誰にも見つかることなく自分の部屋へと戻ってくることが出来たオレは、心底ホッとしてベッドへと倒れ込んだ。
 床に倒れた拍子にぶつけた体の節々があちこち痛いはずなのに、今にも転がって笑いだしてしまいたくなるくらい、体の中が何かで一杯に満たされていた。
 あいつはオレの動きをちゃんと感じてくれていて、ちょっとした身振りだけでも部屋を分かって導いてくれた。焦点が合ってないとか思っていた黒い目も、実はちゃんと見えていたのだ。
 いつもは開いていても、内側から暗く閉ざしてしまっているだけで…。

 とにかく、(何となく鈍いやつ?)などと思っていたのは、今この瞬間から撤回だ。

(…ありがとう)
 あいつが自分の部屋に戻るために背を向けた時、オレはそのきれいな黒髪のかかった背中にそっと呟いた。




 それからというもの、あいつはオレが訪ねていって帰る頃になると、黙って肩を貸してくれるようになった。
 相変わらず何も喋ってはくれないけれど、そんなことは全然気にならなくなっていた。
 あいつは何という名で、階級は何なのか? 家はどこなのか? 年は? 兄弟は? 得意な術は…?
 けれど一旦肩を組んで白い廊下を歩きだすと、そんなことは本当に全くどうでもいいことに思えた。

 ぴったりと合わせたあいつの体がとても温かくて。
 少しぎこちないけれど二人で前を向いて。
 同じ目の高さで一緒に歩いている。
 それだけで十分だった。

 回を重ねる毎にお互いコツも掴めてきて、少しずつバランスをとるのが上手くなってくると、次第に肩を組んで歩くほうが楽になってくる。
 大体オレは、あいつが歯を食いしばる姿なんて出来る限り見たくなかったし、重い思いも極力させたくなかったから、自室に居る時には誰にも内緒で必死でリハビリをした。
 ご飯も無理矢理詰め込んで、くノ一達に偉いねと言われても「本当は全然食べたくないんだけどね!」と素知らぬ顔をした。

 ちなみに最初に肩を貸して貰った日、あいつの部屋に松葉杖を忘れてきてしまったことから、オレが忍医達との約束を破ったことは、その日のうちに速攻ばれてしまっていたと思う。
 けれどどういう訳か、その後廊下で肩を組んだ二人を見かけても、忍医達は誰一人として何も言ってくることはなかった。



   * * *



「…ぅ…ぁッ…!」
 ある日の午後のことだった。
 オレは引きつった声にならない声を上げながら、白いリネンに伏していた頭をがばりと上げた。
「…っ……っッ…!?」
 周囲には白いカーテンに遮光された淡い光が広がっている。右上を見やると、あいつの俯いた顔がぼんやりとこちらを見下ろしているのが、ぐらぐらと揺れる視界に映っている。
(――…ゆめ…、か…)
 思い返すのも恐ろしい、あの夜の夢をまたみてしまっていた。久し振りだったのに、生臭い臭いまでがありありと思い出せるくらいリアルだった。ただそれを、夜自室で見ることはあっても、まさかあいつのベッドでうたた寝をしている真昼時に見るなんて、それこそ夢にも思ってないことだった。
 不意を衝かれた心臓が、今にも爆発しそうに暴れている。全身に鳥肌が立っていて、嫌な汗が体のあちこちをぬるぬると伝っていくのが分かる。
(バカ、あいつが不審に思うだろ? いいから落ち着け)
 平静を保とうと、何度も自分に言い聞かせてみても、激しく乱れきった荒い呼吸をどうしても整えられない。それどころかあいつの顔を見ているうちに、あちこち突っ張って堪えに堪えていたものが、内側からぼろぼろと崩れだしていくのが分かる。呼吸が全速力で走っている時みたいに一足飛びに速くなっていき、苦しくてたまらない。制御出来なくなった胴が、手が、足が、胸が、唇までがぶるぶると震えだす。
「…オ……レ…」
 自分はこんな時に、一体何を言い出そうとしているんだろうと遥か遠くで思う。

「――…オレ…ね。…オレ…本当は、知ってた…」
 いけない、あいつに話しかけちゃだめなのに。

「…全部…、全部…知ってたんだよ…」

「…もぅ…誰も、……オレを迎えに、…来れないって、こと…」

 あの夜、妖狐の発動した黒い衝撃波に、オレが小さなボロきれのようになって吹き飛ばされた時。
 真っ赤に染まった横倒しの世界で、先生がこちらを見て何事かを喉一杯に叫んでいた。
 先生の青い瞳がその瞬間何を考え、何を心に決めたのか。
 オレには、オレだけには分かった気がしたのだ。
 なぜって。
 何年もの間、先生から厳しい修行を受け、
 共に幾多の激戦を庇い合って戦い抜き。
 向かい合って食事をとり、
 すぐそばで丸くなって眠り。
 背中を向けて怒って、
 向き合って泣いて、
 肩を叩きながら一緒に笑った。
 多分その分だけ、他の者達より『繋がって』いたんだろう。
 でも、現実を直視したらその瞬間、それら全てが何か大きなものに押し潰されて、自分ごと粉々に砕け散ってしまいそうだったから。
 だから一切考えるのを止めたのだ。
 そして。

「……みんな…元気だって、…ことに……したんだ…」
 それでもあいつは、黙ってこちらを見ている。
「だから…ホントはね…、現実に起こった事の…何もかもを、ちゃんと……そう、まっすぐに見て、全部…ぜんぶ認めてる君は、すごく…すごく、強いんだよ…」
「――――」
「じょ…上忍の…オレの方が、ずっと…、ずっと……弱虫なんだ…っ」
 目の奥がどんどん熱くなってきて、少しも引っこめられなくなってくる。焦って何か他のことを考えようとするけど、全然間に合わない。
「…せん、せ…、リン…、…みんな…みんな、ぁぃたぃ…、あいたいよ…!」
 上忍のクセにカッコ悪いと片隅では思いながらも、後から後から溢れてくる熱いものを、もうどうしても止められない。
 片手しか動かないせいで、どんどん顔がびしょびしょになっていく。そのうち息苦しくて、それすら構ってられなくなってきたけれど、大声でわんわんしたらこいつの病気がまた悪くなるかもしれないから、必死で声を押し殺す。

 きっと今は天国で静かに過ごしている先生やリンや大勢の仲間達も「その時」はみんな泣きたいほど辛かったに違いない。
「…オレはねっ、オレは…上忍だからっ。…だからみんなの代わりに…泣いて、あげてんの…っ。別に、オレ自身が悲しくてっ、泣きたい…わけじゃ、ない…よ…っ…」

 それでもあいつは身動き一つせず、何を言い返すでもなく、俯いたままただ黙って静かに白いシーツを見つめてくれていた。
 でも今はなぜかそのことが、体の芯がじんとして…そう、多分、切ないくらい……嬉しかった。





 なのにその日から三日三晩、オレはあいつの所に行かなかった。
 いや、行けなくなっていたと言った方が正しい。
 絶対に見つめようとせず、ずっと遠くに遠ざけ続けていた現実と正面から向き合った途端、全身の力がそれこそ栓でも抜いたように抜けてしまって、一時的に何をする気力も起きなくなってしまっていた。
 きっと自分は、こうなりそうなことを最初から何とはなしに勘付いていて、必死で逃れようとしていたんだな…と、ベッドに倒れたまま改めてぼんやりと思う。
 でもオレなんて、今この時期に向き合ったから、まだこの程度で済んでいるんじゃないだろうか。もしもそれが目覚めた直後だったら、今頃どうなっていたか分からない。
 なのにそうなることを恐れず、最初からそれと向き合っているあいつは、本当に何というか…、すごいやつだと、自分が実際にそうなったことにより、よりはっきりと思った。
 あいつは、オレには到底持ち得ない勇気を持っている。
(でも…でもいつか、オレも…!)
 胸の奥で繰り返し思った。




 ふさぎ込んでから四日目の午後。
 うらうらとした穏やかな陽気に、何となくあいつの顔が見たくなってきたオレは、そろそろと体を起こすとベッドを降りた。そして習慣から枕元に置かれていた松葉杖を手にしようとして、右足の感じがいつもと違うことに気付く。
(…あ、れ…?)
 思っていたよりもしっかりと地に足がついている感覚に、自身の事ながら驚いて動かしていると、たまたま入ってきたくノ一が目を丸くする。
「はたけ君! あなた右足動くようになったのね? すごいわ、その分ならもうすぐ退院出来るかもしれない! 今夜にも担当者全員で話し合ってみるね。良かった、ここまで本当によく頑張ったね!」

 きっとこうして片時も笑顔を絶やさず、毎日毎日、昼も夜もなく忙しく動き回っている忍医やくノ一達も、先生やリンがどうなったかということは、早いうちから何もかも知っていたのだろう。けれど、オレという弱い人間にどう対応していくのが一番いいのかを皆ちゃんと心得ていて、気の遠くなるような長い時間を、何を言われようとも辛抱強く見守ってくれていたのだ。

 今回の大戦では、優秀な忍の命が沢山失われた。
(けど大丈夫だ。木ノ葉には、まだまだすごい仲間達が大勢いる)
 オレはこの数ヶ月間に及ぶ入院生活が、全く意味のない無駄な時間のようでいて、実はとても大きな意味があったんだと、その時初めて思えた。









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