 子供だから? あり得ないでしょ?!」
 間髪入れず、ポンポンと言葉が出てくる。くノ一がちょっと困ったような顔をしながら、小さく一度だけ頷いた。
「…そうね、確かに彼は動こうと思えば自由に動けるわね。でもね、あの子の怪我は外からじゃ上手く見えないのよ。…例え君の写輪眼をもってしてもね」
「…?」
「傷付いてるのは、心だから」
(? ……こころ…?)
 何だか納得いかない答えだった。子供だからと適当にややこしいことを言って、うやむやにしようとしているんじゃないだろうか?
 今まで幾度となく質問をはぐらかされ続けた経験から、少年は怪訝そうな顔をする。
「と言っても君にはまだ分かりにくいかな。彼はね、心に受けた傷が余りにも大きすぎて、全く動けない状態なの。だから今は一切無理をさせないために、ここで保護してるのよ。ああして自分から心を固く閉ざして、何も見ない、聞かない、そして誰とも喋らない時間を過ごすことが、彼の初期段階の治療であり、今必要な一番の薬なのよ」
「そっ、そんなのただぐうたらしてるだけじゃない! ずるいよ!」
「いいのよ、ぐうたらしてて。今は何もしないで静かにしてることが、あの子に課せられた大事な任務なんだから。そうすることで、彼の中に少しずつ少しずつ力が貯まっていくのを、みんなじっと待ってるのよ。――ねぇはたけ君、その点は君も同じじゃないかな? 体の傷が大きすぎて全然動けないのに、与えられた任務を放棄して何も食べないまま動き回ってるから、いつまで経っても力が出ないでしょう?」
「――っ…」
「みんな、待ってるんだけどなぁ」

「…………」

 忍医に、自分の言ったことを「間違っている」と頭から否定されず、その隣りにそっと別の答えを置いて行かれて、少年は一人になってからも言葉に出来ない居心地の悪さに、暫く身動きが取れなかった。

(――なんだよ、もう…っ…!)
 部屋には誰もいない。眩しい光にもすっかり目は慣れた。
 それでも少年は頭まで布団を被って、ぎゅっと固く目を閉じた。




 その日を境に、銀髪の少年は無理に体を動かすことを控えるようになった。更に時折逡巡するような様子を見せながらも、少しずつ食べ物を口に運ぶようになり、くノ一達はこぞってそんな少年を褒め、励ました。
 だがそれらの行為は、本人にとっては端から見るより遥かに大きな摩擦も伴っていて、彼は今にも動きだしたくなる衝動を抑え込むために、日々目に見えないものと戦い続ける。
 何もない、ただ白いだけの四角い部屋にぽつんと一人で居ると、すぐにあれこれと余計な思いが駆け回りだすのだ。
(…くそっ、ここがただ白いからいけないんだ、こんな部屋っ…)
 時に自分の中だけでは収まりがつかず、病室にまで当たりながら、ひたすら動き回りたい欲求に耐える。目に見えないはずの焦りが、心身を削っているような気がしてならない。
 自分には、あの黒髪の少年の治療が『何も見聞きせず、喋らず考えないこと』だと言っていた事が、未だに信じられなかった。自分の周囲に興味を惹くものが何もなければ、退屈だし不安にもなって、あれこれ考えてしまうのは当然ではないだろうか?
 それでもなおそれらを制限され続ければ、必要な情報を得ようと動きだしたくなるのもごく当たり前のことで、忍である自分には全て必要不可欠なこととしか思えなかった。
(なのに、それさえも出来ないくらいの大きな……傷って…?)
 何枚か壁を隔てた向こうで、ひっそりと息をしているだけの存在を思いながら、少年は白い布団の下で目を閉じた。



   * * * 



(――ぁ…うごく…?!)
 その日の朝、白い部屋で目覚めた少年は、自身の体に昨夜までとは違う明らかな変化を感じ取って、自然と湧き上がってくる小さな笑みを、慌てて毛布の下に隠した。
 感覚が戻りだしたのはまだ利き足ではない左だけだが、これで左半身に関してはある程度のバランスが保てるようになったのだ。
 少年は忍医に「絶対無理はしないから、松葉杖を使わせて!」と何度も繰り返し頼み込み、ようやく三日目に「まだ片杖だけだから、階段は絶対に降りない」という条件付きで許可を貰った。
 向かう場所は、最初から決まっていた。






(――よし、ここだな)
 廊下に誰もいない時を見計らって、まだかなり不安定ながらも一本の松葉杖に器用に体重を預けながら、あの黒髪の少年の部屋の前に立つ。
 『心の傷の治療中』だとかいうあいつに、今更あれこれちょっかいを出す気は無かったけれど、忍医達に見つかったらまた何かうるさく言われそうな気もするから、入室は見られないに越したことはない。一応ノックはしたけれど、いつまで待っても返事が返ってくることはなく、全身でドアを押すようにしてそのまま入った。

 ベッドには、最後に見たあの夜から一ミリも動いてないんじゃないかと思いたくなるほど、全く同じ位置、同じ格好で黒髪の少年が座っていた。オレが入っていっても自分の足に掛かった白い布団の小山をぼんやりと見下ろしているだけで、身動き一つしない。
 白いカーテンに柔らかく遮光された濃淡の弱い世界で、一際濃い色の漆黒の髪を持ち、特徴的な鼻傷のあるそいつは、本来ならもっと存在感とか気配があってもいい感じなのに、何だか透けているようでもあり、そのうち周囲の白色に溶けて消えてしまいそうにも見えた。

「…よっ……よぉ」
 自分から入っていったくせに間が持たなくなって、つい半端な距離をとったまま話しかけてしまう。

「――――」

「お前さ、オレのこと」

「――――」

「その…覚えてるか?」

「――――」

「こないだの夜、カーテンちぎったのって、オレ」

「――――」

「その何日か前の夜、忍び込んだのもね」

「――――」

 けれど、どんなに辛抱強く待っても、いっそ清々しいほどに何の返事も返ってこない。
(こっ…こいつ…っ!)
 一応最初に謝っておくつもりだったのに、そんな考えなどどこかに吹っ飛んでいた。他人を無視することはあっても、されることには正直慣れてない。何としても彼の視界に割り込んでやりたくなって、夢中で杖を前に出した。



(――ふうん…)
 ベッド柵に左手で掴まって、すぐ間近から少年の顔をまじまじと覗き込むようにして見る。
 彼の瞳は意外なほど真っ黒だった。そこに長い睫毛がびっしりと覆い被さっていて、(耳を澄ましてたら、瞬きの音が聞こえそうだな)などと思う。
 だがこんな近くに来てもこっちを見ようともせず、俯いたままで一向に焦点を結ぶ様子もない瞳は、どことなく濁っているようにも見えて、(真っ黒なのに濁って見えるなんて、そんなことあるわけないでしょ)と、その矛盾に思わず鼻で笑ってしまう。

(それにしても…)
 こんな人形みたいな抜け殻状態で、こいつは一体何を考えているんだろう? 絶対退屈だと思うんだけど? かえって苦痛じゃないのかな? 疑問は尽きない。大体これじゃあ以前にこっそりと部屋に入った時、すぐに気付いて声を掛けてきたことが嘘みたいじゃないか。こっちはそれを思い出すたび、新たなモヤモヤが生まれそうになるのを堪えているというのに。
(忍医達は、みんな騙されているんじゃないの?)
(やっぱりこいつは、自分に都合の悪いことをわざと無視してるだけでしょ?)
(こいつの真の姿を知っているのは、実はオレだけだったりしてね?)
 じっとして黙っていると、すぐに色んなことが頭の中を駆け回り出す。
(…あ、そうだ…!)
 むらむらと好奇心が頭をもたげてきて、少年は小さな唇を片方だけきゅっとつり上げた。
 ちょっとした実験を思いついていた。
(みんなを代表して、本当にこいつがただのぐうたらなのか、そうでないのかを、ちゃんと確認しておかなくちゃね!)
 オレは左足だけで何とかバランスを取ると、それまで自分の脇の下で支えにしていた松葉杖を、そっと体の後ろに回した。
 そして暫くののち、そいつを何の前触れもなく倒した。

 がらんとして静まりかえっていた病室に、思っていた以上に耳障りなけたたましい音が鳴り響いた時は、自分ですらかなり驚いてしまっていた。でも目の前のこいつが猫を被っているのなら、思わずそれらしいリアクションをとってしまうだろう。
(悪いけど、そういうのを見抜くのは得意だよ?)
 しかし一拍後、目の前のそいつの表情がみるみる驚愕の表情へと変わりだした瞬間、思わず息を呑んだ。
 そしてその頃になって、自分はほんのちょっとした出来心から、とんでもないことをしでかしてしまったのだとようやく気付いていた。
 人の顔に、これほどの恐怖と悲しみの表情が一気に浮かび上がってくるのを目の当たりにしたのは、生まれて初めてだった。こいつは今、何かとてつもなく辛く恐ろしいことを――そう、間違いなくあのおぞましい夜のことを――目の前にありありと思い出したのだと、突然合点がいっていた。
 今まで石のように固まっていたか細い体が、突然ぶるぶると大きく震えだした。何かから逃げだそうとするかのように、ベッドの上を必死の形相で後ずさる。
「…ぁ…あぁ…――ぁぁ…!」
 言葉にならない声が半開きになった唇から漏れ、オレではない何かをはっきりと見ている真っ黒な瞳からは、たちまち堰を切ったように涙が溢れだして、幾筋も頬を伝い始める。
「とうちゃ…――かあ、ちゃん…!!」
「…おっ、おいっ?!」
 その腹の底から絞り出すような悲鳴にも似た声にようやく我に返って声を掛けたものの、肩に掛けた手は恐ろしい勢いで即座に振り払われた。それでも尚、自分の姿がこの者の瞳に映ってないのは明らかだと、不思議なほど確信出来る。
「…ぼ…く…、ぼく、なに、も…なにも、できなかった…なんにも…っ…、なんにも…っ…!!」

(ぇっ…?!)

 動転してすっかり無防備だった胸の中に、突然何か鋭いものをぐいっと突き入れられたような感覚に、そのままそこから一歩も動けなくなる。

 細い喉一杯に泣きじゃくりながら、ひたすら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続ける声に、何事が起こったのかと忍医達がわらわら入ってくる頃には、オレはバランスを崩して床にへたり込んだまま、半ば呆然とその様子を見上げていた。









        TOP     書庫    <<    >>