「何をしに来た。私に何の用だ?」
 薄い御簾を挟んで見知らぬ男と対峙した少年の声は、注意深く探るように部屋に響いた。しかし言葉の端々には、抑えきれない好奇心も見え隠れしている。
 いかにも利発そうな、きりりと吊り上がった細い眉。きゅっと結ばれた小さな薄い唇。
 警戒しているのに、どこか気だるそうな印象を与える半眼気味の瞼。通った鼻筋、少し力を入れて掴めばすぐにも折れそうな、白くほっそりとした手首。
 艶めきながら腰へと流れていく、豊かな長い銀髪。
 そして未だ、この世に蠢く畏れや汚れの大半を知らない、無垢な少年の灰青色の澄んだ瞳に、向かう男の目元が僅かに細められた。

「元服の御祝いを、申し上げに参りました」
 跪いた男の言葉遣いはきっちりと身分をわきまえていて、丁寧ではあるものの、初対面にしてはどこか妙な親しみのようなものがこもっているような気もして、忍路はどうしても身構える気になれない。
 一旦その親密な空気を感じ取ると、幼さも手伝って忍路はついつい本音が出てしまった。
「何だ、そんなことか」
「おや、お気に召しませんか?」
「下らない。あんな形だけのもので大人の仲間入りをするなど笑ってしまう。大人の考えている事は分からぬ」
「そうですか? それで大人だと認めてもらえるなら、かえって都合が良いのでは? 気に入らずとも大いに利用すれば良いでしょう。――大人ならばね」
 言いながら、男が黒い口布の下で口端を上げたのが分かった。忍路の表情が、つまらなそうなものからみるみる驚きや感心を表すそれへと変わっていく。
「お前、面白い奴だな」
 そんな事を言う者など、城内には一人としていなかった。
 皆、判で押したように「大人の仲間入りをするのだから、本ばかり読んでいないでもっとしっかりして下さい」の一点張りだった。もういい加減その台詞には飽き飽きしていて、最近では反抗心ばかりが先に立っていた。
 それをこの男は、たった一言で逆転させてしまった。
 忍路の瞳には、もう目の前の御簾などまるで映っていない。
 突然現れた御簾の向こうの名も知らぬ男に、魂ごとぐいぐいと引き寄せられていた。

「お前が斜めに付けているその刻印、木ノ葉のだな? 父上に雇われているのか?」
「いいえ」
 少年の表裏のない真っ直ぐな問いかけを、男はあっさりと否定してくる。ともすれば会話が今にも途切れそうだ。
 けれど忍路は、実際に忍を見たのはこれが生まれて初めてだった。どうしても男のことをもっとよく知りたくてたまらない。
「では、なぜ祝いなど。私は忍に知り合いなどいないぞ」
「御代様とは、以前にちょっとした関わり合いがありましたので。但し忍は常に隠密が基本ですので、それ以上は申し上げられません。何もかも明かすのでは、忍ではなくなってしまいますから」
 一見柔軟そうに見えた男のガードは思ったより固く、少年は尚のこと好奇心を掻き立てられる。
「じゃあ、さっきの刀はどうやって取ったんだ? 教えてくれ」
「残念ながら種明かしは出来かねます。そもそも忍の術というものは、他人に見せびらかす類のものではありません」
 向かいの男は、自分に対してどことなく親しげな雰囲気を匂わせているように感じるのに、なかなか側に近寄らせてはくれない。
 こちらの考えを先読みしているかのように、ひらりひらりと軽やかに問いをかわしていく。
「何だ、面白い奴なのかと思ったら、案外つまらない奴だな。いい、本を手配させて自分で調べる」
 少年は焦れて、子供らしい一面を覗かせた。するとまた、黒い口布の下で男が小さく笑ったのが分かる。
「何が可笑しい?」
「いえ。…御代様は本がお好きで?」
「ああ、大好きだ。一日中でも書庫にいたい。 明日の元服の儀など、きっと死ぬほど退屈だろうな。そんな暇があったら早く忍の本の一冊でも読みたいよ」
「確かに本はいいですね。私も大好きですよ」
「おお、お前もか?」
 忍路はようやっと男との接点を見つけられて、自然と心が躍る。
「ええ、里にいる時は常に持ち歩いていますよ。――ほら」
 だが、ジャケットの懐からちらりと見えた橙色の表紙の本は、すぐにまた懐へと消えていく。
「? 何だ、見せろ」
 暗闇で目を凝らしていた忍路は、ますます好奇心を煽られて命じた。自然と右手も一緒に出てしまう。
「駄目です。これは大人の読み物ですから。御代様にはまだ早すぎます」
 男は自分から本を見せておいて、しゃあしゃあと断ってくる。
「大人の? なら私も元服したら明日から読めるのだろう? 一日くらい平気だ。貸してくれ」
 言いながら、勝ち誇ったように再度手を突き出した。
「ふふふ、これは弱りましたね。私もまだ途中ですし。あと五年ほどしたらどうぞ」
「五年?!」
 男は近付くと見せかけては、またするりと少年の手をすり抜けていく。まるで大人しい子犬をわざと焚き付け、じゃらして楽しんでいるかのようだ。
 祝いだと言いながら祝儀の一つも持たず、こんな夜中に何の予告も無く突然現れた、黒覆面の男。
 本来なら真っ先に人を呼ばねばならない、危険人物であることは間違いない。だが何故か男との間に目に見えない親しみのようなものを感じて、忍路はどうしても人を呼ぶ気になれなかった。
 何だろう? 到底言葉になど表せぬ、とても模糊として霧か霞のようにあやふやなそれ。その正体を見極めようと懸命に注視すればするほど、その姿は夜の闇に溶けて消えていくようだった。
 しかし、生まれて初めて感じた感覚ではあるものの、不思議と不快という訳でもない。むしろじんわりと温かく、ふわふわと甘く心地よく、それは小さな胸に、どこか切ないほどだった。


「では、この刀はお返ししておきます」
 男は、暗がりの中で仄かに光る螺鈿細工の短刀を畳の上に置くと、長居は無用とばかりにすっと音もなく立ち上がった。
 そのまま帰るつもりであるらしいことは、その場の空気が教えている。
「っ?! ――待て、待ってくれ!」
 忍路は慌てて布団を蹴って立ち上がった。
 勢い良く片手で御簾を払いのけると、そのまま後先考えずに、見ず知らずの男の前に立った。もう手を伸ばせば、十分触れられる距離だ。指無しの手袋をはめた、目の前にある大きな手を掴んで引き止めたかった。
 だが出来なかった。近くに行くと、男からは「それ以上近付くな」という無言のサインが出ている気がした。そんなもの無視すればいいという声も頭の隅で小さく聞こえたが、結局自分の手は最後まで動かせなかった。
 一瞬そのまま逃げられてしまうのではないかと焦ったが、男は何ら動じる様子もなく、ただ高い所から黙って自分を見下ろしてくる。
 もはやうやうやしく跪く素振りも見せず、ただ真っ直ぐ、右の瞳だけが射抜くような鋭さでもって、少年の心と体をその場に釘付けにしている。
 忍路にはその目が『なぜ丸腰なのに御簾から走り出て、こんな見ず知らずの者の前まで来たのか?』と、考えのない無謀さに怒っているように見えた。
 最初に男が自ら示していた明確な身分差も、決して長くないこの会話の最中に、消えて無くなっていた。いや、心理的にはすっかり逆転していたと言っていい。
 忍路はこんな間近で誰かに見下ろされるという経験が、父親以外にはまず無かった。もしこれが他の者なら、十三年間の間に身に付いた経験と躾から、無礼だろうと腹を立てていたかもしれない。
 だが、この男に見下ろされることには、どういう訳か全く抵抗を感じなかった。むしろこうして見上げる状況を、ごく自然なものとして素直に受け入れていた。
 何が自分にそんな風に感じさせたのか、理由は今もってよく分からない。圧倒的な力量差か、常に全身から滲む不思議な空気か、それとも――自分と酷似している銀色の髪か。
 いずれにせよ、ほんの短い間に、忍路は目の前の男にすっかり魅入られてしまっていた。
「かっ…、帰るのか?」
 忍路は男の右目を真っ直ぐに見上げながら、内心恐る恐る問うた。
「はい」
「明日また来い! いや、来てくれ。…そのっ、また…会いたい」
 無口で書物が友達だった忍路にとって、生まれて初めて口にした懇願の言葉だった。照れ臭さや、幼いながらも既に身に付いていたプライドから、最初はなかなか上手く言い出せなかったが、夢中で喉から押し出した。
「――――」
「…だめ、なのか?」
「ええ。用もないのに来ることは出来ませんので」
 男の声が、急に険しい色を帯びたように感じられると、忍路は言いようのない焦燥感を覚えた。
 自分はどこかで質問を間違えたのではないか。もっと他に言いようがあったのではないかと、後悔と不安が交錯する。
 このまま男を帰してしまうと、もう二度と会えない気がした。何とかしなくてはと、拙い言葉を必死に選ぶ。
「そんなもの…っ、そんなもの、理由なんて何とでも作ればいいだろう?! 私は明日、大人の仲間入りをするんだ。それこそ大いにそれを利用してっ…」
 しかしそれ以上は、男がゆっくりと首を左右に振ったことで続けられなくなってしまった。片方しか出していない目を閉じると、男はふう、と小さく溜息をつく。
「本当の大人の世界とは、そんなに簡単なものではありません。明日からはそれが嫌でも分かっていくでしょう」
 その声音自体はやんわりとしているものの、端々にはぴしりとはねつけるような強さも含んでいた。
「なっ…、では、どうしろと…」
「読書も大事ですが、色々な人間とじっくり時間をかけて話さないと、真の意味での大人の仲間入りは出来ませんよ」
「話を逸らすな。私は、お前がまたここに来るかどうかと聞いているのだ!」
「そうでしたね。では、若様が本当の意味で大人の仲間入りが出来たと判断したら、また参りましょう」
「本当の…大人の仲間入りだと? そんな事、お前にすぐ分かるのか?」
 忍路の訝る姿に、男は心外だといわんばかりの少し大袈裟な手振りをして見せる。
「当然です。私を誰だと思っておいでで?」
「絶対だな? 約束しろ」
 すると男はハッとするほど静かな眼差しで、忍路から一瞬たりとも視線を逸らすことなく、ゆっくりと頷いた。
 今から思えばとてつもなくあやふやな定義の約束だったが、利発で挫折を知らぬ幼い少年は(簡単だ、そんなもの。すぐにやってみせる)と鷹を括る。

「――ああ、あと一つ」
 男は思いだしたように言葉を継いだ。
「今夜の事は、私と御代様だけの秘密です。もし他言なさったなら、二度と会うことは叶わなくなります」
「分かった。約束しよう」
『だから、お前も必ず約束しろよ?』と、喉元まで出かかった言葉を、辛うじて押し止めた。
 きっとこの男は、自分と同じように何度もくどくどと言われるのが嫌いだ、と何となく思ったのだった。









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