「――ごめんなさい…」
 その後、即刻自室へと送り返されたオレは、事情を聞かれる前に全てを正直に説明し、居並ぶ忍医達の前で潔く謝った。本当はこの人達よりも先にあいつに謝りたかったけれど、暫くは会わせて貰えないそうにないから仕方ない。

(バカだな、オレ…)
 説明している間にも、気付いたことがあった。
 オレは病室から抜け出すことに全神経を注ぐことで、急に言うことを聞かなくなった歯痒い自身の体から、何とかして目を背け、逃れようとしていた。
(自分から逃げられるわけ…ないのに…)
 己のしでかした事に対してこんなにも後悔したのは、この左目の元の持ち主と最後の喧嘩をして以来だった。

「もう済んだことよ。あなたも悪気があった訳じゃないし。大丈夫、彼も許してくれるわ」
 一番親身になってくれている忍医のくノ一が、最後に一人残ってそう声を掛けてくれたけれど、その言葉ではオレの気持ちは上手く晴れていかなかった。
 悪気が全くなかったと言えば、嘘になるからだ。
『――とうちゃん、かあちゃん――』
 忍なのに、思ったことを思ったように素直に口に出せるあいつのことが、オレは内心羨ましくて堪らなかった。それこそ積もり積もった妬ましさに、時に憎しみすら覚え、苦しくて息も出来なくなるほどに。
 けれど直視も出来ないようなそんな己の嫌な部分も、あの黒い瞳からはらはらと流れ落ちる涙を思い出すたびに、急速にどこかへと消えて無くなっていく。

(あいつが…あの涙が…)
 全部洗い流してくれた…?

 窓の外が暗くなり始める頃には、もうはっきりとそう思い始めていた。
 きっとあいつは、オレの分まで泣いてくれたのだ。
 だからもう一度、今すぐにも会いたかった。例えオレのことが全く視界に入ってなくたって構わない。もう一度会って、一分でも、一秒でも早く謝りたくて堪らなくなる。
 今日最後の巡回に来たくノ一に、恐る恐る彼の様子を訊ねてみた。すると彼女が「あいつって…? あぁもしかしてあの…」とその先を続けようとしたのを、オレは慌てて手を振って遮った。
「ダメダメっ! 待って! オレがね、オレがあいつから直接名前を聞くから! いつか必ず友達になって、あいつ自身の口から名前を言って貰えるようにするから! 一日も早く強くなって、もっと優しくなれるようにする。もう二度と泣かせたりしない。だからそれまではあの子の名前、絶対言わないで! お願い!」
「分かった。みんなに言っておくね」
 ふ、と柔らかく微笑んだそのくノ一によると、「あいつ」は今、薬を飲んで眠っているらしい。
(――そう、なんだ…)
 あいつの見る怖い夢を、自分が代わりにみてやれたらいいのにと思う。
(いっこ見るのも2こ見るのも、おんなじでしょ? その分オレもきっと強くなれるしね!)

 そんなことを考えながら寝入った夜は、珍しくうなされることのない、いつになく穏やかな淡い夢路だった。




   * * *




 それから二週間が過ぎたある日。
「はたけ君もよく我慢して頑張っているから、そろそろあの子の所に行ってもいいわよ」と言われた瞬間は、それこそ松葉杖無しで走っていけるんじゃないかと思ったほどだった。
 ただ現実には左半身に加え、右腕が僅かに言うことを聞き出した程度で、まだ右足は単なる荷物のように聞き分けがなく、引きずるしかない状態が続いている。
 あいつに対しても、「絶対にあれこれと話しかけたり、体に触れたり、大きな音を立てたりしない」という条件付きだ。
 それでもオレは真剣な面持ちで小さくノックをすると、少し待ってから「あいつ」のいる病室のドアを開けた。


「よっ」
 松葉杖を二本使えるようになったせいで移動がかなり楽になったこともあり、四度目の訪問になったオレは、いつになく上機嫌でベッドの上の黒髪の少年に声を掛けた。
「――――」
 しかし、彼は相変わらずこちらを向く気配すらなく、ベッドに起き上がって俯いたまま、じっと目の下にある毛布だけを見つめている。その様にふと(もしかしたらこの場所だけが何かの術によって、あの日から時間が止まってしまっているんじゃないだろうか?)などとあり得ない想像までしてしまう。
 それにしても動きだす気配すら見せず、ひたすら頭を垂れ続けるだけの彼に、どう接していいのかが皆目分からない。とりあえず先日自分がやらかしてしまった悪戯の後遺症のようなものが見当たらないのが、せめてもの救いだった。
(いつになったら治るんだろう? ねぇ、あんたっていつになったら喋れるようになれそう? 明日? 明後日? それとも来週くらい?)
(元のこいつって、どんな感じなのかなー? やっぱ大人しい? それともバカみたいに明るかったりする? 怒りんぼだったらちょっとヤだなー)
(実はオレよりよく喋るやつだったりして。それとも今とあんまり変わんないのかな?)
(術は何が得意なんだろう。あそだ、好きな食べ物見せたら良くなるとかってない? 試したら……怒られる、ね…)


 今日もまた、大きな音をたてないようにしてそっと側の椅子に座ると、白いベッド柵を隔てながら色んな事を考える日々が続く。でもあいつは、どれほどの時間片目の自分にじいっと見上げられようとも、焦点の合わない黒い瞳を、こちらに向けようとはしない。
 最初のうちはそれが酷くつまらない上、何だか自分がバカみたいに思えてしまい、間が持たないこともあって、挨拶もそこそこに帰ってしまっていた。
 けれど部屋に戻って暫くすると、どういう訳かまた気になってきて、訪ねて行きたくなる。
 とはいえ、結局のところは幾らもたたないうちにすぐにまた舞い戻ってくるだけなのだけれど、何度もそれを繰り返しているうち、いつの間にかあいつの側にいる方が、一人でいる時よりも遥かに落ち着くようになっていた。

(お前ってさー、こう見えてもすごく頑張ってるんだよね。早く治ろうと夢中なんだよね!)
 日に何度も通うことで、知らず知らずのうちにリハビリも出来ていたのだけれど、忍医達に良かったねと言われても「ふうん」としか思わなかった。
 今のオレにはそんなことよりも、あいつと同じ部屋に居ることの方が、遥かに大事なことになっていた。



   * * *



(――ん…ぁ……ねてた…?)
 いつの間にか伏していた頭をのそりと上げると、下に敷いていた両の手がじんじんと痺れていることに気付く。
 いつものように、すぐ間近ではあいつが静かに頭を垂れているが、特に動き出す気配もない。
 ここ最近はベッド柵を外し、周囲の少し空いたところに伏してうたた寝をするのが午後の日課になっていた。もちろんくノ一達には内緒だ。バレたら「風邪をひくから止めなさい」だの「あの子が困るでしょ」だのと色々言うに違いないからだ。
 でも同じ寝るなら自分のベッドで一人で眠るより、多少寝づらくてもここで眠りたかった。
 右目をごしごし擦りながらあいつの顔を覗き込むと、ぼんやりとではあるもののこちらを見つめていた。いや、本当は自分を見たのではなく、こちらがあいつの視界に無理矢理入っていっただけなのだけれど、何となく浮いた気持ちになる。
(ごめん、また寝ちゃった。でももうすぐ夕飯だから、オレ戻るね)
 また来るよ、と心の中で挨拶をして、脇のテーブルに立て掛けてあった二本の松葉杖に手を伸ばした時だった。
(あッ?!)
 痺れていた手が松葉杖を掴み損ね、あろうことか杖が二本とも向こうに向かって倒れだした。
(ちょっ…マズ…!!)
 瞬間、先日やらかした痛恨の一件が頭を過ぎり、そう思ったときにはもう己の足は杖を追いかけて一歩目を踏み出していた。
 いや、すっかり踏み出したつもりになっていた。
 けれど実際に前に出たのは左足だけで、二歩目が踏み出されてバランスが保たれることはなかった。
 直後、どしん、がらんと不穏かつけたたましい音が、のっぺりとした室内に響き渡る。
(ウソっ…!)
 まさにほんの一瞬の出来事だった。どこかまだ薄ぼんやりとして寝ぼけていた頭が一気に醒め、それをも通り越して真っ白くなっていく。
(どっ、どうしよう…!)
 酷く打ち付けたはずの肘や膝の痛みもまるで感じなかった。倒れたまま慌ててベッドの方を見やると、恐れた通りあいつがこちらを向いている。その真っ黒な瞳がかつてなく焦点を結んでいる気がして、訳もなく一気に血が引いた。
「…はは、だっ、大丈夫だよ、ちょっと転んでみただけだから。びっくりさせちゃってゴメンね。ホント何でもないから!」
 だがそのまま立ち去ろうにも、慌てているせいか両膝がぐらぐらしてしまって、どうしても立ち上がれない。結局足を使うことを放棄し、以前のように手だけで這いずりながら、じりじりとドアの方へと近寄っていく。
 とりあえず、部屋に邪魔者がいなくなれば何とかなりそうな気がする。とにかくあいつに泣かれるのだけは、もうホントに心底勘弁して欲しかった。上忍の名誉にかけても絶対に回避なくてはいけない。
(早く、早く外へっ…!)
 が、背後に人の動き出す気配がしてドキリとした。恐る恐る振り返る。
(?! …ぉっ……おまぇ…)
 あろうことか、あいつがベッドから降りてきていた。どこも怪我をしてないのだから当たり前なのだけれど、自分より遥かに軽い身のこなしに驚いてまじまじ見つめてしまう。
 あいつは裸足のまま音もなくゆっくりとこちらに向かってくると、俯いたいつものあの角度で、静かに片手を差し出した。
(…?)
 手を差し出されたから、何となくこちらもつられるようにして差し出してみたのだけれど、ひと月前のオレだったら攻撃されるんじゃないかと感じて、思い切り身構えてしまっていただろう。
 けれどあいつは、もちろんそんなことをするはずもなく。
 出した右手を取ってふっと屈んだかと思うと、オレの脇の下に体を入れて、そのままぐいと立ち上がった。
(!)
 一気に視界が高くなり、同時にあいつと同じ目線になる。
 平凡なはずの見慣れた白い世界が、まるで何かの術でもかけたかのように一変していた。
(うわぁ…!)
 なんだろう、その瞬間、やたらと胸がどきどきした。いや、すごくワクワクした。このままあいつと病院中を散歩出来ないだろうかなどと、支えて貰っているクセに図々しくも本気で考えてしまう。
 あいつは黙ったまま、膝に力が入らずにずるずると落ちていってしまうオレの体をぐいと揺すり上げた。そしてまだ何となく遠慮してしまっていたオレの体を、開いていた左手でぴったりと自身の方に引き寄せると、俯いた目線のまま前へと一歩踏み出した。


(…っと…)
 誰もいない午後の廊下を一歩進むたび、視界が不安定に大きく揺れる。時折倒れそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。
 上下左右に不規則に揺れ動く体は、どうしても一定のリズムに落ち着かない。でもそれも仕方がなかった。二人は肩を組んだ格好で歩いていて、一方は片足が殆ど動かないのに、杖の1本も持っていないのだ。足並みが揃うわけがない。
 それに他人と肩を組むというのは、松葉杖よりも遥かに歩きづらく、体のあちこちに無理がかかってしまって部分的にすごく疲れるもなのだということも初めて知った。
 なかなか思ったように前に進んでいかないことにも申し訳なくなってきて、俯いているあいつの横顔をチラと見る。
 やつの顔を、こんなに間近から見たのは初めてだった。黒くて長い睫毛がくりんとしている。以前は薄気味が悪いと思ったこともあった鼻の傷だって、今ではとぼけてるみたいで結構いいじゃんと思えた。ふっくらとした唇は、オレが重くてすぐにずり落ちていくせいできつく噛みしめられていて、時折口の奥で歯を食いしばっているのが分かる。
(ごめん…)
 とても悪いことをしているなと申し訳なく思う。今更ながら、自分の体が本当に歯痒くて仕方ない。
(なのにオレは…)
 どうしてこんなに嬉しいんだろう?
 何か一言でいい、今すぐにも話しかけたかった。けれどあいつは、もうこれが一杯一杯な気がする。これ以上の負担をかけてはいけないということは、誰に言われるでもなく分かっていた。

「…………」
 オレは不安定に揺れ動く世界の中で、今にも出そうになる言葉をぐっと呑み込んだ。
 薄い病衣を一枚隔てただけのあいつの体は、予想外に温かかった。人形みたいだなんて思っていたけど、失礼にも程がある。

 お前はとても優しい、いいやつだ。









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