「では、これにて」
 男の辞去の言葉は力強く冷静で、自分が引き止めてどうこう出来る隙間など、もはや毛筋ほども無かった。
 それでも自分とあの男の間に、大きな年の差はあっても深い溝はない気がする。理由などない。ただそう思う。
 そしてそのことに、強く惹かれた。
(絶対にまた来い……いや、来させてみせる!)
 忍路は、自分と同じ色の濃い灰青色の瞳を、真っ直ぐ見上げた。

 そして、たった一度だけ瞬いた刹那。
(?!)
 今の今まで目の前にいたはずの男の姿が、嘘のように掻き消えていた。
(ぇっ?!)と周囲を見渡すと、その動きが合図だったかのように、耳に何かが詰まっていたかのような静寂が打ち破られ、ざわざわとした周囲の物音が一斉に聞こえ始めた。
 虫の声、庭木のざわめき、襖の外に待機している従者の小さな咳払い、本丸の回廊を吹き抜けていく風の音……。
 それらがまるで、堰き止められていた時間が動き出したかのように、忍路の耳に一気に押し寄せてきた。
(なっ…?!)
 慌ててキョロキョロと辺りを見回す。
 御簾の影も、高い天井も、部屋の隅の暗がりや、華麗な彫刻が施された欄間の向こうに至るまで、あの男が今ここに確かに存在していたという証を、忍路は必死になって探した。
 だが、行灯の油がさっきより多少減っているという事実以外は、これが現実だったのか、はたまた単なる夢だったのかを確かめる術は、何一つ残されていなかった。


 暫く後。
 男の姿を探すことを諦めた忍路は、まだ幾分か高鳴る胸を押さえ、再び床に入った。
 いつもの習慣で、男が置いていった短刀を枕の下に忍ばせる。
 そうして今しがたまで男が居た方向を向くと、そこで二つの目が確かに見たもの、心に響いた言葉の一つ一つを、ゆっくりと順を追いながらつぶさに反芻した。
 例えあれが夢幻の類であったのだとしても、決して忘れないように。
 全ての記憶を一通り、気の済むまで反芻し終わると、つい先ほどまでは何の興味も無かった螺鈿細工の短刀が、思いの外大切なものになり始めていることに気づいた。
 忍路は冷たい枕の下に再び右手を差し入れた。
 そして短刀をそっと掴むと、目を閉じた。



     * * *



(――あの男…また、会いたい…)
 忍路は子供の頃脳裏に焼き付けられた記憶を、まるで昨日のことのように思い出しながら思った。
 枕の下に手を入れると、七年前と同じように、そこにひんやりと固い螺鈿細工の短刀の感触がある。
 その密やかな行動は、なかなか寝付けない夜などにもう幾度となく繰り返されて、すっかり習慣となっていた。
 あの男のことを思い出すと、最初のうちこそ胸が高鳴るものの、やがてはとても穏やかな気持ちになれた。
(ふ、――本当の大人になったら、か…)
 その口元に浮かんだ小さな微笑が消えれば、もうすぐそこに束の間穏やかな時間が待っている。


「――忍路様」
 唐突にどこからか男の声が掛けられたのは、そんな時だった。聞いたことのない声音に忍路はカッと目を見開くと、夜具の下で息を殺す。
「誰だ」
 言いながら、短刀を握った手に自然と力が入った。どれほど時間が経っても、耳の奥に残った「あの男」の声は特別だ。他の誰かと聞き間違えることなどあり得ない。
 あれから剣術にも興味を持ち、嫌で嫌でたまらなかった武道の稽古にも身を入れてきた。今では数人の賊ならば容易に切り伏せられるだけの技量は身に付けている。
 だが、ぴりぴりとした忍路の神経をあやすように、戻ってきた声音は柔らかく、丁寧で落ち着いていた。
「まだお休みにはなられませんか? 御依頼を受けておりました木ノ葉の中忍で、勇名(イサナ)と申します。到着が遅れまして申し訳ありません。宜しければお目通りを」
(なんだ…)
 どうやら新しく雇うことになった、護衛の者らしかった。
 到着次第、いつ何時でもいいから挨拶に来いと伝えろと、紫奴に言いつけてあったことを思い出す。
「起きている。来い」
 言うや、御簾の向こうにうずくまった黒い影がふっと現れた。忍路の命あるまで、このまま片膝を付いて頭を下げ続ける。城主はその姿をじっと見つめた。
 『人は頭を下げている時にこそ真の姿が現れている』という名著の一文を信じるなら、礼儀正しく頭を下げたその居住まいには微塵も下卑たところがなく、あたかもそこにだけ凛とした瑞々しい空気が取り巻いているように見える。
 男の髪は、依頼通りの美しい黒髪だった。行燈の僅かな光すらその艶めきに跳ね、小さいながらも確かな輝きへと変わっている。その黒髪はきっちりと一つにまとめられ、頭頂付近で高く括られていた。
「顔を上げろ」
 はい、という言葉と共にすっと上げられた瞼の下からは、背後の闇よりもまだ深く濃い、黒々とした瞳が現れた。そのまま忍路の視線と正面から合う。
 大きくはないが、とても実直で廉潔そうな、黒目がちな目。そこに長くみっしりと生え揃った睫毛。きりりと結ばれた意思の強そうな口元。そしてそれらをぴったりと覆う、薄く滑らかな浅黒い肌。
「イサナ、か」
 忍路は青年の名を呼んだ。
「はい」
 年の頃は十八、九というところか。落ち着いた物腰から、ともすれば自分と同い年くらいに見えなくも無い。
「宜しく頼む。何か分からない事があれば、紫奴に訊くがいい」
「承知致しました」
「――ああそうだ、勇名」
 城主の声のトーンが、気持ち柔らかくなって呼び止める。
「はい、忍路様」
「お前は、人と話をするのが好きか」
「…は? …えぇはい、そうですね。嫌いではありません。両親も話し好きでしたので」
 思わぬ問いかけに、勇名の眉が額当てのすぐ下で不可解そうに寄せられているのが見える。忍にしては珍しく、顔に出るタイプらしい。
「そうか。お前の話を色々と聞きたい。ここは酷く退屈なのだ。頼むぞ」
「話…ですか?」
「何でもよい。子供の頃の話でも、修行の話でも、家族の話でも」
「ゃ、しかし…」
「忍は表になど出ぬし話さぬというのだろう? お前達のその常套句はもう聞き飽きた。雇い主が良いと言っているのだ、構わんだろう。その代わり、オレも自分のことを話して聞かせてやる。それでいいだろう」

 勇名は、暗がりではいと頭を下げたのを良いことに、形の良い眉を再びひそめた。
(「それでいいだろう」って…いい訳ないじゃないか…)
 この忍路という若き城主、風の噂ではかなりの変わり者と聞き及んでいる。口の悪い同胞など、馬鹿殿などと呼んでいたくらいだ。
 自分はそこに、護衛役として雇われた。とはいえ、気を抜くわけにはいかない。この一見平和そうに見えて、その実政情不安定な昨今、若き有力大名の身を守る任務は存外重要な意味を持っている。その失敗が、引いては新たな国内紛争の火種にもなりかねないからだ。
 そんな状況下で、雇った警護の忍とよもやま話をしようなどと初日から持ちかける、この昼行灯ぶりはどうだろう。
 枕元にも様々な種類の書物が乱雑に、広範囲に積み上げられており、もしもの時に退路を阻まれなどしたら危険極まりない。
 これは確かに同僚の言うところの「馬鹿殿」か、よしんばそうでなかったとしても、「好きなことだけしていれば、いつ死んでも構わない」くらいは思っていそうだな…と容易に推察できた。
(これは、護衛以前の問題だな)
 やれやれと、思わず溜息が出そうになる。それと同時に、自分では父親譲りだと思っている少々お節介な性格が、無防備な城主を前に俄然頭をもたげてくるのをどうしても止められない。


「忍路様、それはまたおいおいさせて頂くと致しまして。まずはこの周りにある書物を脇に片付けさせて頂きたいのですが。もしもの時、お足元が危険ですので」
 忍路は内心で鼻を鳴らした。ふんまたそれか、と思う。まずは話をしようと言ったのに、それをさらりと後ろに受け流して何を言い出すのかと思いきやだ。
「構わぬ。気にするな。まずは話だ」
 その言葉はもう聞き飽きた。
「いえ、いけません。先に片付けを」
「貴様、聞こえなかったか。構わぬといっている」
「よく聞こえております。それに対して、いけませんと申し上げております」
(――何だと?)
 今までも何度か「本をどかした方が…」とやんわり進言されたことはあったが、ここまでしつこく真正面から食い下がってきた者などいなかった。どの者も自分の一言で大人しく引き下がっていた。
 その頑なな物言いが、例え幾多の実戦経験から導き出されたものだったとしても、到底強情からくるものとしか受け取れない。相手は雇い主であり、城主なのだ。
「くどいぞ。本に囲まれると落ち着くのだ。オレがよいと言っているのだから一切構うな。いいな、これは命令だ。黙って従え」
「なりません。今すぐ移動する許可を」
「うるさい、少し黙れ。そこまで雇い主に刃向かった者など今までただの一人もいなかったぞ」
「では私が一番目ということで諦めて下さい。何事にも最初というものはつきものです」
 勇名の言葉はどこまでも真っ直ぐで、曲げられるものなら曲げてみろと言わんばかりだ。
(ったく、何だ此奴!)
 たちまち忍路の中の征服欲が刺激され、生意気な若い忍を即刻黙らせたくなる。
 本に囲まれていると落ち着くというのは本心だ。
 伽の女を断り、とある事がきっかけで人捜しを始めたものの、探している者が一向に見つからないとなった頃から、どんどん書物が自身の周りを取り巻き始めていた。
 自分でも気付かぬうちに、本がいつしか精神安定剤のようなものになりつつあったのだ。
 なのに正直な気持ちを汲んでもらえず、なかなか素直に引き下がろうとしない勇名に業を煮やした忍路は、つい意地の悪い言葉を投げ付けてしまう。
「おいお前、さては自分の忍としての技量に自信がないのだな?」
 すると勇名はくっきりとした目元のまま、雇い主を真っ直ぐに見上げた。
「何とでもどうぞ。今の私は、あなた様をお守りする事のみに執心しております故、どのような辛辣なお言葉も痛くも痒くもございません。気に入らぬと仰るなら、その短刀で私をお切り付けになっても結構。勿論、私も殿をお守りしなくてはいけませんから、大人しく切られる訳には参りませんが、雇われている以上、お怒りの全てはお受けいたします。それでお気が晴れるならどうぞ、そうなさって下さい」
『その代わり、己がやらねばならぬと思った事は、是が非でも貫き通す』と、この忍は暗に宣言していた。
 声音も最後まで欠片も荒ぶることなく落ち着いたもので、苛立った忍路の胸を衝くには充分な響きだった。

「――ふん、強情な奴め」
 虚を突かれ、咄嗟に返す言葉を失った若き城主に、最早説得力のある台詞は見つからない。
「言われ慣れております」
「好きにしろ」
「有り難うございます、忍路様」 
 ずっと跪いていた青年は、音もなく立ち上がった。

(勇名、か…)
 初対面からいきなり言い込められてしまい、正直かなり腹が立った。だが、冷静になっていくにつれ、(この忍、不思議と憎めない奴だ)と忍路は思った。
 自分と同じほどもあろうかという、すらりと高く伸びた躰が御簾を上げて近付いてくるのを、忍路は寝具に座したまま黙って見上げた。









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