翌朝。
「紫奴(シド)、居るか?」
「――はいっ、只今〜」
 明るい声とほぼ同時に、隣室から十代半ばと思しき男が現れた。
 入ってきたその男は、焦茶色の髪と瞳を持った小柄な青年だが、その所作には他の側近のような緊張感は無く、城主の前にしては随分と心安い空気を纏っていた。気難しい忍路がただ一人、心を許している側近中の側近だ。

 忍路が元服をした十三の年、隣国への挨拶回りの帰路で病に冒されて道端で行き倒れていた乞食同然の彼を、忍路が散々に無理を言って連れ帰ったのが始まりだった。
 彼には当時から左の手の甲や首、そして頬などに大きな紫色の痣があった。恐らくはこれが原因で周囲から疎まれ、まともな食い扶持も見つからぬまま彷徨い続けていたのだろう。
 病が治り、彼にさしたる身寄りもないと知るや、忍路は自身の身の回りの世話をする者として、彼を用いると言い出した。
 勿論、周囲は猛反対だった。譲歩の余地など微塵もない、猛反対の嵐が吹き荒れた。
「そんなに新しい従者が欲しいなら、もっと身元のしっかりした、良家の者を幾らでも付けましょう」
「後生ですから、戯れでも城内でこんな物乞いの少年を連れ回すなど、お止め下さいませ。聞こえが悪うございます!」
 しかし形式的とは言え、大人の仲間入りを果たした彼の決意は固かった。
 少年に元の名を捨てさせ、紫の痣の奴…紫奴…と名乗らせると、片時も離さず側に置いた。
「誰が何と言おうと、お前はその痣を何ら恥じることはない。堂々と名に冠すべきだ」
 命名の日、少年を前に忍路は言った。
 更に、どういう訳か若き後継ぎは、自身も共に改名すると言いだした。先般、元服の儀で幼名を廃して「御代」という元服名を頂いたばかりだというのに、一体どういうことかと周囲は訝しむ。
 だが新しい名が忍路(オシロ)だと知ったとき、どこか楽観視していた周囲は初めて一様に血相を変えて猛反発しだした。
 何故、由緒正しき有力大名の跡継ぎが、わざわざ「忍」などという卑しき人殺し集団の文字を冠さねばならぬのか。例え同じ読みでも、文字が違えばその意味は天と地ほどに異なってしまう。しかも「忍路」ではまさに忍の道ということになり、到底大名の子息が付けるような名ではない。
 余りのことに、最初のうちは「若さや我が儘からくる一時的な気の迷いか、単なる冗談だろう」と大人達は鷹をくくっていた。だが、彼が全ての署名に「忍路」と記しはじめた事で、周囲は一気に大騒ぎになった。
 皆が皆口を揃えて「言語同断だ!」「幾ら若とて我が儘にも程がありますぞ」と、改名の撤回を高唱してくる。ある者は一笑に付そうとし、またある者はその事実ごと黙殺しようとする。
 元服した彼に最初に授けられた「御代」という名は、火ノ国でも五指に入る権力を有する、有力大名の父が大胆にも付けた、いかにもな名だった。
 だが本人はいつの頃からか、その名を嫌うようになっていた。
 しかも、その改名宣言を頭から否定され続けた当人は、更なる騒動を起こす。
 元服の儀のために幼い頃からずっと伸ばしていた、腰まである見事な長い銀髪を掴むと、父母らが見ている前で、懐から取り出した短剣でざっくりと切り落としてしまったのだ。
 従者や母の悲鳴が響き渡る中「気でもふれたのか?!」と、その場の誰もが思った。
 だが改名の宣言も、物乞いの重用も、単なる冗談や一時の気まぐれなどではなく、乱心でもないのだとしたら…?
 事態がお家にとって良くない方向に進みつつあることは、最早誰の目にも明らかだった。しかし、少年の中に今までにない激しい感情や全く新しい価値観が目覚めはじめたことに気付く者は、一人としていなかった。

 元服の年、突然強い自我に目覚め、自らの殻に閉じこもり始めた少年に、肉親や従者達は腫れ物にでも触るように接した。
 父親である今は亡き先代が、白髪混じりの銀髪を振り乱しながら斬り付けんばかりに激昂して幾度叱りつけても、少年の殻は破れるどころかますます強固なものへと変わっていく。
 結局、元の物静かな読書好きの少年に戻ることは無く、いや、ますます混迷の度合いを深めつつ、今に至っている。
 当時から図抜けて美しく、利発だった世継ぎが、一体何を思ってそのような奇行の数々に及んだのか。その真意は城内の誰にも分からなかった。
 唯一、彼の両親を除いては……


「紫奴、悪いがあの木ノ葉の者には褒美を弾んで暇を出してくれ」
 自らの元に軽やかに歩み寄ってきた腹心の従者に、忍路が手短に命じる。
「分かりました。――代わりは?」
「あぁそうだな、もう……あぁいや、やはり一人、依頼しておいてくれ。くれぐれも…」
「十代の、黒目か黒髪の忍を寄越すように、ですね?」
「ああ、頼む」
 だが正直なところ、あの里にもうそんなに多くの黒目黒髪の若い忍が居るとは思えなかった。恐らく、あまりにも頻繁に、しかも奇妙な条件付きの依頼をする事から、すっかり呆れられ、怪しまれているに違いない。
 相場の二割増しの報酬を提示していなければ、とうの昔に相手にされなくなっているだろう。いい加減、こんな先の見えない馬鹿げた人捜しも、やめにした方がいい。
「そうだな。次で……最後にしよう」
 決意を込めて言ったつもりだったが、その声には逡巡が滲んでいた。
「御意」
 その迷いを敏感に察知した紫奴が、冗談半分に返事を返す。
「なんだ紫奴、お前はどこでそんな言葉を覚えてきた? 今まで通り、分かったでいい」
「はい、分かりました」
 紫奴はしゅんとなって俯いた。その少し萎れた姿は、実年齢より更に幼く見えた。
 どうでもいい事についカッとなり、叱責口調になってしまった忍路は、内心で小さく舌打ちする。自分にだけは何があっても絶対服従の、この唯一無二の天真爛漫な従者以外、他に頼る者のない自分は随分と甘えてしまっている。このような関係も、城主としては早晩是正していかねばならない。

 紫奴が去った後、再び一人になった忍路は、金糸模様の美しい脇息に片肘をつくと、がっくりと項垂れた。そのような姿は、普段は決して誰にも…紫奴にも警護の忍にすら見せたことはなかったが、今だけはやらずにおれなかった。
 お家の再興と安寧。頭では分かっているものの、果たして実現する日など来るのだろうか。
 籠の中であてどもなく人捜しを続けるばかりの、おぼつかない足取りの自分に。


     * * *


 その日、気難しい城主を遠巻きにして、はらはらしながら見守っていた者達は、またしても彼が伽の女に手を付けることなく、更にこれで何人目になるか分からない警護の忍まで解任したと聞き及ぶと、一斉に途方に暮れた。
 一体彼が何を考えているのか、誰も何も理解できない。
 業を煮やして側近中の側近である紫奴に何度問いただすも「いいえ〜、オイラも全く分かりません」と、飄々とした調子で返されるばかりで、一向に埒があかない。

 先代の城主が急逝して、もう早半年が過ぎようとしている。なのにいつまでも城主がこんな状態では、代々守り続けてきた血筋が途絶えてしまうばかりか、城が傾いて従者が路頭に迷いかねない。
 城内の主立った者が集まり、隣国の有力大名の娘との婚儀の話が、水面下で密かに進み始めていた。


     * * *


 数日後。
 夜更け前になっても、月の出ない晩だった。
 二十畳はあろうかという寝所の中央で、忍路はたった一人、横になっていた。
 忍路は普段、どんな事変があろうと動じることなどない。先代が急逝した時も、のちに御家となった母や彼女が立てた筆頭家老らと実権を巡って争うことになった際もそうだった。
 だが床に入った際に見るその茫漠とした暗がりと静けさには、いつも何とはなしに落ち着かないものを感じて、なかなか寝付けないでいた。
 暗に蠢くという魑魅魍魎の類など、何ら怖くはない。そんなものは、幼い頃に蔵に忍び込んではむさぼり読んだ古書を読破した際に卒業している。
 なのに朧な蝋燭の灯りが届かない、部屋の隅の単なる深い暗がりに目を向けるたび、何故か胸の奥がざわつくのだ。
(あの男……今頃どこで何をしているのか…)

 忍路は七年前、元服の年に初めてこの寝所で出会った、とある男のことを思い出した。




 翌日に元服の儀を控えた夜だった。
 天は新月を迎えており、月は無く、襖の隙間からも殆ど光は漏れてこない。
 それどころか、ふと気付くと外に控えているはずの従者の咳払いひとつ、聞こえてこなくなっていた。
(? なんだ…?)
 寝具に体を横たえてはいたものの、なかなか寝付けずにいた忍路は、そのどこか不自然な「無の気配」に、何とはなしに不穏なものを感じ、音を立てないようそっと体を起こした。
 いつもと何かが違う。静かという表現では括りきれない、異様な静寂が自分の周囲をみっしりと取り巻いているような気がした。
 蝋燭の灯りが届いていない、御簾の向こうの暗がりを、息を殺してじっと見つめる。
(――気のせい、か…?)
 そう思ったときだった。

「――流石は若様。様子が違うことに一早くお気付きになるとは」
 いきなり浴びせられた背後の声に、心臓が飛び跳ねた。
 ばっと振り返ると、いつの間にか御簾の向こうに一人の長身の男が立っていた。
「何奴!」
 ほぼ無意識のうちに、背後に回していた手で枕の下の短刀をまさぐる。
(?!)
 だが、さっき床につくときに確かにそこにあることを確認したはずの護身用の短刀が、影も形も無くなっていた。
「これですかね?」
 男はごく何気ない様子で、手に持っていたものをくるりと回し、こちらに向けて見せびらかすようにしている。
 それはまさに、自分が枕の下に忍ばせておいたはずの、鞘に美しい螺鈿細工が施された短刀だ。
 それを見た瞬間、子供の忍路にも、その男の持つ圧倒的な力が朧気ながらも分かった気がした。
 しかしまだまだ幼い少年は、その奇術のような現実を見せられると、怖いとか危ないと言うよりは、どこか不思議な、何となく愉快な気持ちになった。
 大人なら、目の前の男が一種異様な風体をしている事にも相当の恐怖を覚えただろう。しかし城から殆ど出たことがなく、ひたすら書物に埋もれながら活字の中で生きてきた忍路には、その差異を面白いとは感じても、身の危険までは考えが及ばない。
(誰だ、此奴。こんな時分に何の用だ)
 流石に御簾から出る気にはならなかったが、すぐに襲ってくるような様子もなかったため、つい好奇心に負けて蝋燭の灯りを頼りに御簾越しに男の姿を観察する。

 男は黒い布で顔の半分を覆っており、更に金板の付いた布で、顔の左半分を斜めに覆い隠していた。
 ポケットの沢山付いた深緑色の上着の下はほぼ全身黒尽くめで、今にも背後の闇に溶けそうだ。
 しかし、忍路が一番興味を惹かれたのは、その男の髪の毛だった。
 燃えるように艶のある、見事な銀髪。
 父親も銀髪だったが、目の前にいる男の見事さは、子供の目にも歴然としていた。男が僅かに小首を傾げると、磨かれた錫のような豊かな髪が行燈の光をきっちりと跳ね返しているのが、御簾越しにもはっきりと見て取れた。
「お前、名を名乗れ。私は御代だ」
 忍路は自分でも不思議なほどに、急速にその初対面の訪問者に興味を持ち始めていた。
 勿論警戒心は解かず、視線を逸らすこともなかったが、人を呼ぼうとか後方から逃げようなどと言う考えは全く起こらなかった。
「名乗るほどの者ではありません。御代様」
 男の声は、その目元と同じようにあくまでも穏やかに響き、酷く優しく忍路の耳と心をくすぐった。
 片目しか見えない事から、年格好がまるで分からなかったが、その深みのある落ち着いた声音からそれなりの年月を重ねた大人なのだと伺える。
「お前……忍か?」
 書物で得ただけの僅かな知識をかき集めて、問いただす。
 斜めに付けている金板の刻印に覚えがあった。
「如何にも」
 男は、満足そうに応えた。









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