「お前、姓はなんと言う?」
 てきぱきと手際よく枕元から書籍の山を片付け終えた勇名が、城主の前から下がろうと頭を下げた時。
 またもやどうにも意味不明な質問が投げかけられて、木ノ葉の中忍はまたもや額当ての下で形の良い眉を寄せた。忍の姓など聞いて、何になるというのか。
 とはいえ、無視する訳にもいかない。曲がりなりにも問うているのは雇い主なのだ。ここはひとまず答えるにしても、今後どの程度の距離感を保つべきか、早めに判断せねばるまい。


「――はい。……海野、と」
「そうか」
 束の間逡巡したらしい男が、それでも今度はあれこれ口答えせずに応えてくれたことに、忍路は大いに満足していた。正直その名前には、何の心当たりも無かったのだが。
(でももしも…もしもいつか、あの黒覆面の男が来たなら…)
 知っているかと、訊いてみるのも悪くないと思った。
 とはいえあいつの事だ。恐らくは上手くはぐらかして、何も答えないまま消え去るのだろうが、その際の反応を見てみたい気がした。

 勇名が辞去の言葉を口にして闇に溶けると、忍路は再び冷たい床に体を横たえた。周囲をぎっしりと取り巻いていた書物が無くなったせいで、何やら首元の辺りがすうすうすしたが、想像していたほど悪いものでもない。
 そして、いつものように枕の下に短刀を忍ばせる。
(勇名…)
 男は少し愚直なくらい真っ直ぐだった。なのに自分でも意外なほど興味を覚え始めていて、それはその昔、黒覆面の男に対して抱いた感覚に、どこか似ていなくもなかった。
 短刀を包む、ひんやりとして滑らかな螺鈿細工の感触を手中に感じながら、忍路は今度こそ深い眠りの闇へと落ちていった。



 それからも忍路と勇名はことあるごとにぶつかり、度々激しい口論となった。
 城内の護衛水準の向上と再配置、外出の際の従者の付かせ方やその者達の訓練内容。万一の襲撃の際の手順の打ち合わせから、城内の者の中に不審者がいないかの洗い出し。果ては先代が亡くなって当主が代わった事で志気の落ち始めていた従者らの、綱紀粛正の進言にまで及んだ。

「ええい、鬱陶しい! 忍は忍らしく影で大人しくしていればいいのだ。いちいち日なたにまで出しゃばらずとも良い!」
 時に城主は、その豊かな銀髪を振り乱す。
「申し訳ありません。城内の警護に関する全ての条件が整ったならばそう致します。今暫くのご辛抱を。現在の状況では、いつでも襲って下さいと外に向かって公言しているようなものですので」
 勇名は揺るぎない自信と言動でもって、城主の命令を静かに退けてゆく。
 内心、噂通りの変な城主だと思いながら。
 普通忍を雇うような大名ならば、自身の命や財産を守るためとあれば、どんな忠告でも二つ返事で聞き入れているところだ。
 だがこの城主は違った。
「その万が一の時のためにお前がいるのだ。黙ってその役目だけ果たしていればよい。大体お前がいれば、曲者もおいそれとは手出しできまい。あれこれ出しゃばるな。静かにしていろ」
「お言葉ですが、それだけでは殿のお命は守れません。折角安くない契約金をお支払いなのです。この際私めをとことんまでお使いになっては如何ですか?」
「黙れ! 余計なことにまで口出しせずともよいと言っているのがまだ分からんのか?!」


「――余計なことではありません。殿にとっては他の何よりも大切なことです」
(くっ…此奴…!)
 忍路は、ここまで他人と激しく自身の意見をぶつけあったのは久しぶりだった。一時期口論が絶えなかった実父母以来だ。
 過去に、彼ほど城内の警護に関して指摘を繰り返した忍はいなかったし、彼ほど粘り強くその意見を貫き通そうとする忍もまた、誰一人としていなかった。
 初日には思わず折れてしまった忍路も、昔から連綿と続いてきた仕来りや、今まで良しとしてきていた自身のやり方をことごとく改めるよう指摘されだすと、どうにも心穏やかで居られなくなってくる。
「そこまでやらずとも良いと言っているのがまだ分からぬか。それは先祖代々、千古の昔から連綿と続いてきている仕来りなのだ。口出しは無用だ」
「いけません、敵はおのが生きるため、殿のお命を取ろうとやって来るのですよ? その者が仕来りなぞ重んじるはずがありません。しかも時代は刻々と変わってきております。もはや目的を遂げて僅かな日銭さえ手に入れられれば、刺客としての手並みの出来不出来はもちろん、人としての最低限の情けすら、取るに足らぬものというのが今の忍の風潮なのです」
「ふん、そうか。そうまでしてこの命が欲しいなら、くれてやるわ」
「忍路様。殿のお命とは、それほどまでにお安いものなのですか? ならば最初から忍なぞお雇いにならずとも」
「――っ、貴様ッ…!」
 思わず大股で歩み寄り、勇名の襟首を掴んで息のかかるところまで勢いよく引き寄せた。眉が苦しげに寄っているが、抵抗する様子はない。
 なぜか勇名相手だと、無性に黙らせたくなった。
 他の者なら完全に無視か一喝で済ませているような指摘でも、いちいち心の中の何かが引っ掛かって、正面から相手をしてしまっていた。
 時として、あまりの妥協を知らぬ真っ直ぐさに思わずカッとなり、愛用の短刀ではなく、刀掛けから刀身の長い太刀を掴むや仁王立ちになることもあった。そんな見てくれだけの重い拵えなど、年に一度すら手にすることのない、風景にも等しいものだったというのに。
 どういう訳か、この黒髪の前では上手く冷静を保てないのだった。
 しかし、相手は幼き頃から実践を積み重ねてきた護衛のプロだ。しかも際立って賢いときている。
 いかに忍路が膨大な書物から得た知識で理論武装しようとも、忍の経験と一点の曇りもない矜持の前には、もはやなす術がなかった。その上、刀の切っ先が眉間に向かってくるのを見ても、澄んで落ち着き払った勇名の黒々とした瞳と対峙するに至ると、もうそれ以上何をどうすることも出来ない。忍路は怒りと白刃の矛先を、渋々ながらも元の鞘に収めるしかなかった。


 だが、一度だけこんな事があった。
 秋風に初冬の冷気が混ざり始めた夜更け前。城内が寝静まろうとしている頃合いだった。
 例によって、勇名が御簾の向こうに現れた。
 跪き、俯いて「お聞きしたいことがあります」と静かに言った。
「何だ」
 忍路は読んでいた書物から目を離さないまま答えた。昼間にも警備の件で一悶着あったばかりだった。またかという思いが、自然と語気を荒くする。
「紫奴様の事ですが」
「紫奴がどうした」
「あのお方の素性は、ご存知で?」
 途端、忍路の細い眉がきり、とつり上がった。
「もしやお前、紫奴まで疑っているのか? ならその必要は無い。オレが行き倒れて身寄りの無いあいつを、直接拾ったのだ」
「お言葉ですが、それがあのお方の何の身の保障になりましょうか?」
「黙れ。何も知らぬお前が口を出す事ではない。紫奴はこの七年間、実によくやってくれている。今更素性など興味もないし、疑う必要も無い。下がれ」
 忍路はまた、心の奥で歯痒さとも苛立ちともつかぬものがざわざわと動きだすのを感じ、それを振り払うべくぴしゃりと言い切った。
 何故この男は、自分の触れられて欲しくない所にばかりこうもずかずかと入り込んできては、遠慮のかけらもなく真っ直ぐに手を伸ばして事を荒立てようとするのか。
 色々な話を聞きたいとは言ったが、こんなに押しつけがましく、無礼で不愉快な話など願い下げだ。
 忍路は書物を閉じて脇に投げると、 座していた布団から立ち上がった。薄香色の衣が擦れる、微かな音だけが部屋に響く。
 無造作に御簾を片手で払い、畳の上へと踏み出した。
 そして跪く勇名の前に立ちはだかって背高い体を屈めると、深緑色のジャケットの襟を両手で掴み、ぐいと勢い良く自らに引き寄せた。
 彼は苦しそうに顔を歪めたが、いつものようにぐっと押し黙り、されるがままになっている。
「いいか、よく聞け」
 忍路は己の中の苛立ちを、勇名の耳に、瞳に、そして彼の心の奥底に直接ねじ込むように言った。



     * * *



 七年前。元服の儀の帰りだった。
 形式的に大人の仲間入りを果たした忍路は馬に跨り、ぼんやりと昨夜の出来事を反芻していた。
 朝のうちこそたっぷりと金糸の施された羽織と無駄に長い脇差しが重く、時間をかけて結い上げられた長い髪が鬱陶しかったが、面倒だった通過儀礼を終えた今となっては、その事すら脳裏から追いやられていた。
 あの寝所に訪れた銀髪の男の事が、一向に頭から離れていかない。いや、時間と共に、ますますその存在は己の中で大きくなっていくばかりだ。
 元首の御前での厳かな儀式など、まるで上の空だった。
(…大人に、なったら――)
 自分が大人になりさえすれば、あの男にまた会える。
 会ってもっともっと色々な話をしたかった。聞きたいことだって山ほどある。
 だが彼は、「元服の儀を済ませただけでは本当の大人ではない」と言った。
 でもそれは、自分でもそうだと思う。あんなもので、突然自分や周囲の何かが変わるわけはないのだ。
 夕べは(大人になる? そんなもの簡単だろう)と、安易に思ったものの、いざ具体的に、(じゃあどうすればいいのか?)と考えると、はたと思考が止まってしまった。しかも彼は、「色々な者と話をせよ」とも言っていた。他人との会話など面白くもないし面倒なだけなのだから、出来る限り避けたいというのに。そんなことをするくらいなら、中身のある本を一冊読んだ方が、遙かに身になるだろうに。
 大体、分からず屋の城内の者や、体面ばかり重んじる両親らとは話をしたくなかった。
 そこまで考えたとき初めて、自分はとんでもなく大変な約束をしてしまったのではないか、と思うようになっていた。
 どうしたらあの男の言う「真の意味の大人」になれるのか。
 皆目見当が付かなかった。

 道端の草陰に、倒れ伏した人の姿らしきものがちらりと目の端に留まったのは、そんな時だった。
(? …死んで、いるのか…?)
 忍路は手綱を左に引くと、何の断りもなくいきなり列を外れた。従者らが慌てふためいて背後で何か叫んでいるのが聞こえたが、きれいに無視した。
 草むらに馬を入れると、やはりそれは人だった。みすぼらしい布きれをまとっただけの背部をじっと見下ろす。
 先頭の者達が、道で行き倒れていたこの者を、ここに放り投げて隠したらしかった。
 痩せている自分より更に小柄で、どこもかしこもが痩せ細って酷く汚れている。焦茶色の髪など、土埃で真っ白だ。こんなに汚れた者など、生まれて初めて見たといっていい。
 この者は生きているのか、それとも死んでいるのか。書物で死という文字は頻繁に目にするものの、実際にそうなっている者を見たことはまだない。
 少年は最初、単なる好奇心から馬を降りた。
「御代様、お止め下さい!」
 背後から馬の蹄の音と、悲鳴にも似た制止の声がする。
 だが、そんなものは右から左に抜けていた。
「おい、お前」
 肩を掴んで揺すった。掴んだ肩はまだ温かい。微動だにしないものの、まだ生きているらしいことが分かる。
 仰向けにすると、少年だった。意識は朦朧としており、泥と垢で汚れて土気色をした顔に玉の汗が一杯に浮かんで、苦しげに息をしている。首筋にから顔にかけて、紫色の大きなアザのようなものが浮いていて、これは何だろうと思う。
「何をしておられるのです! 後生ですから離れて下さい!」
 ばらばらと駆け寄ってきた従者達は、忍路の足下にいる少年を見るや、一様に血相を変えて叫んだ。
 しかしその大人達の反応を見た忍路の脳裏に、ふと(この者達を説き伏せたなら、それは即ち大人ではないだろうか?)という思いがよぎった。
(そうだ、きっとそうだ)
 瞬間、心が躍った。しかもこの者なら、何か城外の面白い話が聞けるかもしれない。








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