『ねぇ、オレね、もうすぐ退院出来るかもしれない!』
 一刻も早くそう伝えたくて、オレは勢い込んであいつの部屋のドアを開けた。もちろん松葉杖は一本も持っていない。それもこれもみんなあいつのお陰だ。これであいつの肩を借りられなくなるのはとても寂しいけれど、それ以上に、あいつの手を煩わせなくなったことが嬉しかった。きっとあいつも顔には出さないけれど、とても優しいやつだから、心のどこかでは喜んでくれるに違いない。
「ょ…」
 だが入りざま上げようとしていた右手が、凍り付いたように止まった。

 部屋に、あいつの姿がなかった。
 いつも柔らかな淡い光を投げかけていた白いカーテンが一杯に開いていて、全開になった窓から入ってくる風に大きくはためいている。白いベッドにかけられたシーツが怖いくらい隅々までぴんと整えられて、真昼の光に照らされていた。
(――ぅそ…でしょ…?)
 
「ねえっ、あいつはっ? あいつはどこっ?!」
 通りかかったくノ一を捕まえると、自分でも信じられないくらい大きな声が出た。
「あいつ? …あぁ、あの子ならほら、――あそこ」
 指さされた方…窓際に向かって、勢い込んで駆け寄っていく。開け放たれた窓枠に両手を掛けて身を乗り出すと、中庭に薄い上着を羽織ったあいつと、そのすぐ隣りにもう一人、同じ背丈くらいの誰かがゆっくりと歩いているのが目に入った。
「誰なの、となりのアイツ!」
 ムッとして、つい冷たい声が唇をついて出てしまう。
「あの子の、身元引き受け人よ」
(――ぇ…?)
 瞬間、なぜか胸の奥がつきんとした。
「もう少しあの子の状態が良くなったら、あの人が彼を家に引き取って、独り立ち出来るまでの間、家族達と一緒に生活するの。今はああして面会時間を取りながら、少しずつ慣らしてるのよ」
 三階の窓から見下ろした小柄なそいつは菅笠を被っていて、顔は見えない。けれど、外でも相変わらず俯いたままゆっくりと歩いているあいつを、長い着物を着たそいつは追い越すでも、遅れるでも、立ち止まるでもなく、全く同じ歩幅と早さでついて歩いてやっている。

「――…そう」

 オレはぽつりと一言だけ答えた。





 その日も、翌日も、ついには退院の日になっても尚、オレはあいつに会いに行かなかった。
 結局、オレが泣いてしまったあの日が、あいつと会った最後の日ということになる。
 あんな記憶を一番上にしたまま、あいつの元を離れるのは嫌だったけれど、会ったら会ったでまた同じような記憶の上塗りになるような気もして、(やっぱりオレって、まだまだ弱いんだな…)などと、そこまで冷静に分かりながらも、何だかどうしても足が進まなかった。

(それに、そう…)
 もうオレ達は、それぞれの道を一人で歩み始めているから。
 あいつにこの先新しい生活が待っているのと同じように、オレにも今までとは違った新たな道が待っているのだ。
 なのにいつまでも古くて重いものばかり引きずっていては、病み上がりでまだ以前ほどには回復していないオレ達には荷が重すぎて、上手く前に歩いて行けないだろうから。

(……さよなら)
 前夜に打診が来て承諾したばかりだったが、今後オレは常に白い面を付けることを義務づけられ、コードネームでしか呼び合えない世界に身を置くことになる。

(――早く、よくなってね)
 渡された白い支給服を身に付け、数ヶ月ぶりに引き上げた口布の感触を確かめると、オレは見上げていた三階の病室に背を向けた。




  * * *



  * * * 



  * * *




「――…ぃ丈夫……? …どうか、しましたか?」

 耳に馴染んだ柔らかな声がすぐ近くで聞こえ、上忍は灰青色の右目をふっと開いた。
「――いいえ、何でもありません」
 口布の下で静かに答えると、ぴんと張り詰めていたその場の空気が、ふっと僅かだけ弛むのが分かる。
 上忍は、跪いて自分の顔を不安げに覗き込んでいる男の方を見た。
 その鼻筋には、一本の古傷がくっきりと刻まれていた。


「――残念ですが、この部隊で残ったのは、恐らく我々二人だけでしょう。しかも完全に囲まれてしまっている」
 周囲の気配を油断無く探りながら、少しでも体力を消耗しないよう凭れていた岩壁から、銀髪の上忍がゆっくりと頭を上げる。
「……はい」
 周辺にはこの黒髪の中忍の働きにより、三重にトラップを巡らしてあるものの、包囲網が刻一刻と狭まってきているのは明らかだ。全てを突破されるのは、最早時間の問題といえた。
「でも、私達には何を置いてもやり遂げなければならない、大切な任務があります」
「はい」
 黒髪の男が、返り血と泥でべっとりと汚れたベストの胸を、片手でもってぐっと押さえた。その服の下には、六代目火影から直接手渡された風影宛の密書が携えられている。
 そこには、この血で血を洗う激戦を共に戦ってきた唯一信頼出来る同盟国の風の国及び砂ノ里に宛てて、『敵の連合国や自国の有力大名に対して一時休戦、或いは条件付き降伏を呼び掛けよう』という提案が記されていた。

 昨今の戦況は刻々と泥沼化に向かって突き進んでいて、岩や霧、沼や草などの連合国を相手に、ひたすら消耗戦でしかない殺し合いを続けているに過ぎなくなっている。
 その遥か昔から片時も途切れることなく当たり前のように繰り返されてきた、最早誰にも止めようのない殺戮の黒い奔流を、今あの金色の髪の青年が断ち切ろうとしていた。
 かつて誰一人として変えようとも、変えられるとも思わなかったものに、人との繋がりを何よりも大切にすることを身をもって学んできたあの青い瞳の青年が、果敢に立ち向かおうとしている。
『その思いを自分が後押ししてやらなくて、他の誰がやれるというのか』
 こちらをじっと見つめる漆黒の瞳は、確かにそう言っていた。


「ここから飛び出したら、間髪入れず私が退路付近に固まっている敵を別空間に飛ばします。発動するのは一度だけですが、我々に活路があるとしたら、きっとその直後です」
「――…分かりました」
 やや間をおいて、中忍が頷く。
 その面差しは、一目見ただけで高い理想と強くしなやかな意志が備わっていることがはっきりと見て取れるものの、この年になってもまだ、胸の内に過ぎる様々な思いを隠しきることが出来ないでいる。

「イルカ先生?」
「はい」
 汗と泥にまみれ、憔悴しながらも驚くほどくっきりとしている瞳が、すぐ側から真っ直ぐにこちらを見つめている。
「発動後にもし万が一、何らかの不測の事態が起こったとしても、必ずオレの作った退路を、前に、進んで下さい」

「――――」

「いいですね?」

「――――」

「約束ですよ?」

「――――…」

「命令にしておいた方が…いいかな?」
 上忍が、灰青の右目と、風車のような紋様が浮き上がった左目を、にっこりと弓に細めて見せる。
 黒髪の男は、初めて見る赤い左目の紋様に一瞬驚いた様子だったが、一拍後に「分かりました」と短く答えた。



 蓄えていた最後のチャクラを一気に練り上げて発動すると、間髪入れず前方の空間が大きく歪みだした。
 やがてその強大な力が消失すると、それまであれほど濃厚に感じていた大量の人の気配が、一気に消え失せていることが分かる。
 がその直後、上忍はものも言わずにその場にどうと倒れ伏した。先を行きかけていた中忍が、即座に踵を返して駆け戻ってくる。
「…っ?! カカシ先生っ!!」
 その行為を命令違反だと咎める力は、もう上忍には残っていなかった。
「駄目です! 生きて、生きて、生きてっ! どんなことをしても絶対に生き抜いて! 必ず、絶対に、二人で里に戻るんですよっ!」
 肩を激しく揺すられた上忍が薄く目を開けると、いい年をして顔をくしゃくしゃにしている男と目が合う。
「聞いてますか! カカシ先生っ、この戦が終わった後で、皆に辛い思いをさせる訳にはいかないでしょう? ねえっ、そうでしょうっ?!」

「――…そ……で、すね…」

 そう。繰り返してはならない、もう二度と。
(…断ち、切れるのか…)
 我々忍達が、いつ果てるともなく、命じられるがままに、ひたすら連綿と繰り返し続けてきた流れを。
(――いや、やるのだ。何としても)
 愛しい人達が、もう誰の分も泣かないでいいように。


「早く前を見てっ! 立って! 歩いてーーッ!!」
 黒髪の男は、上忍の脇の下に自らの体を差し入れると、彼の体をぐっと強く引き寄せながら、勢いよく立ち上がった。更にずるずると背中を滑り落ちていこうとする右の手首を掴むと、もう一度ぐいと大きく上体を揺すり上げる。
 男はそのままキッと真っ直ぐに前を見据えると、大きくよろけながらも、一歩、また一歩と前へ向かって歩き出した。

 だがすぐに殆ど動かなくなった上忍の足がもつれだして、二人の視界が不規則に大きく揺れはじめる。
「…?!」
 と突然、男の足がはたと止まった。ばっと上忍の顔を見やったその真っ黒な瞳は、何かに驚いたように……あたかも急に何事かを思い出しでもしたかのように、大きく見開かれている。

「…カカシ、先生……あなた、もしかして、……あの時の…?」
 唯一露わになっている上忍の右の目元を、肩で大きく息をしながらも、穴の空くほどじっと見つめる。


「――…いき…ましょう…」

上忍はぐったりと垂れていた頭を、ぐいと持ち上げた。


「――ずっと……ずっと、側にいます」
 黒髪の男が、ゆっくりと、しかしはっきりと答えた。

 再び前だけを見て踏み出したその歩みは、上忍にとって不思議なほど歩きよくなっていた。


 一つになった小さな影は、時に右へ左へと大きく揺れ動く。

 けれど決して離れることなく、目指す道を進んだ。








                  「白揺 ―しらゆり―」  了



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