「――もう、下がっていいぞ」

 行燈の朧な灯りの中に、男の声が冷ややかに響く。
 抑えたその低い声は、周囲の絢爛たる襖や、男が座っている絹綿の入った高価な夜具に一瞬にして吸われ――消えた。


 本丸御殿の奥まった一室。
 一組の男女が、一枚の御簾を隔てて向かい合う。
「えっ、でも…それでは…」
 今まさに床に向かって進みかけていた女の動きが止まった。
 御簾の向こうには、白い着物に身を包んだ年若い男の姿が薄ぼんやりと浮かんでいる。
 だが、その二十歳前後と思しき銀髪の青年は、自分とは異なる方向の闇を見ていて、決してこちらを見ようとしない。
「構わぬ。何なら襖の向こうで聞き耳を立てている者と口裏を合わせて、することはしたという事にしてもいい。お前達の好きにしろ」
「そんな…っ」
 とはいえ、それはこれまでも何度も言われ続けてきた言葉だ。今回もまた、そう言われるのではと覚悟はしていたものの、実際に当主の口からそう言われると、やはり酷く堪えてその場に俯いた。
「とにかく、今夜は気乗りがしない。外せ」
 明らかに苛立ちが含まれだしたその声に、取り付く島はもう無い。
 またなのですか、と女の矜持は傷付けられ、深い失望に覆われる。
 この数年というもの、もう幾度こうして夜伽の務めを拒否され続けているかしれない。高名な高級旗本の愛娘として何不自由なく育てられ、無条件で「お手付き」になることを許されている、ただ一人の奉公人だというのに…。
 以前、一番最初に「お褥御用」のお声が掛かって彼の伽の相手を務めだした頃。
 生まれて初めて知った乳母以外の異性の体に溺れ、夢中になって自分を求めてきていた、あの初心な青年の面影は、今はもう何処にも無かった。
「――承知、致しました。…おやすみなさいませ…」
 最早そう言って下がるしか出来ることは何もなかったが、自分の役目が終わったことを受け入れるには、もう少し時間がかかりそうだった。



 衣擦れの音を残しながら静かに襖が閉まると、男は小さく溜息をついて分厚い布団にどさりと体を横たえた。
 そのまま暗がりに浮かんだ木目の美しい折り上げ天井を見上げながら、じっと黙考する。
 己が瞬きをする音さえ耳に届きそうなほど、周囲は不気味に静まり返っている。
 気難しい事で知られる若き城主の黙考の邪魔をして、その逆鱗に触れまいと、秋の虫すら息を殺しているようだった。

「――おいお前。…そこに、居るのか?」
 何を思ったか、突然城主が天井に向かって声を掛けた。と、どこからともなく「はい、忍路(オシロ)様」と小さく男の声が返ってくる。
「ここに、来い」
 命じると、ついさっきまで女官が座っていた場所に、まるで何かの影のように一人の男が現れた。半月ほど前から、城主が身辺警護にと雇っている忍だ。額当てには木ノ葉の刻印が彫られている。
 黒髪の忍は御簾の向こうに跪くと、顔を上げぬまま「御用でしょうか」とうやうやしく言った。

「――あぁ」
 忍路と呼ばれた城主はゆっくりと体を起こすと、御簾の向こうに参じた、今にも闇に溶けてしまいそうな影に向かって言った。
「今夜の伽の役目を申し付ける」
「はッ…?」
 驚いて思わず上げたその面(おもて)は、若き城主よりも更に幾つか年若く見えた。狼狽している様子が、暗闇の中にもはっきりと感じられる。

(いま、何と…?)
 確かにこの一風変わった城主は、夜ごと忍である自分にも気さくに話しかけてきていた。
 話の内容は他愛もない事ばかりだった。彼が訊ねてくるのは隠れ里の様子だったり、子供の頃の修業の話だったりした。
 だが通常、そんな事はまず滅多にあり得ない。護衛はあくまでも護衛でしかないのだ。徹頭徹尾影の存在であり、御前に出ることなく、その役目を全うせねばならない。
 もちろんこれまでも何度もそう進言したものの。
「構わぬ。雇い主が良いと言っているのだから、気にするな」の一点張りで、結局毎晩のように一刻ほども御簾を隔てて会話が続いていた。
 一旦話しはじめると、知識人で独特の雰囲気を放つ白皙の城主との会話は、年が近いこともあり悪い気はしなかった。しかも彼は、その若さに似合わず意外なほどの聞き上手だ。
 でもだからといって、今し方の命令を二つ返事で受け入れられるはずもなく。あまりに唐突すぎる命令に、若き忍は返す言葉を失って凍りついた。
(なぜ、自分が殿の伽など…)
 それまで殆ど有るか無しかだった忍の気配が、急速に濃いものになりだしたが、そんな男の狼狽など全く気にも留めない城主の真っ直ぐな視線は、御簾を突き抜けて容赦なく刺さってくる。
 御簾越しにかち合った城主の灰青色の双眸は、常に人の上に立つ者として厳格に育てられてきたことを物語るように、有無を言わせぬ強い力を秘めていた。
 落ち窪んだ眼孔の奥に行燈の光が移り込んで、ゆらゆらと揺らめいている。
 白く滑らかな肌、通った鼻筋。秀麗な曲線を描く輪郭に、きりりと吊り上がる細い眉が続く。豊かな銀髪が額に落ちかかり、朧気な灯りを頑ななまでに跳ね返して、ところどころ強く光っている。
 元々の端正すぎるほどの顔立ちと相まって、御簾の向こうの城主は得も言われぬ妖しさをたたえており、対峙した木ノ葉の忍は小さく息を呑んだ。


「――承知…致しました…」
 黒髪の忍は、掠れた声で一言そう言うと、懐に忍ばせていた短刀をゆっくりと取り出し、静かに畳の上に置いた。
 そして濃緑色の支給服を黙って脱ぎ、短刀の脇へと置く。
 その上に、外された額当てが静かに乗せられた。




  
不忍(しのばず)の系譜




 誰も居ない、たった一人の空間に、言葉に出来ない物足りなさを覚え始めたのはいつの頃からだったろう。
 それまでは、一日何時間でも書庫に溢れる蔵書を読み耽っていられたというのに…。

 忍路が下着を取り、真綿の入った布団の上に座って両膝を立てた格好で広げてやると、忍はようやく覚悟を決めたらしかった。
 股の間に小さくうずくまり、うやうやしく丁寧に自身を愛撫している男を、じっと見下ろす。こうした経験はあるとみえ、男はさしたる戸惑いも見せずに雇い主の命に大人しく従っている。
「―――…」
 仄暗い中にチロチロと蠢く、赤い舌先を見るともなく見つめる。
 勿論、先程突き返した奉公人や、時折訪れる夜伽のみを生業にしていると思しき妖艶な女達と比べると、その技巧は及ぶべくもないと感じたが、自分はそんなものを求めているのではない。
(何か…もっと、こう…)
 忍路は言葉にも、イメージにすらも出来ない『何か』を、頭の中で何度も繰り返す。『これなのか? いや、これじゃない』と。
 休むことなく愛撫されながらも、上手く思いを言葉に出来ないもどかしさや焦りが、己の奥深くに次第に溜まっていくのが分かる。
 下半身の熱は、物理的な刺激を加えられた分だけ確実に増してはいる。だが心の中は逆に一舐めされるごとに冷めていくようだった。
(なぜだ、違う…)
 この不可解な苛立ちをどうにかしたくて、思わず男の黒髪を両手で掴んだ。男はギョッとなり、すっかり体を固くして、口の動きを止めてしまう。
「続けろ」
 短く命じると、再び腰には疼くような快感が奔り始めたものの、心の靄は一向に晴れていかなかった。
 忍路は男の黒髪を掴んだまま、天井を向いて目を閉じた。
 時間をかけて愛撫された若い牡の象徴は、もうすっかり怒張しきっている。息も僅かだが上がってきた。
 しかしどういう訳か、苛立ちだけは本能に掻き消されることなく募っていく。
(違う…何かが…違う…!)
 そう、何かが。
 しかし、どこがどう違うのか、自分は何が気に入らないのかが見えない、分からない。
 自分のものは、今にもはち切れんばかりに猛り立っている。それなのに、何かが足りないばかりに行為に全く没頭できず、頭は恐ろしいほど冷めきっていた。
 次第に心と体のずれが不快になりはじめて、この状況全てが気に入らなくなってくる。
 自ら伽の相手に選んだはずなのに、丁寧に愛撫をされればされるほど、不快のもやが濃くなり、苛立ちが募っていくような気がする。
(要するに『この者ではなかった』ということか…?)
 恐らくは、そういうことなのだろう。
 何度「今度こそは」と思い、何度「この者かもしれない」と考え、幾度「きっとこの者だ」と思い込もうとしたかしれない。だが、違うものは違うのだ。悲しいかなこの心と体は頑ななまでに正直で、一切の誤魔化しが効かない。
 またしても浅はかな己の勘違いと思い込みだったのだと思い知らされる。
『今回もまた、違っていた』と思うと、胸中に失望感や虚無感が重く覆い被さってきた。

(くそ…っ!)
 やり場のない苛立ちが行き場を無くして、醜くねじれる。
 忍路は眼下で上下に揺れていた頭を両手で押さえ付けると、猛った自身を一段と深く突き入れた。
 男は苦しさの余り、雇い主の手前であることも忘れて無意識のうちに体を引いて手足を突っ張り、何とか逃れようする。
 だが忍路はそれを許さない。抵抗する男を力一杯ねじ伏せ、数度に渡って腰を打ち付けると、脈打つ自身から滾った熱いものを男の口内深くにぶちまけた。
 同時に背骨を駆け上がっていく衝撃…快感から…思わず呻きが漏れそうになるが、歯を食いしばって堪える。
 暫しの間、押し殺した小さな吐息が二つ重なり合いながら、静かな室内に響いた。


「――ぐっ……げほっ…、げほっ…」
 ようやく雇い主から開放され、体を折り曲げて寝具の上で苦しげに咳き込んでいる男を、忍路は焦点の合わない瞳で無言のまま眺めた。荒い息が二人の肩を上下させながら行き来している。男の唇から一筋、二筋と、白いものが滴っている。
 それを手の甲でぐっと拭っている様は、激情に駆られた己がやったこととは言え、陰惨な光景だと今更のように思った。
 あの灼けるような一瞬の快感が過ぎると、何故こんなにも虚しさだけが大きくのしかかってくるのか。
 以前は吐精後にここまで酷い虚無感を感じた事などなかった。こんな事なら、この男を呼ばなければ良かった、いや雇わねば良かったとすら思う。
 若すぎる統率者は、自身を持て余して己に落胆する。
(またか…)
 このまま自分はこんな意味のない行為を繰り返しながら、いつまでこの城の中で城主として生きて…いや、生かされていくのだろう。
 形だけの自由と権力を、この手に握らされたまま。



「――悪かった。…下がっていいぞ」
 忍路が声を掛けると、ようやく息の整った男は忍服を身につけ、闇に溶けていった。
 最後にチラと目が合った時、彼の表情は優秀な忍らしく、元の平静を取り戻していたかのように見えた。
 だが、その琥珀色の瞳の奥には、雇い主に対する不信感や怯えが、嫌悪となって色濃く宿っていた。


 部屋に一人きりになると、再び耳の奥を突かれるような静寂が訪れた。
 その静けさが、今は何よりも疎ましく感じられる。
 城主には、それが何の落ち度もない護衛役に対して一方的な無体を強いた報いのように感じられ、頭から布団を被った。









          TOP    裏書庫    >>